『声にならないただいま』
では今回は、少し時間が経ったある日、
“彼の視点”から、ふとした瞬間に彼女のそばに立ち、
変わっていく彼女の姿を静かに、深く愛おしむ物語を描いていきます。
彼が“もう触れられない”という事実を受け止めながらも、
それでもなお「愛している」と彼女に伝えたくなる、そんな時間をお届けします。
今日もまた、彼女は朝の光に包まれていた。
窓を開けて、深く息を吸い込む姿。
新しく買ったというコーヒーミルをゆっくり回して、
部屋いっぱいに広がる香ばしい香りの中、
彼女は静かに今日を始めている。
僕は、その隣に立っている。
声もかけられない。触れることもできない。
だけどそれでも、
僕はまだ、ここにいる。
あの日から、どれだけの時間が流れただろう。
最初の頃は、彼女の涙が胸に刺さるようだった。
僕の不在に気づくたび、あの部屋で小さく震えていたあの子。
寝る前に話しかけてくれる声が、かすれながら泣いていた夜。
ずっと寄り添っていたかった。
でも、もう僕は、彼女の手を取ってあげることができなかった。
それが、ただただ悔しくて、
何度も「ごめん」と心の中で繰り返していた。
**
けれど今。
彼女はもう、涙の中にだけ生きていない。
散歩道で小さな春の花を見つけて、
「きれいだね」って、誰にも聞こえない声で言っている。
図書館で借りた本を読んで、笑いながらページをめくる。
そして、寝る前のベッドで、
ふっと僕を思い出すような気配を残して、「おやすみ」とつぶやく。
その“おやすみ”は、もう寂しさだけじゃなく、
優しい日常の続きとしての言葉になっていた。
それが、何よりも嬉しかった。
**
この日、彼女はふとした思いつきで、
町の古道具屋に入った。
特に何を探していたわけでもない。
でも、手に取ったのは小さな木製のフォトフレームだった。
「部屋にひとつくらい、写真飾ってもいいかもね」
そう言いながらレジに並ぶその横顔が、
とても凛として見えた。
夜。
そのフレームに、あの海辺で撮った僕との写真を入れて、
窓辺の棚にそっと置いた彼女。
「…これでいいよね?」と、誰に聞くでもなくつぶやいた。
僕は答えられないけれど、
その問いに、精一杯「うん」と頷いたつもりだった。
**
今の彼女は、僕のことを“思い出”として大切にしてくれている。
それは悲しいことじゃない。
むしろ、これ以上ない幸せな居場所だ。
もう“彼氏”ではない。
もう“恋人”でもない。
でも、彼女の人生に静かに残る“光の一部”になれているのなら、
それでいい。
夜、彼女が眠る前にふと、言った。
「…明日も、ちゃんと生きるからね」
「だから、心配しないで」
その言葉が、部屋の中にやさしく響いた。
そして、彼女は深く息を吐いて、まぶたを閉じた。
僕はその隣で、何も言わずに佇む。
この世界では届かないけれど、
心のなかで、何度でも。
——「ただいま」
そう言い続けている。
彼女が生きていく限り、僕の愛もここで息づいている。
それはもう、声にならないけれど、
決して消えない“存在”になった。
⸻
次は、彼女がほんの少し未来に踏み出す日——
彼女が誰かに話しかけるように、初めて“今の気持ち”を語る日のお話、
描いてみたいと思います。
きっとそのとき、彼の存在はそっと背中を押してくれるはずだから。
今回も読んでいただきありがとうございました。
次回もよろしければ、どうぞご一読ください。