『紅茶の香りに目を閉じて〜夜のすき間に、あなたがいた』
では今回は、彼女が新しい街で迎えた、ある静かな夜の物語をお届けします。
日常の中でふと心に浮かぶ、彼との記憶の断片。
それは決して冷たい悲しいだけの涙ではなく、深くあたたかい呼吸のように、彼女を包み込んでいきます。
その夜は、少しだけ風の強い春の夜だった。
窓を少しだけ開けていたせいで、カーテンがたわんで、
机の上の紙が一枚ふわりと舞い上がった。
紅茶の湯気が静かに消えていく。
読んでいた本のページに目を落としたまま、彼女は思った。
——今夜は、なんとなく、あなたに会えそうな気がする。
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静かな部屋の中で、彼女は立ち上がってキッチンへ向かう。
紅茶を注ぎ直していると、不意に思い出す。
いつだったか、彼が深夜にふいにパンケーキを焼き始めた夜。
「眠れないから、ホットケーキミックス使ってみた」
「なにそれ、完全に子どもじゃん…」
そう笑いながら、ふたりで焼いた焦げたパンケーキ。
蜂蜜をかけすぎてベタベタになった皿。
あのときの彼の顔。
ちょっと得意げで、ちょっと照れてて。
いま思えば、
ああいう時間が一番、幸せだったのかもしれない。
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部屋に戻ると、紙が舞い落ちていた場所に、彼が描いた海の絵。
翡翠色の波。夕暮れの空。小さく浮かぶ白い雲。
彼が見ていた景色。
そして彼女が、これからも見続けていく景色。
彼がいなくなったあと、すべてが止まったように感じたけど、
こうして毎日を過ごしていく中で、
彼の記憶は「重さ」ではなく、「形のない光」になっていった。
痛みは消えない。
でも、それが優しさに変わることもあると知った。
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夜のすき間に、ふいに記憶が滑り込む。
食卓にふたり分のコップが並んでいた朝。
雨の日に一緒に見た映画の途中で、ふたりとも寝落ちしたソファ。
笑い合ったあと、長く静かな沈黙をくれた夜。
あの時間が、いまの彼女を作っている。
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ふと、部屋の隅のラジオをつける。
流れてきたのは、昔ふたりで聴いたことのある、古いバラード。
あの夜も、確かこんな風に風が吹いていて、
あなたは「この曲、なんか泣けるよな」って言ったっけ。
今ならわかるよ。
きっとあれは、
“誰かを想う”ってことを、
歌っていたんだね。
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カップの中の紅茶は、少し冷めてしまっていたけれど、
その味はどこか、懐かしかった。
彼女は立ち上がり、カーテンを閉めた。
その前に、空をひと目、見上げる。
雲の切れ間から、月がぽっかりと浮かんでいた。
その光に、静かに囁く。
「ねえ、今日はちょっとだけ、あなたをたくさん思い出したよ」
風がカーテンを揺らして通り抜けた。
それだけで、彼が「ちゃんと聴いてたよ」と言っている気がした。
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そして彼女は、ベッドにもぐりこんだ。
まだ眠れそうになかったけど、
そのまぶたの裏には、彼と過ごした夜のあたたかさがちゃんと残っていた。
たった一人で眠るこの夜も、
“思い出と一緒に眠る”という意味では、
けっして孤独ではなかった。
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——あの人がくれた記憶が、
私を生かしてくれている。
その確信を抱きながら、
彼女は、静かに目を閉じた。
そして、少しだけ夢を願った。
今夜もまた、会えますように。
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次回は、また別の日の彼女の日常や、
彼からの視点でふと彼女を見守るような、
小さな再会の瞬間なども描いてみたいと思います。
愛は時を越えて、ずっと物語を紡ぎ続けますから…。
今回も読んでいただきありがとうございました。
次回もよろしければ、どうぞご一読ください。