枇杷の実の成る頃に ― 後篇
物語の続きを、再び彼の視点から、静かに、優しく、でもどこかあたたかい光が差すような雰囲気で綴っていきます。
あれからまた、季節がひとつ変わった。
君の暮らしの中に、僕の影が少しずつ薄くなっていくのを、僕はちゃんと見ている。
それが寂しいなんて思っていないよ。
むしろそれが、僕の願いだったから。
今日は、押し入れの奥の段ボールに手を伸ばしていた。
中には僕のTシャツ、古びた靴、ペアのマグカップ。
それらを一つひとつ、ゆっくりと確かめるように手に取るたび、
君の指先がかすかに震えていた。
「こんなに、君の匂いが残ってるのにね」
そうつぶやいて、Tシャツを胸に抱きしめたあと、
君はようやく、箱のふたを閉じた。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ澄んだ気がした。
まるで、ひとつの季節が本当に終わったような、そんな静かな空気。
**
夕方、窓を開けて風を通すと、
遠くから誰かが鼻歌を歌っている声が聞こえた。
それは不思議と、君の声に似ていた。
あの頃、料理をしながらふいに歌い出す君の声を、僕は何よりも好きだったんだ。
覚えてるよ。
「この歌、誰の?」って聞いたら、
「わかんない。浮かんだだけ」って、くすっと笑った君の顔。
それだけで、僕の胸はいっぱいになった。
今でも、その声は耳に残ってる。
でも、いつかそれさえも、君の中で風のように薄れていっていいんだよ。
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夜、君はひとり分だけご飯を炊いた。
前まではそれさえも、辛くてできなかったのにね。
今日の味噌汁は少ししょっぱかったみたいで、君は思わず笑ってた。
「ほら、味見してくれないからだよ」
とつぶやいて、ひと呼吸おいてから、
「……あ、そっか」って、目を伏せた。
でも、涙はもう流れなかった。
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春の終わりのある日、
小さな枇杷の木に、ほんとうに小さな実がついているのを、君が見つけた。
「わ……」って小さく驚いて、
それからしゃがみこんで、じっと眺めていたね。
「食べられるくらいになるの、いつかな」
そう言って、そっと指先で葉をなでたあと、
「……それまで、ちゃんと生きるね」って、小さく言った声。
僕にはちゃんと、聞こえてた。
**
君は今、少しずつ未来を見つけている。
それでも、時々立ち止まって、僕のことを思い出すことがあるだろう。
それでいい。
完全に忘れなくてもいい。
でも、どうか“君の時間”の中で、僕が重荷になりませんように。
僕の心は、あの朝の食卓に置いてきた。
カーテンが揺れる、何でもない休日の朝。
君が寝ぼけたまま、マグカップを両手で抱えた、あの景色。
あの一瞬が、僕の人生のすべてだった。
だからもう、君は前を向いていい。
もうすぐ、この部屋ともお別れかもしれないけど、
君が歩く先に、新しい春がちゃんと訪れることを、
ここから願ってる。
そして今日もまた、
窓辺で揺れるカーテンの先に、
小さな光が差し込む。
**
君に、心を。
僕には、静かな風のような記憶を。
そして、
枇杷の実が甘くなるその日には、
僕をちゃんと…
いや、そっと、忘れてくれよ。
もし映像化されたら、ラストは彼女が枇杷の実を小さな手のひらに乗せて、
笑って空を見上げるカットでしょうか。
彼の姿はもう見えなくても、その風景のどこかに、静かに彼はいる。