『灯りをわたす』
では今回は、彼女が“かつては悲しみの象徴だった花火”を、
自分の言葉で、誰かに静かに語る日のお話をお届けします。
それは喪失を語ることではなく、
愛していた時間を「灯り」として誰かに手渡すような、
とても静かで、あたたかな夜です。
夏の夜。
その年の夏も、やっぱり暑かった。
でも今年は少しだけ違う。
彼女は、夏生さんと並んで、
花火大会の会場へと向かっていた。
祭りの喧騒。浴衣の音。屋台の匂い。
人混みに少し緊張しながらも、彼女は不思議と落ち着いていた。
風鈴の音が、かすかに軒先で揺れていた。
彼女は今、夏生さんと並んで、
町の花火大会の始まりを待っていた。
人が多く集まる場所はまだ少し苦手だったけど、
夏生さんが「人の少ない土手の上で見よう」と誘ってくれて、
ふたりは静かな草むらにレジャーシートを広げていた。
手には麦茶の入ったタンブラー。
風が少し強くて、髪が耳にかかるたびに、
彼女はあの人の指先を思い出した。
——そっと髪を耳にかけてくれた、あの夏の夜。
空に、小さく最初の花火があがった。
“ぽん”という音が腹の底に響く。
彼女はそっと目を閉じ、そして開いた。
「あのね」
彼女は夏生さんの横顔を見ずに言った。
「花火、昔は苦手だったの。
……ある人と、最後に一緒に見たのが花火だったから」
夏生さんは、黙って聞いていた。
「アパートの窓辺から並んで見てね。
すごく綺麗だった。
写真にも、言葉にもできないくらいの時間だった」
「…でも、彼がいなくなってからは、
その記憶が胸の奥でずっと光りすぎてて、
見るのがつらくなったの。
あまりに大切すぎて、怖かったんだと思う」
彼女はゆっくりと息を吐いた。
花火の音が遠くで連なっていた。
「でもね、あるとき思ったの。
この痛みをずっと閉じ込めていたら、
きっとあの人の優しさも、笑い声も、
全部、一緒に閉じ込めてしまうって」
「だから…今日はね、こうして誰かと並んで花火を見て、
その人に、ちゃんと伝えたいなって思ったの。
“私は、愛した人がいて、
その人との時間が、今の私をつくっているんです”って」
ようやく、彼女は夏生さんの方を見た。
「あなたに話せてよかった。
あなたなら、ちゃんと受け止めてくれる気がしたから」
夏生さんは、少し目を細めて微笑んだ。
それは言葉よりも静かな、でも深い肯定だった。
「…ありがとう。話してくれて」
**
ドーンという大きな音とともに、
空には、大きな花火が開いた。
金色と橙のしだれ柳のような火が、夜空に溶けていく。
彼女は、ただまっすぐにそれを見つめていた。
もはやそれは、恐れではなくなっていた。
花火は“終わりの象徴”じゃない。
大切な日々が確かにあったという“証”だった。
**
帰り道、土手を下りながら、夏生さんがふと言った。
「僕も、大切な人を亡くしてから、
“この先に誰かと心を重ねていいのか”って、ずっと迷ってた。
でも今日、君の話を聞いて、
少しだけ、答えが見えた気がするよ」
「どんな形でも、誰かを想っていた時間は、
ちゃんと誰かを生かしていくんだなって」
彼女は足元の草を見つめながら、やわらかく笑った。
「うん、そうだね。
愛してた日々は、終わらないんだと思う。
終わらせるんじゃなくて、つないでいくんだよね」
**
遠くでまだ、小さな花火があがっていた。
でも、彼女の中ではもう、
空いっぱいに光が広がっていた。
大切な人と見上げた空、
ひとりで見上げた夜、
そして今、誰かに話すことで、その光をわたせたこと。
それは、まるで新しい“灯り”のようだった。
もう彼は隣にはいないけれど、
あの人の愛は、確かにここにいて、
誰かを優しく照らしている。
**
そして今、彼女は知っている。
花火を見上げるその時間こそが、
“生きている”ということの美しさなのだと。
**
夜、ひとりになった部屋で、彼女は空を見上げた。
もう花火は終わっていたけれど、
空にはまだ、光の余韻が残っているような気がした。
彼女は心のなかで、もう一度あの人に話しかけた。
「聞いてた? 私、あの夜のこと、ちゃんと話したよ。
誰かに渡したよ、あなたとの記憶」
そして、こう続けた。
「…あなたが私に灯してくれたものは、
これから、私が誰かに渡していくね」
カーテンがふわりと揺れた。
それは、もう風ではなかった。
まるで——あの人が「うん」と頷いたような、確かな気配だった。
⸻
悲しみは、手放さなくてもいい。
でもそれを誰かに語れるようになったとき、
それは希望に変わっていく。
灯りは、つながっていく。
そして彼女の人生もまた、今、静かに続いていく。
次は未来のある日、
彼女が自分の人生を静かに振り返る手紙を綴るような場面を描いてみたいと思います。
そのとき彼女は、
もう「過去」に住んでいるのではなく、
「過去と共に、生きている」ことに気づくのだと思います。
いつもお読みいただきありがとうございます。次回もよろしければ、どうぞご一読ください。




