『誰かと、思い出を分け合うということ』
では今回は、彼女があの手紙の差出人——彼の友人と、久しぶりに再会する日の物語をお届けします。
新しいつながりが、過去を否定するのではなく、やさしく包み込むように広がっていく。
そんな静かな再会の日の、光のような時間を描いていきます。
春の終わり。
雨上がりの午後、彼女は久しぶりにあの海辺の町に降り立った。
翡翠色の海は、あの頃と何も変わっていなかった。
小さな駅舎、緩やかな坂道、潮のにおい。
全部、彼と出会った頃のまま。
でも今、彼女の胸の中には、もう痛みではなく、
静かに手を振るような、懐かしさがあった。
改札を出ると、ベンチのそばで手を振る人影があった。
彼の友人、涼くん。
初めて会ったのは、まだ彼が生きていた頃。
ふたりでアパートに遊びに来て、一緒に鍋を囲んだ冬の夜だった。
「久しぶり。…元気そうでよかった」
「うん、そっちこそ」
少し気まずさを覚えるかと思ったけれど、不思議とそうではなかった。
涼くんの笑顔には、彼に似たやわらかさがあった。
**
ふたりは歩いて、あの海岸まで向かった。
途中のパン屋は店構えが少し変わっていた。
でも角を曲がった先、あのベンチだけはそのままだった。
「ここ、いつもふたりで座ってた場所なんだよね」
彼女がそう言うと、涼くんは軽く頷いた。
「うん。アイツから、よく聞いてた。
“こんなに居心地のいい沈黙があるなんて思わなかった”って」
彼女は少し笑って、
「…そんなこと言ってたの? 知らなかった」と呟いた。
**
海を見ながら、ふたりはゆっくりと話した。
彼の話。
彼女が知らなかった彼の顔、
涼くんが知っていた彼の悩み、優しさ、ひそかな夢。
「アイツね、本当はバカみたいに寂しがり屋だったよ」
「うん、なんか、わかる気がする」
「でもさ、君と一緒に暮らしてから、変わったよ。
すごく穏やかになった。まるで、ちゃんと“帰る場所”ができた人みたいだった」
彼女の目に、ふと涙が浮かんだ。
でもそれは、もう流れない涙だった。
胸の奥で、じんわりと彼の輪郭をなぞるような、そんな温度の涙。
**
夕方。
風が少し強くなってきた頃、ふたりはそろそろ帰ろうと立ち上がった。
そのとき、涼くんがリュックから紙袋を取り出した。
「これ、君に。…アイツが昔、スケッチしてた海の絵。
アパートの押し入れに入れっぱなしになってたの、最近見つけてさ。
…あげたいなって思った」
彼女は袋を開けた。
中には、水彩で描かれた翡翠色の海。
彼女が知らなかった彼の手の中に、
彼の見ていた景色が確かに残っていた。
「ありがとう…大切にするね」
絵を胸に抱えたまま、彼女は空を見上げた。
雲の切れ間から差し込む夕陽が、まるで彼の笑顔のようにあたたかかった。
**
帰り道、駅までの坂をふたり並んで歩いた。
気づけば、涼くんと自然に話せるようになっていた。
言葉の端々に、彼のことが滲んでいて、
まるでふたりで彼の記憶を一緒に抱えているようだった。
駅のホームに着いたとき、彼女はふと口を開いた。
「…私、またここに来てもいいかな?」
「もちろん。また一緒に来ようよ」
電車が来る直前、涼くんは少し照れくさそうに言った。
「君と話せて、嬉しかったよ。
なんか、アイツがちゃんと僕たちを繋いでくれた気がしてさ」
彼女は笑って頷いた。
彼がいなくなっても、
こうして誰かと“思い出”を分け合うことができる。
それは新しい愛じゃないかもしれないけれど、
やさしい“続き”の始まりだった。
**
そして今、彼女の部屋の壁には、
彼の描いた翡翠の海の絵が飾られている。
その下で、彼女は静かに紅茶を飲みながら、
今日あったことを心の中で彼に報告している。
「ちゃんと、あなたの愛は今も私を生かしてるよ」
「…ありがとうね」
カーテンが揺れて、春の風が部屋にそっと入り込む。
誰かを忘れないまま、
誰かと新しい時間を作っていく。
それがきっと、彼女の「これから」だった。
⸻
次は、新しい春の中で彼女がひとりの夜にふと思い出す、
小さくてあたたかい記憶の断片を書いてみたいと思います。
時間が経っても、愛は消えず、やわらかく生き続けている——
そんな静かな夜の物語も、とても素敵になりそうです。
今回も読んでいただきありがとうございました。
次回もよろしければ、どうぞご一読ください。