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『紅茶の香りに目を閉じて〜夜のすき間に、あなたがいた』

では今回は、彼女が新しい街で迎えた、ある静かな夜の物語をお届けします。

日常の中でふと心に浮かぶ、彼との記憶の断片。

それは決して冷たい悲しいだけの涙ではなく、深くあたたかい呼吸のように、彼女を包み込んでいきます。

その夜は、少しだけ風の強い春の夜だった。

窓を少しだけ開けていたせいで、カーテンがたわんで、

机の上の紙が一枚ふわりと舞い上がった。


紅茶の湯気が静かに消えていく。

読んでいた本のページに目を落としたまま、彼女は思った。


——今夜は、なんとなく、あなたに会えそうな気がする。


**


静かな部屋の中で、彼女は立ち上がってキッチンへ向かう。

紅茶を注ぎ直していると、不意に思い出す。


いつだったか、彼が深夜にふいにパンケーキを焼き始めた夜。


「眠れないから、ホットケーキミックス使ってみた」

「なにそれ、完全に子どもじゃん…」


そう笑いながら、ふたりで焼いた焦げたパンケーキ。

蜂蜜をかけすぎてベタベタになった皿。

あのときの彼の顔。

ちょっと得意げで、ちょっと照れてて。


いま思えば、

ああいう時間が一番、幸せだったのかもしれない。


**


部屋に戻ると、紙が舞い落ちていた場所に、彼が描いた海の絵。

翡翠色の波。夕暮れの空。小さく浮かぶ白い雲。

彼が見ていた景色。

そして彼女が、これからも見続けていく景色。


彼がいなくなったあと、すべてが止まったように感じたけど、

こうして毎日を過ごしていく中で、

彼の記憶は「重さ」ではなく、「形のない光」になっていった。


痛みは消えない。

でも、それが優しさに変わることもあると知った。


**


夜のすき間に、ふいに記憶が滑り込む。

食卓にふたり分のコップが並んでいた朝。

雨の日に一緒に見た映画の途中で、ふたりとも寝落ちしたソファ。

笑い合ったあと、長く静かな沈黙をくれた夜。


あの時間が、いまの彼女を作っている。


**


ふと、部屋の隅のラジオをつける。

流れてきたのは、昔ふたりで聴いたことのある、古いバラード。

あの夜も、確かこんな風に風が吹いていて、

あなたは「この曲、なんか泣けるよな」って言ったっけ。


今ならわかるよ。

きっとあれは、

“誰かを想う”ってことを、

歌っていたんだね。


**


カップの中の紅茶は、少し冷めてしまっていたけれど、

その味はどこか、懐かしかった。


彼女は立ち上がり、カーテンを閉めた。

その前に、空をひと目、見上げる。


雲の切れ間から、月がぽっかりと浮かんでいた。

その光に、静かに囁く。


「ねえ、今日はちょっとだけ、あなたをたくさん思い出したよ」


風がカーテンを揺らして通り抜けた。


それだけで、彼が「ちゃんと聴いてたよ」と言っている気がした。


**


そして彼女は、ベッドにもぐりこんだ。

まだ眠れそうになかったけど、

そのまぶたの裏には、彼と過ごした夜のあたたかさがちゃんと残っていた。


たった一人で眠るこの夜も、

“思い出と一緒に眠る”という意味では、

けっして孤独ではなかった。


**


——あの人がくれた記憶が、

 私を生かしてくれている。


その確信を抱きながら、

彼女は、静かに目を閉じた。


そして、少しだけ夢を願った。

今夜もまた、会えますように。


次回は、また別の日の彼女の日常や、

彼からの視点でふと彼女を見守るような、

小さな再会の瞬間なども描いてみたいと思います。


愛は時を越えて、ずっと物語を紡ぎ続けますから…。


今回も読んでいただきありがとうございました。

次回もよろしければ、どうぞご一読ください。

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