藤娘
「ちょっと。なにがあっても来いというから、バイトを休んできたけど、こんな高級住宅街に何の用がある訳?」
柊の後ろを歩く舞歌が口を尖らせた。
「一回ぐらい寝たからって、自分の女とか勘違いしていない? 友達へ紹介するとか、絶対にやめてよ!」
「少なくとも友人とかじゃない。もっと古い付き合いだ」
「えっ! まさか、いきなり親に会えとか言っていないよね!」
「その心配はない。俺の親はもうこの世にはいない」
柊の台詞に、舞歌がすごくうしろめたい顔をした。
「ごめん。でもあんたも私と同じなんだね」
「そうらしいな。それよりここだ」
柊はそう告げると、オーク材の門の横の通用口を指さす。それを見た舞歌が驚いた顔をした。
「ちょ、ちょっと。なんかとっても偉そうな人が住んでる家じゃないの!」
柊は舞歌の台詞を無視すると、インターフォンのボタンを押した。
「柊です」
「はい。奥様がお待ちしております。そのまま中へお入りください」
柊は緑のランプに変わった通用口のドアを開けた。
「ヒッシー、こんなかっこじゃ中に入れてもらえないよ!」
スポーツダウンコートを着た自分の姿を眺めながら、舞歌が悲鳴を上げる。
「心配するな。大丈夫だ」
舞歌はこれでもかと言うほど嫌な顔をしてみせたが、柊はその体を引きずるようにしながら玄関へ向かった。先日の家政婦が柊たちを出迎える。
「いらっしゃいませ。奥様はけいこ場でお待ちしております」
そう告げると柊たちを奥へ案内した。舞歌はまるでお化け屋敷にでも足を踏み入れたみたいに、周りをきょろきょろと見回していたが、どうやら諦めがついたらしく、大人しく後ろをついてくる。
縁側を進み、その先にある離れの稽古場へと入った時だった。
「きれい」
舞歌の口からつぶやきが漏れた。稽古場では一人の老女が舞をまっている。でもその姿からは年齢を一切感じさせない。春を楽しみ、恋に憧れる少女の姿がそこにある。
「これって……」
「藤娘だ。藤の花の精が恋に揺れる女心を演じる演目だよ」
「女心?」
「それが見えるか?」
「うん、見える。見えるよ」
老女は舞を終えると、柊たちの方を振り返った。
「久しぶりにお姐さんの踊りを見せていただきました。いまだに現役ですね」
「お世辞はよしておくれ。今となっては年寄りの暇つぶしみたいなものだよ」
そう柊に告げると、舞歌に向かって深々と頭を下げて見せた。
「はじめまして、私は大山久子と申します」
「う、内海舞歌です」
舞歌が慌てて頭を下げる。
「ちょっと、ヒッシーって何者? どうしてこんな立派な先生の知合いなの?」
舞歌の口から思わず漏れた言葉に、久子が口に手を当てて含み笑いを漏らして見せた。
「そこにいる坊とは、まだ母親の乳を飲んでいた時からの付き合いでね。今日はあなたをお連れしてくれるよう、私からお願いさせていただきました」
「は、はい!」
「聡から、あなたも踊られると聞いております。どうかこの老婆に、若い人の踊りを見学させていただけませんでしょうか?」
「へっ!」
久子の言葉に舞歌が目をパチクリさせる。そしていかにも困ったという顔をして柊の方を見た。だが柊の真剣な表情を見ると、手にしたスポーツダウンを柊へ押し付ける。
「うん。せっかく見てもらえるんだもんね。久子さん、躍らせていただきます」
舞歌は一歩一歩、何かを確かめる様に稽古場の真ん中へと進んで行く。柊は久子と一緒に稽古場の横へ座った。
腕を広げて大きく深呼吸をして見せると、舞歌は柊たちの前で頭を膝につけて静止する。そしてゆっくりと手を上へ上げ始めた。
「坊の言う通りだ。まださなぎだね。でも筋は悪くない」
応接室で久子が柊に語りかけた。舞歌が手洗いに行ったため、部屋には柊と久子の二人しかいない。
「それで、引き受けていただけますでしょうか?」
柊の言葉に久子が小さく微笑んで見せる。その表情に、柊は自分がまだ幼かった頃を思い出した。
「坊、引き受けるよ。何より踊りに魂がこもっている」
そう告げると、久子は何かを懐かしむ様に、膝に乗せた猫の背中を撫でた。
「一生懸命やる人や、楽しんで踊れる人はいる。だけど魂を込められる人はそうはいない。その人が背負っている業そのものだからね。込めているつもりになっているだけだよ。私の弟子でもそれが出来たのは一人だけだ」
そう言うと、久子はどこか遠くを見つめた。
「ありがとうございます。稽古代は私が払います」
「あんたの母親は私の弟子だったかもしれないけど、助けられたのはむしろ私の方だ。それに坊はちゃんと私との約束も守ってくれた」
「約束?」
「惚れた女が出来たら、私のところに連れてくると約束しただろう?」
「惚れた? 私がですか?」
「そうだよ。世間はそれを惚れ込んだというのさ。だけど一つだけ返してもらいたいものがある」
「なんでしょう?」
「あの子の次の舞台を私たちにも見せておくれ」
「姐さんがですか!?」
「何をそんなに驚くんだい。私はもう十分に大人さ。それに踊りに貴賎なんてないよ。演じているのは全て同じ人だ」
そう言うと、久子は口元に手を当てて笑って見せる。
「まだまだ粗削りだけど、あの子の踊りは自分の体が動くことの、踊れることの喜びと感謝に満ちている。最初に覚えて、最初に忘れてしまうものさ。だからそれを思い出させてもらう」
「はい、お姐さん。でももぎりの意地にかけて、チケット代はもらいませんよ」




