『翡翠色の駅で』
ふたりが出会った頃の物語は、きっと、すべての思い出の始まり。
静かで、ちょっと不器用で、でも深く惹かれ合っていったふたりの始まりを、
少し淡く、やさしい光の中で描いてみますね。
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その日、彼女はひとりで小さな海辺の町に降り立った。
春の終わり、潮風がまだ少し冷たい夕方。
都会の喧騒から逃げるように、無計画に降りた無名の駅だった。
駅から歩いて5分ほどの海岸線。
夕陽が水面をすべり、波の色が翡翠のように淡く光っていた。
彼女はその景色に心を奪われ、スニーカーのまま砂浜を歩き出した。
そのときだった。
「すみません、それ…」
振り返ると、ひとりの青年が少しだけ息を切らしながら立っていた。
指差したのは、彼女がうっかり落としていたらしい、薄いピンクのハンカチ。
風に飛ばされて、青年の足元まで舞っていた。
「あ、ありがとうございます……」
彼女は受け取って、小さく頭を下げた。
彼はちょっと照れたように笑って、
「ここ、きれいですよね。夕方が、特に。」
それが、ふたりの最初の会話だった。
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その日から、なぜかふたりは、同じ時間、同じ場所で会うようになった。
観光でも、住民でもなく、なんとなくそこに居た者同士。
話す内容は、たいしたことじゃなかった。
おすすめのパン屋とか、カモメが増えたねとか、
「昨日の波、ちょっと高かったよね」なんて、どうでもいい話。
でも、不思議と心がほどけた。
彼は、笑うと目尻に小さなシワができた。
まっすぐ話を聞くときは、ちょっと真剣すぎて不器用に見えた。
でもそのまなざしは、どこか懐かしくて、あたたかかった。
彼女は、彼の話す声が好きだった。
特に、風の音に混ざって聞こえる、あの少しだけ低い声。
まるで安心の中に沈んでいくような、そんな音だった。
**
何度目かの夕暮れ、ふたりは初めて、同じベンチに座った。
無言のまま、波を見ていた。
少し経って、彼がぽつりと言った。
「昔、このあたりで、家族と住んでたんです。
…でも、いまはもういないんです。いろいろあって。」
それ以上は語らなかった。彼女も、無理に聞かなかった。
ただ、彼の手のひらに、自分の手をそっと重ねた。
それが、ふたりの始まりだった。
**
帰り際、彼は彼女に言った。
「また、明日ここで会えますか?」
彼女は笑ってうなずいた。
そのとき海風がふたりの間をすり抜けて、彼女の髪が揺れた。
彼はそれを一瞬だけ、愛おしそうに見つめた。
**
ふたりが住んでいたあの小さなアパートは、
その後、駅から少し離れた丘の上に見つけた。
日当たりがよくて、キッチンの小窓からは海が見えた。
「ここに住もう」
「うん、住もう」
それは告白でもなく、プロポーズでもなく、
ただ「一緒にいる」という約束のようなものだった。
そこから、日々が始まった。
カーテンを開ける朝、
片方のスリッパがいつも消える夜、
海岸で拾った貝を並べる休日。
どれもこれもが、終わりのない物語のようだった。
そしていま、
彼女がその部屋で、ひとつずつ荷物を片づけるたびに、
彼は思う。
「あの夕方、君に声をかけて、本当によかった。」
彼女が覚えていてくれる限り、
この物語は、まだ終わらない。
次回は、ふたりの暮らしの一瞬一瞬も描いてみたいと思います。
料理をした日、喧嘩をした日、静かに寄り添って眠った夜。
どう生きて、どう愛したのか——
次回はそれを、優しく紡いでいきましょう




