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ただ、普通に暮らすという奇跡

今回は、ふたりが一緒に暮らし始めてからの、何気ないけれどかけがえのない日々を綴っていきます。

大きなドラマがあるわけではない、けれど思い出すと胸がいっぱいになるような、そんなひとつひとつを。

 丘の上、ここ向日葵台の少し古びた小さなアパートに、ふたりが暮らし始めたのは、夏の初めだった。


引っ越しの段ボールがひとつ部屋の真ん中に、テーブルがわりで鎮座してた、カーテンすらついていなかったけど、

朝になれば光が差し込んで、夜になればふたりの影が壁に映った。


ある日、私が職場で秘境に住んでいると揶揄われたと泣いていると、彼はイタズラげな笑顔を浮かべて、「丘の上の高級住宅街『桐花町のビバリーヒルズだ』と言い返してやればイイべや」鼻を膨らませて自信満々に笑った。


それだけで、十分だった。


**


初めてふたりで作ったごはんは、カレー。

彼が包丁でじゃがいもを切っている横で、彼女は玉ねぎを炒めていた。


「目しみる~」

「それ、換気扇つけないからでしょ」

「え? つけるの? これ?」


もちろん換気扇をつけても目は痛かった。

鼻水も出だして、鼻をかんで


笑いながら炒めているうちに、玉ねぎは真っ黒に焦げた。

でも、ふたりで食べたその焦げカレーは、なぜかとても美味しかった。


彼女がそのとき鼻歌まじりに口ずさんだのは、

駅のホームでよく歌っていた、あの曖昧なメロディ。

彼はそれを聴きながら、ふと「帰ってきたんだな」と思った。


**


ある日曜日、ベランダに布団を干したまま散歩に出かけて、

急な通り雨に降られたことがあった。


ずぶ濡れで帰ってきて、びしょびしょになった布団を前に、

ふたりでどうしようもなく笑った。

笑いながら、タオルで拭き合って、

その夜はソファでくっついて眠った。


「ふたりいれば、どこでもベッドだな」

「……今の、なんかムードある風に言ったけど、めっちゃ狭いよ?」


そんなくだらないやり取りも、

今となっては愛おしくて仕方ない。


**


冬のある夜、彼女が風邪をひいたとき、

彼は夜中じゅう、湯たんぽを抱いてお湯を替え続けていた。


「そこまでしなくても大丈夫なのに」

「ううん。これが今の僕の“精一杯”だから」


彼のそういう不器用だけど誠実な優しさが、

彼女は本当に、心から好きだった。


**


ふたりが本気で喧嘩したのは、たった一度だけ。

はじめは、洗濯機の使い方をめぐっての小さな言い合いだったのに…、

お互いなぜか引けなくなって、別々の部屋に籠もった。


心に穴が空いたみたいだった。


夜中、彼がリビングに出てくると、

そこには、そっと置かれた麦茶とメモが。


「仲直りするのを手伝って」

「ん?なんだそりゃ??」


字はちょっと曲がっていたけど、あたたかかった。

彼はいつものイタズラっ子のような笑顔を浮かべて、布団に潜り込んで、彼女の背中にそっとくっついた。


「……ごめんね」

「うん、次は勝つ」

「ん?どういうこと?」

もうケンカしたくなくて疑問は飲み込んだ。


**


春になったとき、彼女が言った。


「今年こそ、庭に何か植えてみたいな」

「花? 野菜?」

「クリ」

「クリ?」

ギャハハと笑った。


「クリがなったら焼いて売って歩く」

「壮大だねぇ、そういうとこが好きなんだけど…

バカっぽくて」

「なにおー」

またギャハハと笑った。


「金木犀とか良い香りなので大好きだけど」

「ライラックとか」

「綺麗なカワイイ花だよね」

胸がきゅんとなって、少しライラックに嫉妬した。


「うーん……ああそうだ。こないだ食べた後捨てるの可哀想だよねって言って取って置いた、あれ、茶色いカワイイ枇杷とかは?それこそ、実がなるし。長くかかるけど、クリよりきっと臭くないだろうし」


「ああいいね、じゃあ、僕もちゃんと育て方、調べとくよ。」



その小さな約束は、ほんの数か月後に

彼だけが果たせないものになってしまうなんて、

そのときはふたりとも、想像すらしていなかった。


**


でも、間違いなくそれは“暮らし”だった。

ふたりで部屋をあたためて、

同じカーテンを開けて、

同じ鍋を囲んで、

「おかえり」と「ただいま」を何度も交わした。


特別な言葉がなくても、

そこにある空気が、ぬくもりが、

愛そのものだった。


**


今、彼はもうそこにいない。

だけど、彼女がキッチンに立つとき、

鼻歌がふとこぼれるとき、

その空気の中には、きっと彼がいる。


**


そして、あのベランダの枇杷に

ようやく実がついた日。

彼女は笑いながら、こう言った。


「…やっと、できたよ。

 甘くはないけど、ちょっとだけ食べてく?」


風が頷いたように吹き抜けて、

小さな枇杷の葉が、光をはね返した。


次回は、彼が亡くなる直前の物語や、

彼女が新たな一歩を踏み出す未来の物語も、

紡いでみたいと思います。

どんな続きがあっても、きっと愛はそこに生きていますから。


あれっ、そういえば、枇杷は確かプランターでは育たなかったような…


よろしければ、次回もどうぞご一読ください。

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