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炎の夜

六月二日、未明。

 雨は上がったが、京の空気はなお湿りを含み、低い霧が路地の石畳にまとわりついていた。遠くで太鼓が鳴る。ひとつ、ふたつ――やがて地を這うような重さを帯び、連なっていく。


 「――敵は、本能寺にあり!」


 丹波街道を下る一万三千の列は、闇の長大な背骨のごとくゆっくりと京に進入した。槍の穂先が霧の粒をはじき、馬蹄のひずみが路地を震わせる。鎧の継手が擦れる微かな金属音さえ、夜の湿りに増幅されるようであった。


 そのころ、本能寺では――。


 書院の奥で、織田信長は面頬めんぽうをつけていた。薄く黒漆で仕上げた鉄の面である。戦場で敵を威圧するための具だが、この夜ばかりは、味方に“信長”を見せ続けるための道具であった。面の内側にこもる呼気が、すこし甘い鉄の匂いとなって鼻に返る。


 「門を固めよ。銃兵は庭に控え、火縄を絶やすな。油桶、ここへ運べ」


 声は静かで、よく通った。小姓・従者が素早く散る。外で火縄銃が一挺、二挺、湿った夜を破る。火薬の匂いが軒をかすめ、瓦の目地にまで染み入るようだ。


 ――この面があるかぎり、皆は“信長”を見る。


 面の下の素顔は、疲れ、痩せていた。だが面を外せば、指揮は乱れる。信長は仮面のまま、庭先へ出る。松の黒い影が炎の色を吸い、木立のあいだから、敵のときの声がじわじわと押し寄せてくる。


 「いかほどか」


 駆け寄った足軽頭が、霧に濡れた額のまま叫ぶ。


 「一万、いや、それ以上。白川口にて旗の列、限りなく――」


 その刹那、表門のあたりで爆ぜる音。槍の石突が木戸をどんどんと打つ低い拍動に、鉄砲の斉射が重なる。夜の膜が裂け、火の粉がぱらぱらと降った。


 信長は面頬を外し、軽く懐へ押し込んだ。汗と煤に濡れた顔があらわになる。星は見えない。雲の裏で、何か小さなものが消えたように感じられた。


 「皆の者――迎え撃て!」


 短い号令。庭の端で火縄が一斉に白く噴き、黒い硝煙が低く這う。第一撃で押し返すにはあまりに数が違いすぎた。押し寄せる影は波であり、こちらは石の砦ではない。寺である。


 門口の梁が軋む。ついに重い音を立てて外れ、門がわずかに開いた。そこへ敵の先鋒が雪崩れ込む。長柄の槍が庭石に火花を散らし、怒声が松の枝を震わせる。


 「……もう持たぬか」


 誰に聞かせるでもない声で信長は呟いた。そして振り向きざまに、短く命じた。


 「よいか。ここまでだ。――敵に辱めは受けぬ。寺に火を放て!」


 命は石を投げるように簡潔に放たれ、すぐさま炎になって戻ってきた。油が柱に走り、火打石の乾いた音が三方で弾ける。炎は最初、細い舌のように木肌を舐め、やがて太く、赤く、空気を呑んだ。屋根の裏板がぱちぱちと割れ、火の粉は雪のように舞い上がって、すぐ熱で消えた。


 ――最後の手段だ。


 戦い尽くして退路は絶え、残るは名の処し方だけである。ここで燃えれば、世は“信長は死んだ”と受け取る。死は肉の終わりではない。名の終わりで足りる。信長は、あえてそう考えた。


 兵たちが持ち場に散り、炎と煙が寺の回廊を這い始めたころ、信長はふたたび書院の奥へ退いた。障子越しに炎の色がじりじりと白紙を染め、ふくらんだ紙の繊維を焦がしてゆく。煙が隙間から入り、鼻の奥が熱くなる。


 「蘭丸」


 声に、足音ひとつ。森蘭丸が現れた。すでに整えられたその姿は、遠目には信長と見紛うほどである。髪の束ね方、衣の紋、佩刀の角度。声色さえ、低く抑えて似せられていた。


 「殿」


 蘭丸は膝をつき、頭を上げた。炎の光が頬の線を鋭くし、若い目に赤い影を落とす。障子の桟が熱で軋み、細い裂け目から火の舌がぴたりと覗いた。


 「ここから先は、そなたに任す。――わしの影として」


 言葉は短かったが、意味は重かった。蘭丸は微かに息を吸い、静かにうなずく。


 「承りました」


 信長はしばし蘭丸を見つめ、目を伏せた。


 「炎がすべてを焼けば、それでよい。だがもし、焼け残るものがあれば――世はそれを“信長”と信じよう」


 蘭丸は、その理を知っていた。燃え残った遺体に殿のしるしを纏わせておけば、世は疑わぬ。名の死は、火と噂で完結する。


 「……すまぬ」


 信長は言った。怒号も鉄砲も、いまは遠い。障子の紙が、乾いた音を立てて焦げ穴を広げる。


 「殿」


 蘭丸は目を細め、微かに笑った。忠義という言葉の以前に、もっと素朴な情がその笑いにはあった。敬慕、というほど整ったものでもない。少年が長く見上げてきた大人に向ける、まっすぐな心そのものだ。


