枇杷の実の成る頃には
大切な人が亡くなることはとても辛いことです。
忘れることや楽しむことを罪深く感じられ、それらを避けるように暮らされる方も多いかと思います。
日々の業務で、そういう方々に寄り添う立場の人間として、無力さを痛感することも多くあります。
そういった方々の道標になるようなものは決して書けないかもしれませんが、それでも何かの足しに成れればと思います。
この物語は、最初は彼の視点で綴られ、静かに、でも深く愛に満ちたものとして描いていき、彼女の気持ちの変化とともに彼女の語る分量が自然に変わっていく様子を表してみました。
⸻
もう、何日が経ったんだろう。
朝も夜も、彼女の部屋には、僕がいなくなったという事実だけが、静かに残っている。
彼女はまだ、僕との日常を抱きしめるように暮らしている。
少しずつ、ほんの少しずつ、棚の上のものを拭いては、箱にしまっている。
「これ…捨てないよ?」って、独り言のように言いながら。
言い訳のように、誰かに語るように。
部屋の隅っこ、今では僕だけが見えるこの場所から、僕は彼女を見ている。
彼女が泣いている夜も、何も言わずにただ毛布を引き寄せる仕草も、
全部、ちゃんと見てる。
**
今日はキッチンの片づけをしていた。
2人で並んで立った、あの狭いキッチン。
あの朝、君が寝ぼけたまま包丁を持って、「トマト、まっすぐ切れない~」って言って、
2人で笑って、僕がその手を取ってトマトを切った。
そんな日常が、あたたかい湯気みたいに思い出される。
小窓の向こうに見える、小さな庭。
彼女が春に枇杷の苗を植えた場所だ。
「生きてたらさ、これ、いつか食べようね」って、あのときの言葉が風のように耳元を通る。
今日も、あの枇杷に水をやっていた。
それでいいよ。
いつか実がなったら、そのときは、
僕のこと、少しずつ忘れてもいい。
**
ベッドの横の棚の上。
あの、小さな箱。中には手紙や写真、映画の半券、小さな思い出たち。
彼女は一枚一枚を手に取りながら、口元をかすかに震わせる。
そのたびに、部屋の空気が揺れる。
でも彼女は、箱を閉じない。ただ、静かに撫でて、そっと戻す。
そのたびに、過去の映像が少しずつほどけていく。
あの夜の花火、あの休日の浜辺、
海の色は翡翠で、君の鼻歌が波に混ざっていた。
僕はもう、そこにはいない。
でもね、あの時間の中に、ずっと君を愛していた。
**
君がダイニングの椅子に座る。
寝起きの髪のまま、目をこすりながら、ぼんやりと。
その姿を、何度見てきたんだろう。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んで、
君の肩に落ちて、僕は何も言わずにコーヒーを淹れた。
君がそこにいるだけで、僕の世界はすべてだった。
**
君に心を。
僕の分まで、君が笑える日々を。
そして、いつか。
君の手の中にある思い出の箱が、そっと閉じられるとき。
小さな枇杷が実ったその日。
君が少しだけ、新しい風の中に顔を向けたら。
僕のことは、忘れてください。
⸻
代わりに春の陽が差し込んで、
小さな庭の枇杷が実り始める…
そんな優しい、そして切ない風景が浮かびますね。