ただ、普通に暮らすという奇跡
今回は、ふたりが一緒に暮らし始めてからの、何気ないけれどかけがえのない日々を綴っていきます。
大きなドラマがあるわけではない、けれど思い出すと胸がいっぱいになるような、そんなひとつひとつを。
丘の上、ここ向日葵台の少し古びた小さなアパートに、ふたりが暮らし始めたのは、夏の初めだった。
引っ越しの段ボールがひとつ部屋の真ん中に、テーブルがわりで鎮座してた、カーテンすらついていなかったけど、
朝になれば光が差し込んで、夜になればふたりの影が壁に映った。
ある日、私が職場で秘境に住んでいると揶揄われたと泣いていると、彼はイタズラげな笑顔を浮かべて、「丘の上の高級住宅街『桐花町のビバリーヒルズだ』と言い返してやればイイべや」鼻を膨らませて自信満々に笑った。
それだけで、十分だった。
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初めてふたりで作ったごはんは、カレー。
彼が包丁でじゃがいもを切っている横で、彼女は玉ねぎを炒めていた。
「目しみる~」
「それ、換気扇つけないからでしょ」
「え? つけるの? これ?」
もちろん換気扇をつけても目は痛かった。
鼻水も出だして、鼻をかんで
笑いながら炒めているうちに、玉ねぎは真っ黒に焦げた。
でも、ふたりで食べたその焦げカレーは、なぜかとても美味しかった。
彼女がそのとき鼻歌まじりに口ずさんだのは、
駅のホームでよく歌っていた、あの曖昧なメロディ。
彼はそれを聴きながら、ふと「帰ってきたんだな」と思った。
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ある日曜日、ベランダに布団を干したまま散歩に出かけて、
急な通り雨に降られたことがあった。
ずぶ濡れで帰ってきて、びしょびしょになった布団を前に、
ふたりでどうしようもなく笑った。
笑いながら、タオルで拭き合って、
その夜はソファでくっついて眠った。
「ふたりいれば、どこでもベッドだな」
「……今の、なんかムードある風に言ったけど、めっちゃ狭いよ?」
そんなくだらないやり取りも、
今となっては愛おしくて仕方ない。
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冬のある夜、彼女が風邪をひいたとき、
彼は夜中じゅう、湯たんぽを抱いてお湯を替え続けていた。
「そこまでしなくても大丈夫なのに」
「ううん。これが今の僕の“精一杯”だから」
彼のそういう不器用だけど誠実な優しさが、
彼女は本当に、心から好きだった。
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ふたりが本気で喧嘩したのは、たった一度だけ。
はじめは、洗濯機の使い方をめぐっての小さな言い合いだったのに…、
お互いなぜか引けなくなって、別々の部屋に籠もった。
心に穴が空いたみたいだった。
夜中、彼がリビングに出てくると、
そこには、そっと置かれた麦茶とメモが。
「仲直りするのを手伝って」
「ん?なんだそりゃ??」
字はちょっと曲がっていたけど、あたたかかった。
彼はいつものイタズラっ子のような笑顔を浮かべて、布団に潜り込んで、彼女の背中にそっとくっついた。
「……ごめんね」
「うん、次は勝つ」
「ん?どういうこと?」
もうケンカしたくなくて疑問は飲み込んだ。
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春になったとき、彼女が言った。
「今年こそ、庭に何か植えてみたいな」
「花? 野菜?」
「クリ」
「クリ?」
ギャハハと笑った。
「クリがなったら焼いて売って歩く」
「壮大だねぇ、そういうとこが好きなんだけど…
バカっぽくて」
「なにおー」
またギャハハと笑った。
「金木犀とか良い香りなので大好きだけど」
「ライラックとか」
「綺麗なカワイイ花だよね」
胸がきゅんとなって、少しライラックに嫉妬した。
「うーん……ああそうだ。こないだ食べた後捨てるの可哀想だよねって言って取って置いた、あれ、茶色いカワイイ枇杷とかは?それこそ、実がなるし。長くかかるけど、クリよりきっと臭くないだろうし」
「ああいいね、じゃあ、僕もちゃんと育て方、調べとくよ。」
その小さな約束は、ほんの数か月後に
彼だけが果たせないものになってしまうなんて、
そのときはふたりとも、想像すらしていなかった。
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でも、間違いなくそれは“暮らし”だった。
ふたりで部屋をあたためて、
同じカーテンを開けて、
同じ鍋を囲んで、
「おかえり」と「ただいま」を何度も交わした。
特別な言葉がなくても、
そこにある空気が、ぬくもりが、
愛そのものだった。
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今、彼はもうそこにいない。
だけど、彼女がキッチンに立つとき、
鼻歌がふとこぼれるとき、
その空気の中には、きっと彼がいる。
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そして、あのベランダの枇杷に
ようやく実がついた日。
彼女は笑いながら、こう言った。
「…やっと、できたよ。
甘くはないけど、ちょっとだけ食べてく?」
風が頷いたように吹き抜けて、
小さな枇杷の葉が、光をはね返した。
⸻
次回は、彼が亡くなる直前の物語や、
彼女が新たな一歩を踏み出す未来の物語も、
紡いでみたいと思います。
どんな続きがあっても、きっと愛はそこに生きていますから。
あれっ、そういえば、枇杷は確かプランターでは育たなかったような…
よろしければ、次回もどうぞご一読ください。