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修羅の面


 夜半の雨が、障子を淡く叩いていた。

 安土の山に霧が立ちこめ、遠く琵琶湖の水面さえ見えぬ。

 書院の中で、織田信長はただひとつ、南蛮時計の音に耳を傾けていた。

 カチ、カチ、と、鉄の歯車が夜を刻む。


 この音が、どうにも耳障りだった。

 天下を平らげても、時だけは止められぬ。

 いや、止められぬのは時ばかりではない。

 ――この虚しさも、止まらぬのだ。


 信長は筆を取った。硯の上で墨が広がる。黒い滴が、ゆっくりと紙を染めた。

 「――西国の仕置、速やかに」

 それだけを記す。たった一行の文が、命を左右する。

 だが、それがよい。秀吉ならば、この裏を読む。この言葉に「光秀が動けば、討て」と潜ませていることを、あの男なら察するだろう。


 信長は筆を置き、濡れた紙を見つめた。

 それが、血のように滲んでいく。


 この十余年、すべてはこの一行のためにあった。

 人を斬り、寺を焼き、国を踏みしだいてきた。

 天下布武――その旗のもとに、理を捨ててきた。

 だが今、己が築いた天下のどこにも、己の居場所がない。


 「……馬鹿げたことよ」

 声が、乾いていた。


 父・信秀の影が、ふと脳裏に浮かぶ。

 かつて父は言った。「男たるもの、天下を狙え」

 その言葉に応えようとするうち、いつしか自分は“織田信長”という偶像を演じるほかなかった。

 冷徹を装い、怒りを演技とし、涙を斬り捨てる。人はそれを“修羅”と呼んだ。


 ――修羅。人の心を捨ててなお、生きようとする者のことだ。

 それが、信長という名の役だった。


 雨の音が強くなった。

 信長はふと顔を上げ、蝋燭の灯に映る南蛮時計を見た。

 鉄の歯車が、確実に時を刻んでいる。

 それが、かつて彼が信じた「理性」の象徴だった。

 だが今は、ただ無機質な死の音にしか聞こえぬ。


 「光秀――」

 小さく名を呟く。


 律義にして理を愛す。正しさに憑かれた男。

 信長は、そんな光秀を最も厄介に思いながら、どこかで羨んでもいた。

 あれは、かつてのわし自身だった。

 嘘を嫌い、理を信じ、人を欺かぬ。

 それを捨てたわしが天下を取った。

 だが、捨てたはずの己が、光秀の姿をして、目の前に立っておる。


 「光秀よ、そなたはわしの鏡じゃ。

 わしが葬り去った“本当のわし”を、いまだに生かしておる。」


 唇の端が歪んだ。

 光秀を討たせるとは、わしの理想ではなく、わし自身を殺すこと。

 わしは、わしの残り火を自らの手で消そうとしておるのだ。


 その思考の果てに、ふと、ひとつの案が生まれた。

 ――もし、光秀がわしを討ち、天下が炎に包まれたなら。

 その混乱に紛れて、わしという名をこの世から消す。


 それは理屈で組み立てられた、冷徹な策だった。

 だが同時に、それは逃避でもあった。

 生き延びたいのか、名を焼きたいのか。

 信長自身にも、もはやその違いが分からなかった。

 ただ、終わらせたかった。

 この名も、この面も、この心も。


 信長は立ち上がり、襖の向こうへ声をかけた。

 「――蘭丸」


 少年がすぐに現れる。整った顔に、まだあどけなさが残る。

 信長はその姿を見つめ、静かに言った。


 「もし明日、この寺が炎に包まれたなら――おぬしは、わしの影となれ」


 蘭丸の瞳がかすかに揺れた。それでも、何も問わず頭を垂れる。

 「この身、殿の影にございます」


 信長はその瞳に、ただの忠義ではない静かな覚悟を見た。

 悟らぬふりをして、信長は小さく笑う。


 「よい影じゃ。……おぬしの死は、わしの死よりも静かで、美しくあれ」


 その言葉は、命令でも嘆きでもなかった。

 ただ、乾いた響きを持っていた。


 蘭丸は一歩下がり、深く頭を垂れた。

 蝋燭の火が彼の頬を照らす。若さと静けさ。その影が壁に映り、

 まるで信長の影と重なるようだった。


 信長はその影を見つめながら、低く呟いた。

 「――修羅の面を捨てる時が来たか」


 その胸の奥底で、微かなものが蠢いた。

 それは恐怖だった。

 理想も仮面も殺したい。けれど、己の死だけは、恐ろしい。

 この策は、果たして逃避か、計算か。

 信長自身にも、もはや分からなかった。


 雨が強くなった。蝋燭の火が揺れ、壁に二つの影を作った。

 一つは大きく、もう一つは小さい。

 そして、やがて小さい方が、ゆっくりと闇に溶けていった。

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