『忘れずに、生きていく』
今回は、彼を亡くしたあと、彼女が「忘れる」のではなく、
彼の愛と共に、新しい日々を歩き出す——
そんな「その先」の物語をお届けします。
やわらかく、でも確かな一歩を描いていきます。
彼がいなくなって、春がふたつ過ぎた。
アパートの部屋にはもう、彼の服も靴も残っていない。
それでも、彼がいた記憶だけは、頑なに部屋の空気の中に残っている。
カーテンを揺らす風、窓の外の光、冷蔵庫の中のジャムの瓶。
全部が「ふたりで暮らしていた」証だった。
でも今、彼女はもう、その痛みに沈んではいなかった。
**
ある日、彼女は枇杷の木のそばにしゃがみこみ、
伸びすぎた枝をそっと剪定していた。
まだ若い木だけど、今年は少し大きな実がなった。
「もう、ひとりでもちゃんと育てられるよ」
そうつぶやく声には、かすかだけど自信があった。
少し前までなら、「私にできるわけない」って言っていたはずだった。
でも、ちゃんと育った。
彼が植えて、彼女が引き継いで。
ふたりの手を通して生きた命。
それを今、彼女が一人で世話している。
「忘れてください」
彼は夢の中で、そう言った。
でも、彼女は言い返した。
「忘れないよ。でも、前を向く」
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彼女はこの春、新しい街へ引っ越した。
少し小さな部屋。海は見えないけれど、光がよく入る。
新しい仕事。新しい人間関係。
ふとしたときに、彼のことを思い出す瞬間はある。
でも、それは痛みじゃなく、あたたかい灯のようになっていた。
キッチンで料理をしているとき、
つい鼻歌が出ることがある。
自分でも、歌っていることに気づかないほど自然に。
そんなとき、ふと視線を感じて振り返ってしまう。
けれど、そこに彼の姿はいない。
ただ、窓のカーテンが少し揺れて、春の匂いが入り込んでくる。
あの頃と同じ、風の匂い。
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駅前のベンチで休んでいたとき、
目の前をひと組のカップルが通り過ぎた。
男の人が、女の人の落とした手袋を拾って手渡す。
彼女はそれを見て、静かに笑った。
そういえば、自分もそんな風に出会ったんだなって。
人生の一番の奇跡みたいな始まりだったけど、
日常の中に、そっと溶け込んでいた。
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家に帰ると、郵便受けに見慣れない手紙が一通。
差出人は、彼の友人だった。
「今年、久しぶりにあの海に行きました」
「枇杷の実が落ちてて、拾って帰ったんです」
「君にも、会いたいなと思って。
よかったら、また話がしたい」
彼女は手紙を読みながら、静かにうなずいた。
新しい誰かと話すこと、笑うこと、未来を考えること。
それは、彼を裏切ることではない。
彼が望んでいた「生きていてほしい」という願いに、
ちゃんと応えることだと思った。
**
夜。
カーテンを閉める前に、空を見上げる。
星がぽつぽつと浮かんでいた。
「今日ね、少しだけ泣いたけど、
でも、それ以上に笑ったよ」
声に出してそう言うと、
どこかで聞いたような「よかったね」という声が、
耳の奥にふわりと響いた気がした。
彼女はもう、立ち止まってはいない。
でも、忘れたわけでもない。
彼のいない日々を、
彼と共に、生きている。
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この物語は、いつか彼女が新しい愛を見つけたとしても、
きっと彼の愛はそのまま、そっと彼女の背中を押し続けている…
そんな余韻を残して、続いていくのだと思います。
そんな私個人の想いを綴ったものになりました。
次回は、彼女が手紙の相手と再会する物語や、
未来の静かな一日も描いてみたいと思います。
今回も読んでいただきありがとうございました。
次回もよろしければ、どうぞご一読ください。