終わりを知らないまま、始まっていた別れ
では今回は、彼が亡くなる少し前の物語をお届けします。
ふたりがまだ一緒にいて、けれど少しずつ“終わり”が近づいていることを、
どこか心の奥で感じていた、静かで切ない時間を描きます。
秋のはじまり。
風が少し冷たくなって、カーテンが揺れるたびに、
夏の名残と冬の気配が、部屋の中をすり抜けていた。
彼は少しだけ咳が増えていた。
「風邪かもな」と笑って、マスクをして仕事に行って、
夜には「今日は早く寝ようか」と、先に布団に潜り込んだ。
彼女は最初、本当に風邪だと思っていた。
よくある季節の変わり目。
きっとすぐに治るだろうと。
でも、彼の笑い方が、どこか少しだけ変わっていた。
言葉の切れ目に、わずかな沈黙が増えていた。
それでも、彼は何も言わなかった。
彼女を悲しませたくなかったから。
**
ある休日の午後、ふたりは久しぶりに海辺の駅まで歩いた。
出会ったあの場所。
変わらない空、変わらない波、変わらないベンチ。
でも、そこに座る彼の横顔が、少しだけ細くなっていた。
「覚えてる?」
彼がぽつりと聞いた。
「うん。ハンカチ拾ってくれた日」
「……あのとき、ほんとは緊張してた」
「えっ、なんで?」
「君、すごい綺麗だったから」
「なにそれ、今さら~」と彼女は笑ったけど、
そのとき彼がほんの少しだけ目を伏せたのを、彼女は見逃さなかった。
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その夜、彼は彼女の寝顔を長く見つめていた。
やわらかくゆれる呼吸、寝ぼけて鼻をすする癖、
ベッドの端まで転がってしまう足。
全部、愛おしかった。
全部、忘れたくなかった。
そっと起き上がって、枇杷の木に水をやる。
もう少しで、冬が来る。
葉っぱが落ちても、春になればまた芽吹くだろうか。
彼はその小さな苗に触れながら、そっとつぶやいた。
「…ごめん。君より先に、いなくなるかもしれない」
でも、風の音だけが返事をした。
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その数日後。
彼は倒れた。
突然のことではあったけれど、
彼の中では、きっと少し前から知っていたことだったのだろう。
病名がわかったとき、彼女はすぐには泣かなかった。
ただ、彼の手を強く握った。
そして言った。
「まだ、行かないで。
…ずっととは言わない。
でも、もうちょっとだけ、一緒にいて」
彼はうなずいた。
かすかに微笑んで、彼女の髪にそっと触れた。
「わかった。あとちょっとだけ、な。」
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それからの時間は、まるで泡のようだった。
消えそうで、でも確かに存在していた。
一緒に見る朝焼け、一緒に聴く音楽、一緒にいる沈黙。
どんな言葉よりも、彼の手のあたたかさが、
「愛してる」を繰り返していた。
**
彼が旅立ったのは、冬のはじめ。
雪が降る前の日、静かな朝だった。
最後まで、彼は彼女の名前を呼んだ。
かすれる声で、「ありがとう」と言った。
彼女が涙を流したのは、その後ずっとずっと経ってからだった。
**
そして今。
彼がいない部屋で、彼女は一つずつ思い出をしまっている。
けれどそれは、忘れるための作業じゃない。
“ふたりで生きた”証を、自分の人生の中に刻み込む作業だった。
小さな枇杷の木は、静かに枝を伸ばしている。
「…もうちょっとだけ、こっちにいてくれてたらな」
そうつぶやく彼女の声を、風がそっとなでていく。
でも彼は、ずっとそばにいる。
もう姿は見えなくても、
あのカーテンの揺れる窓辺にも、
鼻歌まじりのキッチンにも、
ちゃんと、彼の愛が生きている。
次は、
彼女が彼の不在とともに新しい日々を生きていく——
そんな“その先”の物語も、描いてみたいと思います。
彼を忘れるのではなく、
彼と共に前を向いて歩いていく未来を。
どんな風に彼女は自分の心に折り合いをつけていくのでしょうか。
もしよろしければ、どうぞご一読ください。