『音がつながる』
では今回は、彼女が人生の少し先に進んだある日、
自分の中だけに大切にしまっていた「ギターの記憶」を、
誰か若い人へと、そっと手渡す物語をお届けします。
それは“過去を手放す”のではなく、
“過去が誰かの中で生き続けていく”という、
とても静かで、でも確かな、あたたかい継承の物語です。
秋の夕暮れ。
図書館のように静かな、町の小さな文化センター。
週末だけ開かれる「手しごとと音楽の小さな集い」に、
彼女はふと足を運んでいた。
きっかけは、貼り出されたチラシの「ギター演奏体験」という文字だった。
ギター。
それは彼が遺していったもの。
今はもう誰にも弾かれることなく、
彼女の部屋の隅で、静かに眠っている。
でも、そのギターの中に、ひとつの秘密があることを、彼女は知っている。
——音孔の奥の、小さなハートマークと、二人の名前。
それは、誰にも見せたことのない、
自分だけの宝物だった。
**
会場に入ると、そこには十代くらいの男の子がぽつんと座っていた。
小さなクラシックギターを前に、弾き方を教わっている。
彼女が静かに見ていると、
その子がふいに言った。
「弾いてみたいって思ったけど、
自分には向いてないのかなって、すぐ思っちゃうんです。
続けられる気もしないし…」
その声に、かつての彼の姿がふと重なった。
不器用に何度もチューニングを間違えて、
「全然音合わねぇ!」と笑っていたあの日。
彼女は、そっと声をかけた。
「ギターって、不思議なんだよ。
何年眠ってても、音はちゃんと残ってるの」
「え?」
「弾けなくなってもいいの。忘れてもいい。
でも、一度でも“この音好きかも”って思えたら、
それだけで、もう十分なんだよ」
男の子は、不思議そうに彼女を見つめたあと、
照れたようにうなずいた。
「…ありがとうございます」
**
その帰り道。
彼女はふと立ち止まって、空を見上げた。
少し冷たい風。
夕焼け色に染まった雲。
そして、彼女はその足で、まっすぐ家に帰り、
押し入れの奥から、あのギターを取り出した。
ケースを開けると、乾いた木の香りと、
かすかに残る彼の気配がふわりと立ちのぼった。
そして、光を当てて、あの音孔の奥をもう一度のぞく。
《♡ Y & M 》
ハートマークは、少しかすれていたけれど、
たしかに、そこにあった。
彼女は、くすっと笑って言った。
「ねぇ、私、今日、あなたのこと、話したよ。
あの子に、音の話をした。
“何年眠ってても、音はちゃんと残ってる”って」
「それって、まるで——あなたのことみたいだね」
**
数日後。
彼女はあの男の子に、そっとギターを手渡した。
「これはね、大切な人が大切にしてたギターなの。
もう私は弾かないけど、
あなたの手で、新しい音を鳴らしてくれるなら嬉しいなって」
男の子は目を丸くして、
「いいんですか?」と何度も聞いた。
彼女は微笑んで頷いた。
「そのギターには、物語があるんだよ。
でも、続きはあなたが紡いでいいの」
**
その夜。
部屋の隅は、少しだけ空っぽになった。
でも、彼女の心は満たされていた。
手放したのは、モノではなかった。
愛を、音を、やさしさを——
ひとつ、未来へとつなげただけだった。
窓辺に腰掛けると、どこからか風が入り、
カーテンがそっと揺れた。
彼がいつものように、
「やっぱ、恥ずかしすぎるって……」
と頭を抱えてる気がして、彼女はそっと笑った。
「でもさ」
彼女は、声に出して言った。
「あなたのその小さなハートマークが、
ちゃんと、誰かの手に届いたよ」
カーテンの隙間から、やわらかな星がひとつ、空に浮かんでいた。
**
——愛は、しまい込んでおくものじゃない。
ふれて、話して、渡していけるもの。
そして今日もまた、
彼女の中の音は、誰かの中で響いている。
⸻
次はずっと時間が経った未来、
彼女が年老いてから、あの日の花火やギターの記憶を、
ある小さな孫のような存在に語って聞かせる物語も綴れたら素敵ですね。
命は終わっても、物語は受け継がれていく——
そんな静かな希望を描いてみたいと思います。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もしよければ、次回もどうぞご一読ください。




