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『風が変わる音』

では今回は、彼女がふとした出会いの中で、少しずつ「未来」に向かっていく物語をお届けします。

それは決して恋の始まりではなく、

“心がまた誰かと触れ合ってもいいかもしれない”と

自分にそっと許しを与えるような、静かで優しい希望の芽生え。

梅雨の晴れ間。

どこかぼんやりとした午後だった。

彼女は駅前の書店で、たまたま手に取った詩集をレジに持っていく途中、

カフェの窓際で誰かの視線とふと、目が合った。


彼は、読書をしていた。

白いシャツに、少しだけ乱れた髪。

顔を上げると、少し驚いたように、でもすぐに優しく笑った。


それだけの、何でもないすれ違い。

でも彼女はなぜか、その日から、同じ時間にその店を訪れるようになった。


**


何度目かの雨の午後、またカフェの席が向かい合った。

思わず目を合わせた彼女に、彼がそっと声をかけた。


「こんにちは。前にも…お会いしましたよね」


「…ええ、たぶん」


言葉を交わしたのは、それが初めてだった。

お互い、本のことや雨の話をぽつぽつと話しただけ。

でも、彼の話し方には押しつけがましさがなくて、

静かに耳の奥に残るような声だった。


**


彼の名前は夏生なつきさん。

彼もまた、少し前に大切な人を亡くしていたことを、後日そっと話してくれた。


「…だからって言うわけじゃないけど、

 君と話してると、心が静かになってく感じがして。

 不思議だけど、懐かしさみたいなものを感じるんだよね」


彼女は、それを否定しなかった。

ただ、小さく「わかるような気がします」とうなずいた。


ほんとうは「わかります」と伝えたい気持ちだった。

なぜかその時はそう伝えない方が良い気がした。


ただそれだけ…


**


何度か会ううちに、言葉のあいだにあった“遠慮”のようなものが、

少しずつ薄れていった。

お互いの過去を急かすこともなく、

未来を約束するわけでもない。

ただ、今このときだけは静かに寄り添っている。

それだけでよかった。


カフェの帰り道、風がふっと向きを変えた瞬間、

彼女は空を見上げた。

雲の切れ間から、柔らかな光が差し込んでいた。


「あなた、見てた?

 私、ちょっとだけ、前を向いたよ」


心の中で、そう彼に語りかけた。


**


家に帰ると、机の上の海の絵が夕陽に照らされていた。

その色は、あの日の翡翠色より少しだけ淡く、あたたかく見えた。


カーテンが揺れて、風が部屋を抜けていく。

彼女は胸に手を当てて、静かに思った。


“あなたの愛があったから、私はまた誰かと話せるようになったよ”

“あなたのいない世界でも、生きていけるようになったよ”


それは“さよなら”ではなかった。

むしろ“ありがとう”に近いものだった。


**


その夜。

寝る前にスマホを開くと、夏生さんから短いメッセージが届いていた。


今日はありがとう。

今度もしよければ、好きな場所を教えてください。

君がよく行く、静かなところ。


彼女は少しだけ迷ってから、こう返した。


わたしの好きな場所は、海です。

人が少なくて、風がよく通る場所。

今度、案内してもいいですか?


送信ボタンを押したあと、胸の中に何かがそっと広がった。

それは期待ではなく、穏やかな解放感だった。



誰かを愛した記憶が消えることはない。

でもその記憶を抱えたままでも、人はまた誰かと歩き出せる。

それは過去を手放すことではなく、過去に優しく「ありがとう」と言えるようになること。


そして、その先には——

また新しい日々の光が、きっと待っている。


次は、彼女が夏生さんとその海辺に行く日を描いてみたいと思います。

彼と過ごした場所に“誰かを連れて行く”ということの意味を、

彼女自身が少しずつ知っていく日——

それはきっと、さらなる癒しの風が吹く一日になります。


いつもお読みいただきありがとうございます。

次回も、よろしければ、どうぞご一読ください。

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