依頼
柊はいつもよりはるかに遅い時間の電車で都心を拔けると、高級住宅街の近くにある駅で降りた。駅の正面は僅かに丘陵地になっており、そこには背の高いマンションなどは一棟もない。
それはそうだろう。ここに住む人たちにとって、誰かが上から自分たちの庭をのぞき込むなんてことは、絶対にあってはいけない。
柊はその坂をゆっくりと上ると、一軒の家の門の前へ立った。車が優に出入りできそうな門は今時の明るいオーク材風だが、その奥には雪囲いをした松が見えている。柊は門の横の通用口にあるインターフォンを押した。
「はい」
「柊というものですが、お姐さんにお会いしたいと伝えていただけませんでしょうか?」
「はあ」
インターフォンの向こうから、年配の女性のいぶかし気な声が聞こえてくる。
「奥様にそう言っていただければ分かると思います」
「少々お待ちください」
柊が通用口の前でしばらく待つと、白いエプロンを身にまとった中年の女性が扉を開けた。
「柊様、こちらへどうぞ」
お手伝いさんらしい女性の後に続いて、柊は玄関横の日当たりのよい応接室へと通された。そこからは冬の準備を終えた庭がよく見える。
しばらく待つと、猫を胸に抱いた年配の女性が部屋へと入ってきた。だがその背筋は今どきの若者よりもよほどにまっすぐに伸びており、歩く姿には一部の隙も無い。
「坊、一体何年ぶり、いや何十年ぶりかしら」
女性は柊の姿を見ると、感慨深げに声を上げた。
「お姐さん、こちらこそ長くご無沙汰しておりました」
「懐かしいね。私をそう呼ぶのは二人だけ。今は坊、あんた一人だけだ」
そう告げると、柊へ椅子に座る様に即した。
「エリートサラリーマンになって、忙しくしていると聞いていたけど。血は争えないね。父親が見たら――」
「お姐さん、私の父親はもうこの世の人間ではありません」
柊の言葉に、老女は小さくため息をつくと、膝に置いた猫の背中をなでた。
「坊にとってはそうだったね。それで今日はどういう風の吹き回し」
「今日はお姐さんに、お願いがあってお邪魔させていただきました」
「お願い? 私があんたに手伝ってあげられるようなことなど、何もないと思うけど?」
「いえ、これはお姐さんにしか頼めないことなんです。さなぎを蝶にしていただきたいのです」
柊はそう告げると、女性へ向かって深々と頭を下げた。
柊は舞歌から聞いた住所の近く、下町の駅で降りると、駅横の小さな路地へと足を踏み入れた。線路沿いにある、長屋みたいに横に長くつながった建物が目的地だ。
そこは小さな酒場が集まった通りだが、ランチも終わった昼のこの時間はひっそりとしている。柊は一階の南国風居酒屋の横にある、扉の呼び鈴を鳴らした。
「はーい!」
「柊と言うものですが――」
「あー、今開けるから、ちょっと待っていて頂戴」
柊が全部を言い終わる前にインターフォンが切れた。二階から誰かが降りてくる足音が響いてくる。
「マイマイの紹介のご仁だね。ヒッシーって聞いていたから、てっきり菱田かと思っていたら、柊とはね」
背の低い老人が、そう言いながら頭をかいて見せる。
「名前が聡なんです」
「それでヒッシーか。俺は福山というものだ。マイマイからはふく爺と呼ばれている。マイマイがちょっといい男と会ったと言っていたけど、あんたみたいな堅気も堅気が来るとは思わなかったな」
そう言うと、柊が着ているスーツを眺める。
「まあ、ちらかっているところだけど、上がって頂戴」
福山はバケツやら、紙の束やら、色々と物が置かれた急な階段を二階へと上がっていく。
「ちょっと狭いけど、そこに座ってもらえる?」
老人は窓際に置かれた小さなテーブルを指さした。入り口は居間兼食堂の少し手狭な部屋で、これでもかと言うぐらい、あちらこちらに荷物が積まれている。
「昔のチラシやら小物やらを持ち込んだら、ともかく物でいっぱいになっちゃってね。それよりもこんな年寄りに何の用だい」
「はい。劇場の再開についてのご相談です」
「はあ!?」
柊の言葉に、老人がさも驚いた顔をして見せる。
「柊さん、あんたサラリーマンだろう。それも見るからに立派な会社のエリートだ。今どき小屋をやろうなんて酔狂な考えはやめときな。もうからないよ。それに金はどうするんだい? あんたが頭を下げに行っても、銀行は貸してくれたりしないよ」
「クラウドファンディングで資金を募ります。実際にその成功例もあります。必要な資金の調達方法、損益分岐点の計算を含め、資料をお持ちしました。一度目を通していただけませんでしょうか?」
そう言って柊が差し出した資料を、福山はさもめんどくさそうにそめくって見せた。だがすぐにそれをテーブルの上へ置く。
「柊さん、金の問題だけじゃない。機材はもう部品を自分たちで手作りしていたような骨董品だ。それにスタッフはどうする?」
「元いた方に戻ってもらうことは出来ませんか?」
「もう閉めて一年近くだ。もといたスタッフだって、おれを含めてとっくに引退する年のものばかりで、田舎に戻って畑でも耕しながら雀の涙の年金暮らしだよ」
そう言うと、福山は小さく肩をすくめて見せる。
「それだってそれほど悪いもんじゃない。よっぽど健康的で長生きできそうだ。だから戻りたいなんて奴はいないぞ。それに再開発で立ち退きを迫られていたから、仮に再開できたとしても長くはもたない」
「立ち退きの件は私に任せてもらえませんでしょうか? その手の交渉事は慣れています。それと短期間でいいので、やはり前のスタッフの人たちに戻ってきてもらえると助かります。その間に私が仕事のやり方を覚えて、新しいスタッフにそれを教えます」
「ちょっと待ってくれ。あんた自分でスタッフまでやるつもりかい?」
「もちろんそのつもりです。務めていた会社には辞表を出しました」
福山が呆れた顔で柊を眺める。そして小さくため息をついて見せた。
「柊さん。金と時間を使うなら、もっと別なところに使った方がいいよ。あんたいくらマイマイに惚れたからって――」
そう声を上げたところで、福山が首を傾げた。そして柊の顔をじっと見つめる。
「柊さん、前にどこかで会ったことがあるかい? 記憶にないが、もしかして客だった?」
「いいえ、今日初めてお会いしました」
「俺の気のせいか……」
福山が窓際においてあった灰皿をテーブルの上に置くと、胸ポケットから出した煙草に火をつける。
「柊さん、マイマイに惚れただけじゃないね。あんた他にも訳ありだ」
そう告げると、福山は白い煙をゆっくりと吐き出した。