舞姫
柊は印刷から上がったパンフレットを手に、地下へ下る階段を下りた。その背中をまだ春には少し時間がかかりそうな冷たい風が通り過ぎていく。
劇場のドアを開けて中へ入ると、そこにいた福山が柊にご苦労さんと片手を上げた。
「ヒッシー、あんた中々にすごいやつだな。本当に再開させちまいやがった」
そう言うと、福山はほとんど毛のない頭をかいて見せる。その顔は自宅で見た時よりもはるかに血色がいい。
「福山さんが色々と声をかけてくれたおかげですよ。それに今回の再開公演はオールスターのようなものですからね」
柊は手元にあるパンフレットを眺めた。小屋自体がなくなった今、全国をまたにかける売れっ子と言うのも少なくなった。それでも踊りと人柄に魅せられて、ファンがその後を追いかける踊り手は存在する。そんな踊り手たちがここに集まってくれていた。
「おかげで事務所の電話は鳴りっぱなしだよ。本番前に声が枯れちまいそうだ」
福山がそうとぼけてみせる。しかし少し心配そうな顔をすると、入り口のカーテンをちらりとめくって、中を覗き込んだ。中から久子の凛とした声が聞こえてくる。
「皆さん、郷に入っては郷に従えです。今日はここのやり方に従って見学します。よろしいですね」
「はい。お師匠さま」
久子の声に、席を埋めた妙齢の女性たちが一斉に返事をした。
「しかし今日のプレに来ているお姉さんたちは何者なんだ? 只者でないぐらい俺でも分かるぞ」
「今回の件で色々と約束をしていましてね。その一つです」
「まあいい。客は客だ。楽しんでくれればそれでいい。俺は中に戻るから、ここの準備は頼んだよ」
「はい」
「柊、チケットの箱はここでいいか?」
福山と入れ替わる様に受付へきた伊藤が、段ボール箱を柊の前へ置いた。
「ありがとうございます。でも伊藤さん、平日ですけど本当にいいんですか?」
「誰かさんがバックレたおかげで、うちの部は開店休業中だ」
何故か柊がここにいることを嗅ぎつけて、手伝いに現れた伊藤が肩をすくめて見せる。
「申し訳ありません」
「そうだ。お前のせいだ。だけど個人的には悪くない。ラインにいることなかれ主義の連中の首もかなり飛んで、風通しはよくなる。会社にいていらぬ火の粉が飛んでくるより、ここでお姉さま方の相手をしている方がよっぽどましさ」
そう言うと、ちらりと楽屋の方を覗き込む。
「そんな事より、こんだけ色気のあるお嬢さん方の楽屋に、大手を振って入れるんだぞ。やらせろ!」
「でも伊藤さんが照明を扱えるとは知りませんでした」
「ああ、俺の親父が制作会社の大道具とかの下請けとかやっていてさ。アマチュア劇団の舞台なんかも手伝っていたりしてね。そん時のバイトで覚えたのよ」
「伊藤ちゃ~ん、私のオープニングの衣装って、どこにあったっけ?」
「はいはい。ちょっとお待ちを!」
楽屋からの声に伊藤が踵を返して飛んでいく。その後ろ姿に柊が思わず口元を緩めた時だ。スポーツダウンを着た舞歌が楽屋から受付の方へ顔を出してくると、柊の顔を眺めながら怪訝そうな顔をして見せた。
「やっぱりそうだよね。前より太ったでしょう。もしかして、突然ごはんの美味しさに目覚めた? それになんで無精ひげなんか生やしているわけ?」
「もぎりも演出の一つだ。見かけはさらにその演出だ」
「あ――、やっぱり思った通りだ。もっと気楽にやれないの?」
「これが俺のやり方だ。いまさら変えられない」
舞歌が手のひらを上にあげて、天を仰いで見せる。
「私もそうだけど、あんたも本当に意地っ張りよね。ねえ、ヒッシー?」
「改まってなんだ」
「私さ、ヒッシーの期待に応えられるよう、一生懸命に踊るよ。だからヒッシーにいらないと言われるまで、一緒にいてもいい?」
「当たり前だ。俺はお前の為にここに居る」
柊の台詞を聞いた舞歌の目が大きく見開かれた。だけど目から零れ落ちそうとする何かを気合で止めて見せる。
「ば、ばっかじゃないの! 本当に生真面目なんだから!」
「オープニング開始5分前です! お姉さま方、準備をお願いします」
楽屋の方から、伊藤のベテランみたいな呼び声が聞こえてきた。
「あいよ!」
舞歌はそう答えると、柊に小さく手を振って、楽屋へと戻っていく。
「客席のお姉さま方に、私たちの色気ってやつを見せてやりましょう!」
楽屋から舞歌の気合の入った声も聞こえてくる。柊はチケットの段ボールを足元へしまうと、そっと入り口のカーテンをくぐった。その先では天井でミラーボールが回り、ピンクと白のライトが年季の入ったステージを照らしている。
「では本日全員の出演者によるオープニングショー!」
ふく爺の今日のオープニングを告げる声と、出演者の紹介が続く。むせるようなタバコの煙がないのはちょっと寂しい気もするが、スモークがその名残ぐらいは伝えてくれるだろう。
音楽に合わせた完璧な手拍子。舞歌を先頭に、今日の出演者たちが花道へ向かって歩き出すのを見ながら、柊は心の中で手を合わせた。
母さん、僕は帰ってきたよ。あの子と共にここへ。
<完>