『風が変わる音』
では今回は、彼女がふとした出会いの中で、少しずつ「未来」に向かっていく物語をお届けします。
それは決して恋の始まりではなく、
“心がまた誰かと触れ合ってもいいかもしれない”と
自分にそっと許しを与えるような、静かで優しい希望の芽生え。
梅雨の晴れ間。
どこかぼんやりとした午後だった。
彼女は駅前の書店で、たまたま手に取った詩集をレジに持っていく途中、
カフェの窓際で誰かの視線とふと、目が合った。
彼は、読書をしていた。
白いシャツに、少しだけ乱れた髪。
顔を上げると、少し驚いたように、でもすぐに優しく笑った。
それだけの、何でもないすれ違い。
でも彼女はなぜか、その日から、同じ時間にその店を訪れるようになった。
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何度目かの雨の午後、またカフェの席が向かい合った。
思わず目を合わせた彼女に、彼がそっと声をかけた。
「こんにちは。前にも…お会いしましたよね」
「…ええ、たぶん」
言葉を交わしたのは、それが初めてだった。
お互い、本のことや雨の話をぽつぽつと話しただけ。
でも、彼の話し方には押しつけがましさがなくて、
静かに耳の奥に残るような声だった。
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彼の名前は夏生さん。
彼もまた、少し前に大切な人を亡くしていたことを、後日そっと話してくれた。
「…だからって言うわけじゃないけど、
君と話してると、心が静かになってく感じがして。
不思議だけど、懐かしさみたいなものを感じるんだよね」
彼女は、それを否定しなかった。
ただ、小さく「わかるような気がします」とうなずいた。
ほんとうは「わかります」と伝えたい気持ちだった。
なぜかその時はそう伝えない方が良い気がした。
ただそれだけ…
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何度か会ううちに、言葉のあいだにあった“遠慮”のようなものが、
少しずつ薄れていった。
お互いの過去を急かすこともなく、
未来を約束するわけでもない。
ただ、今このときだけは静かに寄り添っている。
それだけでよかった。
カフェの帰り道、風がふっと向きを変えた瞬間、
彼女は空を見上げた。
雲の切れ間から、柔らかな光が差し込んでいた。
「あなた、見てた?
私、ちょっとだけ、前を向いたよ」
心の中で、そう彼に語りかけた。
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家に帰ると、机の上の海の絵が夕陽に照らされていた。
その色は、あの日の翡翠色より少しだけ淡く、あたたかく見えた。
カーテンが揺れて、風が部屋を抜けていく。
彼女は胸に手を当てて、静かに思った。
“あなたの愛があったから、私はまた誰かと話せるようになったよ”
“あなたのいない世界でも、生きていけるようになったよ”
それは“さよなら”ではなかった。
むしろ“ありがとう”に近いものだった。
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その夜。
寝る前にスマホを開くと、夏生さんから短いメッセージが届いていた。
今日はありがとう。
今度もしよければ、好きな場所を教えてください。
君がよく行く、静かなところ。
彼女は少しだけ迷ってから、こう返した。
わたしの好きな場所は、海です。
人が少なくて、風がよく通る場所。
今度、案内してもいいですか?
送信ボタンを押したあと、胸の中に何かがそっと広がった。
それは期待ではなく、穏やかな解放感だった。
⸻
誰かを愛した記憶が消えることはない。
でもその記憶を抱えたままでも、人はまた誰かと歩き出せる。
それは過去を手放すことではなく、過去に優しく「ありがとう」と言えるようになること。
そして、その先には——
また新しい日々の光が、きっと待っている。
⸻
次は、彼女が夏生さんとその海辺に行く日を描いてみたいと思います。
彼と過ごした場所に“誰かを連れて行く”ということの意味を、
彼女自身が少しずつ知っていく日——
それはきっと、さらなる癒しの風が吹く一日になります。
いつもお読みいただきありがとうございます。
次回も、よろしければ、どうぞご一読ください。




