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第四話『大きく一歩』②



 その瞬間、ドンッと誰かにぶつかる。


 「わ、すみませんっ!」


 慌ててペコッと頭を下げると、ぶつかった誰かがぱっと顔を上げてキョトンとする。


 「え、坂本先生?」


 覚えのある声にその人の顔を見ると、それは自主練を終えた碧だった。


 私の姿をまじまじと見るものだから、恥ずかしくなって会釈をして去ろうとする。けれど碧は「待って待って」と声をかけて、腕を引く。


 「鍵、返してくるから、ちょっと待ってて」


 びっくりした碧に圧倒されてか、私も素直に「はい」と言ってしまい、なぜか碧を待つ流れになってしまった。


 慌ててさっさと鍵を返してきた碧は、待たせたことを謝りながら私の隣に並ぶ。



 「え、えっと、行きますか…?」


 階段の方を指差すと、碧はそうだねと言って頷いた。それきり待っててと言ったわりに、何か話しかけてくる様子はない。


 ちらっと碧のほうを見ると、碧はじっとこちらを見ていて、目が合いそうになり自然と目をそらした。


 階段を登りはじめからもしばらく視線を感じて、ふと碧が口を開いた。



 「……先生、イメチェンですか?」


 碧の言葉にさきほどの小出先生が思い浮かび、思わずくすっと笑みをこぼした。


 「そんなところです」


 どうですか、と笑いかけると、碧はまじまじと私を見つめた。


 先生たちはああ言ってくれたけれど、もしかしておかしなところがあったのだろうか。不安になっていると、碧は一通り私の全身を見て、困ったように笑った。


 「よく似合ってますよ。クラスの反応が怖いくらい」


 ははっと笑って目をそらした碧の言葉に、ますます不安が募る。


 「え、それどういう意味ですか」


 思わず聞くと、碧は再びこちらを見てニコッと微笑む。


 「すぐ分かりますって」


 気付けばもうすでに二年生のクラスがある階までついていて、二年三組まであと少しだった。



 すぐに分かる、というのが余計に不安を煽る。ドクドクと心臓の音が大きくなっていくのを感じて、私は大きく深呼吸をした。


 それから、碧のあとを追うように、少しだけ間をあけて教室に入る。


 「……おはようございます」


 扉近くの席の子に聞こえるくらいの大きさで、自信なさげに挨拶をする。私の声に彼女たちはこちらをくるっと向いて、それから少し驚いて、目を輝かせた。



 「先生、今日なにかあるの?!」

 「おしゃれ〜」



 楽しそうに笑いながら、彼女たちは私をまじまじと見た。


 露木陽子と永野美幸。ちゃんと覚えてる。深い関わりはなかったけど、クラスメートとして何度か話したことはある。



 「別に何かあるわけじゃないんですけど、イメチェン……というか」


 返答に困りながらも答えると、二人は目をキラキラさせながら私を見た。


 「似合ってるよね!可愛い!」

 「わたしこっちのが好き〜。先生も、もっと自信もってシャキッとしたらいいのに」


 ねー、なんて声を合わせて笑いかけてくる。


 陽子と美幸の声でクラスのみんなの視線が集まってくる。ざわざわと騒がしくなっていくけれど、向けられているのは嫌な視線じゃない。


 …自信をもって、か。



 『もう少し愛想よくしたらどうなんだ。取引先の人にお前のことについて言われたよ』

 『ほんと根暗。笑った顔もブスだけどさ、無愛想なのもウザい』


 もともと笑うのが苦手で愛想の良くない私だけど、散々好き勝手言われ続けて、自信なんてとうに失っていた。笑えば何か言われ、無愛想ならそれで何か言われて。


 だから、だろうか。


 中学生なんて、お世辞も覚えて世渡り上手になっていく年頃の、決して本心とは言い切れない言葉でも、嬉しく思うのは。お世辞ばかりの夏子の言葉ですら、嬉しく思えたくらいだから。


 ……夏子の場合、この先に希望を持った言い方が胸に刺さったんだけど。


 上っ面だけの言葉でも、私はしばらく言われたことがなかったこと。可愛い、なんて、中学生の頃はなんでもかんでも言っていたし、私に対する言葉だって、その一環だって分かってる。



