とある事務員さん達の話その2。
その光景を目にした時、とにかくいかにしてその場から離れるか。それしか頭になかった。
いつになく慎重に開きかけた扉をひき戻し、音を立てない、ただそれだけに全神経を集中して完全に扉を閉めた。
多分、気づかれなかった。
大丈夫。
ばくばくと跳ねる心臓をスーツの上から押さえつけようとぎゅっと握りしめたのだけれど、心音はおさまるどころかスピードを上げ続けている。
まさか、あの二人が。
逆光でしっかり見たわけでは無いけれど、あれは間違いなく……
「…い、おい、山田!」
「へっ!?」
目に焼き付いた光景に気を取られすぎて、人の気配に全く気づけていなかった。
「なべ、先輩……」
いつの間にか目の前に立っていた先輩は、いつもの如く腕を組み鬼の形相でこちらを見下ろしている。
「何こんな所でぼけっとしてんだ。秘書様は時間に厳しいんだから早く行けって言ったろ。」
「あ、はい…」
ごめんなさい、すぐ行きます。
いつもならそう答えるところだ。わかっているのに早鐘を打つ心臓が、口も足も動かそうとはしてくれない。
「……山田?」
どうする。どうしたらいい。
説明するのか?あの状況を?
急ぎのあまりノックをし忘れて社長室のドアを開けたら……
「山田。」
低い声が、廊下を凍りつかせた。
「……お前、見たのか。」
「っ、」
何を、なんて 聞くよりも早く、先輩が僕の左手首を掴んだ。無意識のうちに唇を撫ぜていたその手を、だ。
そのまま廊下の壁に押さえつけられた。
ギリギリと手首は締め付けられ、鋭い眼光がこちらを射抜いてくる。
「……答えろ。」
いつもの怒声とは違う、低く静かな声。
怖い。
見下ろす瞳に震えるほどの恐怖を感じたのは初めてだった。
「あ、の……そ、その…」
言葉が出てこない。
正直に答えては駄目だと本能が告げている。
ギリギリと締め付けられる腕に顔をしかめながら、視線を泳がせることしか出来ずにいた。
けれど、沈黙は肯定だ。
咄嗟に否定できなかった時点で先輩には全てバレてしまっている。
先輩が苦々しげに奥歯を噛み締める。
「山田。」
ゆっくりと、その顔が近づいてきた。そう思った時には唇を塞がれていた。
「ん、っ、」
壁に押さえつけられ身動きが取れない。抵抗しようにも、先輩はビクともしなかった。
顎を捕まれ強引に唇を割開かれる。ぬるりとした熱の塊が侵入してきた。
「ん、んんっ、」
以前の酔いに任せて唇を奪われた時とは違う。あの時はまだ、例えば恋人にするような、こちらを思う優しさがあった。
けれど、これは違う。呼吸も、熱も、言葉も、全てを奪い蹂躙する行為だ。そこに優しさなんて欠片も無い。
酸欠で視界が霞む。苦しさに先輩の胸を叩けば、ようやく唇は離れていった。
押さえを失った身体は、ずるりとその場に崩れ落ちていく。
酸素を求めてはくはくと唇が震えた。
「っ……は、せ、んぱ……」
無感情な瞳がこちらを見下ろす。
「……見た事を誰かに喋ってみろ、お前も同じ事をしていたと広めてやる。」
「な、んで……」
「俺は社長の狗なんでね。……先代もあいつも、失脚するような事は絶対にさせない。」
先輩の手がするりと僕のネクタイを掴み、乱暴に引っ張りあげる。
「どんな手を使っても、だ。」
触れた唇は、今度はすぐに離れていった。
「っ、な、んで……」
答えは返ってこない。
先輩はこちらを一瞥すると無言で踵を返した。
靴音が遠ざかっていく。
感情が追いつかない。
なぜ、どうして。分からない。
消えゆく背中を見つめながら、ただ気がつけば己の頬を冷たいものが伝っていた。