香盤
風呂場から水音が響いている。それを聞きながら、柊はテーブルに置かれた紙タバコのパッケージを手にした。煙草をやめてからずいぶん経つが、今は何故かそれを無性に吸いたい気がする。
煙草を手に、柊は何がどうしてこんなことになっているのかを思い返した。ホテルに着くなり、女性は上着を風呂場で洗い始めた。そこまではまあいい。問題はその後だ。むしろ柊の方が押し倒されるように体を重ねた。
『美人局か?』
最初はそう思ったが、そういう訳ではないらしい。女性は事が終わった後で風呂場に戻ると、洗った服を絞って乾かそうとしている。柊は手伝いを申し出たがあっさりと断られた。
「落ちそう?」
柊が風呂場から出てきた女性へ声をかけた。
「すぐに洗ったから落ちたと思う。それに化繊だから何とかなるでしょう」
女性がタオル一枚巻くことなく、素っ裸なまま笑って見せる。
「でも付き合わせて悪かったわね。私もここしばらく色々と溜まっていて……」
しかし女性はそこで言葉を切ると、柊の手に煙草のパッケージがあるのを見て、怪訝そうな顔をする。
「やめときなよ。体に悪いよ」
そう言うと、柊の手からたばこの箱をひったくった。そしてパッケージごとひねりつぶすとゴミ箱へと放り投げる。
「あんたのじゃないのか?」
「そうだけど。私もやめることにした」
「はあ?」
「だからお兄さんもやめなよ」
「ああ、分かった」
柊はそう答えつつ、目の前の裸体へ視線を向けた。年は20台の後半ぐらいだろうか? 適度に鍛えているらしく、無駄な肉はついていない。だが女性らしい曲線も留めている。
「あら、今頃になって眺めているわけ?」
女性が柊に胸を突き出して見せた。それはきれいな曲線を描いた双丘で、その先端に小ぶりな乳首が乗っている
「これでも体にはちょっと自信があるんだ」
そう言うと、女性はベッドから飛び降りた。そしてつま先立ちになると、頭を膝につきそうなぐらいに折り曲げる。おろされた手がゆっくりと持ち上がり、その指先がそれぞれ別の命を吹き込まれた如く動き出した。
女性はそのままゆっくりと上半身を持ち上げると、肩から薄絹を脱ぐ仕草をする。柊の目に、存在しないはずの衣装がはっきりと映った。
そのまま足を開脚して床へつけると、どこか遠くを見る表情で薄絹をどこかへ投げ捨てる。そのまま天高く手を掲げ、背中をブリッジさせつつ、上体を徐々に後ろへとそらしていった。
柊の前に彼女の女性器が隠されることなく露になる。しかしそこから感じるのは色気というより、古代の人があがめた女神みたいな神聖さだ。もしかして子供がいるのだろうか? その先の下腹部には長く少し目立つ傷も見える。
「どう? エロかった?」
女性はそうつぶやくと、まるでサーカスの軽業師が身をひるがえすみたいに起き上がった。そして柊ににんまりと笑って見せる。
「あんたは……」
「そう。サンタクロースはバイトで仮の姿。本業はストリッパーよ。もっともいつも踊っていた小屋はつぶれちゃって、最近は全然踊っていないけどね」
今度は切れのある動きで腕を横に振りながら、女性が激しいステップを踏んで見せる。
「やっぱり踊っていないと肉がついちゃうよね。前はヒップホップとかもやっていたんだけど、こっちをやったらはまっちゃって」
「はまる?」
そう告げた女性が自分の下腹部へ視線を向けた。
「お兄さんに言う話じゃないけど、初めて子供が出来た時に子宮にしこりが見つかってね。最初は子宮筋腫かもしれないと言われたんだけど、どうやら悪性だったらしいの。それで子供も流して、子宮もとっちゃった」
無言の柊をちらりと見ると、女性は言葉を続けた。
「変な慰めの言葉をかけるより、黙っていてくれる男の方が好きよ」
そう言うと、口の端を小さく持ち上げて見せる。
「子供を諦めればあんたは助かる。だけど子供を諦めないなら、あんたも子供も助からないと言われた。医者は子供が私に病気を知らせてくれたんだと言ったけど、私から言わせれば、なんでもっとまともな生活をしなかったんだって言われた気がした」
女性が自分の下腹部にある傷へそっと手を添えた。
「だからかな。舞台の上で踊っているときは、まだ私が女であることを確かめられる。そんな気がするんだよね」
その姿を柊はかける言葉もなくただ見守った。
ブー、ブー、ブー!
不意に女性の背後で彼女の携帯が振動音を立てる。
「まずい! もう戻る時間だ」
「服はまだ乾いていないだろう? いくらなんでも風邪をひくぞ」
そう問いかけた柊に、女性が壁にかかっている柊のダウンコートを指さした。
「そう思うのなら、あなたのコートを貸して頂戴!」
「今度は人にコーヒーをかけないように気をつけてね!」
そう告げると、女性は柊に対してフンと鼻を鳴らして見せた。濡れたサンタクロースの衣装を入れた、フロントからもらったゴミ袋を背中に担いでいる。
サンタクロースの衣装のままなら演出の一部とも言えるが、足首まである男物のダウンコートでごみ袋を担ぐ姿は、まるで古典的な漫画に出てくる泥棒の姿そのものだ。
「私の連絡先。連絡してくれたらコートは返すから」
女性が差し出した紙を柊は手に取った。それはパンフレットで派手な化粧をした女性たちが並んで映っている。柊はその中の一人に目を留めた。
「舞歌?」
「来週の香盤。ちなみにそれ、私の本名なんだ!」
そう声を上げると、舞歌はさびれたネオンの先へと足早に駆け去った。