 「殿がどの道をお選びでも、私は殿の側におります」


 障子の縁がとうとう燃え移り、紙がふくらんで、はらりとはがれ落ちた。炎は息を吹きかけるように部屋へ入り込み、座敷の畳の縁に赤い線を走らせる。


 信長の胸が締め付けられた。冷徹に作った策が、ここに来て息苦しくなる。理は火に強いが、情は煙に弱い。喉が痛んだのは煙のせいだけではない。


 「……やめる」


 信長は顔を上げ、短く言った。


 「この策はやめる。わしも、ここで――」


 言い終わらぬうちに、梁が軋み、天井が裂けた。燃えた小屋組が崩れて、炎の束が落ちる。突風のような熱が一気に座敷を押し、赤い光が視界を塗りつぶした。


 「――蘭丸!」


 信長が飛びかかった時には、そこに“人”はなかった。炭化した梁が斜めに横たわり、その下で焼けた衣の断片が黒く縮れている。畳に残った影は、もはや形を示さない。魂の抜けた空所だけが、はっきりとそこにあった。


 「すまぬ、すまぬ……」


 声は掠れ、涙は出ない。目は熱で乾き、喉は煙で焼ける。外で、門が完全に破られた音。庭に怒声が乱れ、銃火が近い。寺そのものが一つの大きな炉となって、内から外へ、外から内へと息をしている。


 ――ここで死ぬべきだ。


 心はそう言う。だが、次の瞬間には身体が動いた。まるで他の者が操るように、正確な経路をなぞり始める。


 本能寺は、信長が何度も逗留し、改修にも金を出した。井戸の位置、水の流れ、壁の裏に走るぬきの筋――目に見えぬ骨まで知っている。防火と避難のための細い排水溝を掘らせたのも信長で、白川につながるその暗い喉の曲がりまで記憶は触れていた。


 炎の走る回廊を抜け、庭石を二つ飛び、井戸の脇をかすめ、竹垣の陰へ。煙が低く溜まり、目の高さで渦を巻く。熱で皮膚が刺されるようだ。背後で誰かが倒れる鈍い音。名を呼ぶ声があったかもしれない。だが耳は、鼓動の方を強く拾っていた。


 水の臭いがした。石積みの黒い窪みから、湿った冷気が指先にまとわりつく。信長は身を横に折り、闇へ滑り込んだ。肩と石の間が狭い。肋が軋み、衣の紐が水に吸われる。


 ――意志は死を求め、身体は生を選ぶ。


 その乖離は、信長という人の宿命であった。理で作った“死”は、炎で成した。だが肉は、なお生の出口を探す。


 水路の吐口から、夜風が頬を撫でた。這い出ると、外はまだ暗い。背後で寺が燃える。紅蓮の柱が空を裂き、黒煙が雲に吸われていく。火の粉が疎らに降り、足元で音もなく消えた。


 「……わしは……また生きてしまったか」


 独り言は、土に沈んだ。遠くで鶏が、不意に早すぎる時を告げる。胸の内側で、硬いものがわずかに当たった。信長は驚いて懐に指を差し入れ、丸い金属の欠片をつまみ出す。


 歯車であった。南蛮時計の、鋸のような細かな歯を持つ輪。煤で黒ずみ、縁が少し欠けている。


 ――いつ、これを。


 覚えはない。炎と煙の混乱のただ中で、無意識にそれを拾ったのだろう。焼け落ちることわりの器から、わずかに残った“時”の欠片。指先に触れる冷たさだけが、確かなものとして残っていた。


 信長は歯車を懐へ戻し、しばし火の色を見つめた。あの座敷に、蘭丸はいない。名は炎に投げ入れられ、人は水路から漏れ出た。世の眼は、まもなく“信長の死”を見るだろう。では、この生は何を見るのか。


 答えはまだない。夜が明けるまでには、少し間がある。そのわずかな間に、ひとりの男の生は、仮面から肉へ移り替わったのだ。


 東の空が、うっすら白む気配を見せた。火の色は逆に濃くなる。京のどこかで犬が吠え、どこかで戸が閉まる。世界は、燃える寺の外で、いつも通りに動き始めている。


 信長は山裾の闇へ身を沈めた。足裏の土は冷え、草は湿っている。懐の歯車が胸骨に触れるたび、微かな痛みが神戻しのように意識を現に引き戻した。


 仮面は焼け落ちた。名は炎にくれてやった。残ったものは、薄い呼気と、金属の輪ひとつ。


 ――時は、なお進む。


 誰に言うでもなく、信長は胸の内でそう繰り返した。燃える寺の赤が、やがて背に遠のいていった。

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