『また、空を見上げられるようになるまで』
今回は、彼と2人並んで観たあの日の花火の記憶を抱えて、
夏生さんと一緒に海辺を訪れた日の物語をお届けします。
過去と現在がゆっくりと重なり合い、
彼女が新たな一歩を踏み出す瞬間を、静かに描いていきます。
夏の終わりの夕暮れ。
彼女は久しぶりに、海のある場所へ来ていた。
夏生さんの誘いだった。
「君の“好きな場所”、見てみたいんだ」
彼がそう言ってくれたのは、少し前のカフェでのことだった。
迷いはしたけれど、それでも彼女は、あの場所に彼を連れて行ってみようと思えた。
あの海は、翡翠色ではなかった。
夕焼けに染まりかけた穏やかな青。
でも、潮の香りは変わらなかったし、
打ち寄せる波の音も、彼とよく聴いたものと似ていた。
**
海岸に着いてすぐは、言葉はあまりなかった。
ふたりでただ、並んで座っていた。
目の前には広がる海と、徐々に色を変えていく空。
そしてそのときだった。
遠く、対岸の方で、
ぽん、と音がして、小さな花火がひらいた。
彼女は、息をのんだ。
心の奥に、しまっていた記憶が一瞬で溢れ出す。
——彼と、最後に並んで見上げたあの夏の日。
窓辺で、ふたり並んで、
「こんなに綺麗なのに、ちゃんと写真に撮れないんだよな」って、
彼が笑いながら言った。
「撮れないからいいんだよ、きっと」
そう返した自分の声が、遠くで揺れていた。
それ以来だった。
花火を、ちゃんと見上げたのは。
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「……大丈夫?」
となりで夏生さんが、そっと聞いた。
彼女はうなずいた。
でも、その目には涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい。
花火、もう二度と見られないって思ってた。
でも、今、見てしまった」
「つらい?」
「ううん……あたたかいの。
思い出しすぎて、心がいっぱいになるけど……
それでも、逃げなくていいって、思えたの」
**
空に、小さな火の花がいくつも広がっては、静かに散っていく。
音は遠く、まるで夢の中のようだった。
彼女はそっと言葉をこぼす。
「…あの人とね、部屋の窓から一緒に花火を見たの。
たった一度だけ。でも、その時間があまりに綺麗すぎて、
それからずっと、花火が怖かった」
夏生さんは、何も言わなかった。
ただ、彼女の隣にいてくれた。
その沈黙が、彼女にはとても優しかった。
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やがて、花火は終わった。
夜の海は静けさを取り戻し、波だけが岸辺に寄せていた。
彼女は海風に髪を揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「…きっと今の私は、
あの人との思い出を“閉じる”んじゃなくて、
“そっと背中に背負っていく”んだと思う」
「それって、とても素敵なことだと思うよ」
夏生さんが、静かに返した。
彼女は少しだけ笑って、目を細めた。
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その夜、帰り道の途中で、
彼女は立ち止まり、空を見上げた。
花火はもうなかったけれど、星がひとつだけ、光っていた。
「ねえ、見てた?」
心の中で、あの人に話しかける。
「ちゃんと、前を向けたよ。
今日、花火を見たよ。
あなたと過ごした日々があったから、
私は今、ここに立ってるよ」
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風がやさしく吹き抜けた。
あの日の花火も、あの日の彼も、
すべてが、やわらかい光のように胸に灯っていた。
そして彼女は、もう一度空を見上げた。
——いまの私は、
もう、あの光を怖がっていない。
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次回は、彼女が花火を「つらい記憶」ではなく「語り継げるもの」として、
誰かにそっと話す未来の場面——
花火大会の日に、誰かと一緒に空を見上げる物語も紡いでみたいと思います。
記憶は、悲しみを通り抜けたその先で、
誰かを照らすやさしい灯火になりますから。
今回も読んでいただきありがとうございました。
次回もよろしければ、どうぞご一読ください。




