プロローグ
人は、ときに、自らを焼いて生きねばならぬ。
燃やしているのが信念であればまだしも、ほとんどは他人の期待であり、名であり、立場である。
京都・本能寺跡に建つオフィスビルの最上階。
夜明け前の蛍光灯が白々と、眠らぬ人々の顔を照らしている。
その一角で、ひとりの男が机に向かっていた。
書類の山、鳴りやまぬメール。
彼の胸の奥には、すでに何も残っていなかった。
人に勝ち、成果を上げ、称賛されるたびに、心がどこか遠くへ離れていった。
引き出しから、一枚の白い紙を取り出す。
手がかすかに震えている。
黒いペンを握り、二文字だけ書いた。
――退職。
「願」と書こうとして、筆が止まった。
“願う”ほどの力も、もう残っていなかった。
窓の外には、夜明け前の京都の街。
四百年前、この地で炎が上がった。
本能寺。
あの夜も、こんな風に、夜と朝の境があったのだろうか。
ふと、机の上のスマートフォンが震えた。
画面には偶然開かれたニュースの見出し。
> 「本能寺の変から四百四十三年――信長の遺骨、いまだ見つからず」
男は、疲れきった笑みを浮かべた。
――燃え尽きた、か。
信長も、同じように燃え尽きたのだろうか。
あるいは、どこかへ消えたのかもしれない。
*
天正十年六月二日。
京の空は、まだ明けきらぬ。
細い雨が瓦を濡らし、南蛮寺の鐘が遠くで鳴っていた。
その朝、本能寺は燃えていた。
火は屋根を舐め、松明のように柱が倒れた。
煙は空を覆い、夜と朝の境を奪ってゆく。
炎の中に立つひとりの男。
直垂の裾は焼け焦げ、白布の肩口には灰が降り積もる。
面頬も鎧もない。ただ、素の顔で炎を見上げていた。
――織田信長である。
彼は燃え上がる堂宇を見上げ、低く呟いた。
「……焼けたのは名か、心か。
どちらも残っておらぬなら、なぜ、わしはまだ息をしておる……」
瓦が崩れ落ち、炎が咆哮をあげた。
そして、その炎の向こうに、誰も知らぬ影が消えていった。