 「ありがとう、ございます……」

 それでも、少しだけ、声が震えた。二人には気付かれなかったけど、私は慌ててなんとか平静を装う。


 こんなちっぽけなことで嬉しくて泣くなんて、子供みたいだ。代わりに頑張って笑いかけてみると、笑ったらもっと可愛い、なんて言ってくれた。



 パイプ椅子を抱えて、教室の後ろの隅で座る。たったと駆けてきた碧が、ニコリと笑いかけてくれる。



 「クラスの反応、なかなかだったでしょ?」


 ……確かに、なかなかだったけれども。


 碧の笑顔は少し意地悪で、こんな笑みも浮かべるのかと少し驚いた。



 「長谷川くんがあんな態度をとるから、すごく不安だったんですが」


 ちょっと怒ってます、という感じで、軽く睨むように碧を見ると、碧はますますニコニコと笑った。


 「先生ってからかいがいがありますよね」


 サラッと失礼なことを言ってのける碧に、私はまたムッとした。


 「先生をからかわないでください」


 自分で言っておいて、密かに自分でハッとした。



 自分のこと“先生”なんて言ったの、初めてかもしれない。ごく当たり前のように過ごしてきた、あり得ない設定の世界で、私は初めて自分を先生と呼んだ。


 傍から見れば大したことじゃないかもしれないけど、私にとっては大きなこと。教員免許をとっておきながら、なることを諦めた先生として、私がここにいるのだから。

 諦めて、もう二度となることはないと思っていた先生として、私がここにいることを認めたことになるから。



 「……先生、どうかしました?」


 碧が少し心配そうに私に問いかけた。


 私はそんな碧に、ふるふると首を横に振った。


 「なんでもないです。ちょっと、仕返しを考えてただけです」

 「え、それ言っちゃいます?」


 私の発言に碧が食い気味に答えるものだから、思わずふふっと笑った。それに合わせて、碧も微笑む。




 「坂本センセー!」


 ドンッと腰に誰かが頭突きにも思えるぶつかり方をした。よく記憶に残ってる声から、それが誰なのか想像するのは容易かった。


 私の腰にぎゅっとしがみついてから、ひょこっと後ろから私の前に出る。それから、私の顔を見てニコリと笑いかけてきた。



 「先生、なんの話してるのー?」


 凛月が、思い切り頭突きしたことに悪びれることもなく、ニコニコとしながら尋ねてきた。少し腰が痛むけどなんでもないふりをして、私はふるふると首を横に振った。


 「別に、大したことじゃないですよ」


 誤魔化せば、凛月はムッとして碧の方を見た。


 「長谷川くんばっか先生と話してずるい!」


 睨むような目で見る凛月に、碧は別にと視線をそらす。



 凛月はもともと、こういう子だ。自分が中心にいたくて、自分をいれてもらえないと拗ねてしまう。頭突きかと疑わしい抱きつき方をするくらい、元気のよすぎるほうが彼女らしい。


 ……まあ、でも。


 「ほんと、凛月ちゃんは坂本先生のこと好きだよね」


 付き合わされるほうは大変だろうけど。


 今の会話をそばで見ていた夏子が笑う。凛月はその言葉に大きく頷いた。



 「坂本先生、可愛いし優しいもん」


 「……優しいって言っても、まだ知り合って一ヶ月なんですけど」

 「日数は関係ない!」


 目をキラキラとさせながら、凛月は得意げに答えた。


 曇りのない目、正直な目。きっと誰も、こんな子が影で人をイジメているなんて思わない。放課後にこっそり、人をイジメているなんて、この頃の私だって、思わなかった。



 「それにね、坂本先生、抱きついても何も言わないし、ほんと優しいもん」


 もう一度、今度は優しく腰に腕を巻き抱きついてくる。そうして私の肩に頭を当ててぐりぐりとする。


 ふと凛月を見れば、凛月も私の視線に気づいて見上げて。目が合うと、ニコッと微笑んでみせる。



 どうしてだろう、その目は曇っていて、何色でもなくて。複雑な感情をそのまま映し出したような。


 凛月は、どうして、イジメなんかしたのだろう。


 今まで少しも考えもしなかったコトが頭をよぎった。こんな子がイジメをしてるなんて、とばかり考えていたけれど、そもそも、どうしてこんな子がイジメをしたのだろう。



 少しずつ視線をそらして恵美の席の方を見る。彼女は一人で席に座って本を読んでいた。いつも、一人だった。


 話しかければ笑って答えてくれるけど、どこか物悲しい顔をしていて。寂しそうなのに、自分から誰かに話しかけに行くことはない。


 それは、凛月がクラスの中心にいたからだろうか。凛月の友人と仲良くしたら、凛月に何をされるかわからないから、だろうか。



 恵美がときおり羨ましそうにこちらを見ていることがあるのは、知ってる。でも絶対にこちら側には踏み入らないようにわざと避けている。



 その姿は、どこか見覚えがあった。いつか、似たような人を見たことがあった気がした。



 ……わかってる、私自身だ。


 会社で一人、楽しそうに話す人たちを見ながら羨ましく思った。けど、絶対に自分から話しかけようとは思わなかった。私があの輪の中に必要とされていないことはわかっていたから。



 恵美の姿が、追い詰められていく私と重なっていく。恵美が自殺したのは、きっと私と似た境遇のせい。


 私は仕事を辞めて生きる意味を失った。恵美は生きる意味をイジメに奪い取られた。多分、その違い。


 きっと今、恵美のことが気になっているのは、自分を見ているみたいだからだ。



 「先生、どうかした?」


 凛月に声をかけられてはっとする。私は小さくふるふると首を横に振る。


 「なんでもないです。そろそろ、チャイム鳴るんじゃないですか?」


 ちらっと時計を見て声をかけると、凛月も同じように時計を見て、それから少し驚く。他の人たちも、時計を見てばらばらと席に戻っていく。


 「やばっ」と小さく呟いた凛月も、さっさと席に戻った。


 ちょうど、そのタイミングでチャイムが鳴った。



 私はいつものように教室の隅に立って、教室の中をぐるりと見渡す。



 なんとかしたいと思った。これはきっと神様がくれたチャンスなのだろう。今の私にできることを、するための。


 今の私なら、恵美の気持ちが少しはわかる。同じ立場に立った私なら、わかるところがある。


 だから、私が変えなきゃいけないんだ。恵美の苦しめられる未来を、どうにかして。


 だって、私は。


 私は、恵美のイジメを見てみぬふりして、そんな自分が許せなくて。いつか、彼女みたいな人に出会ったときに手を差し伸べたくて、教師の道を選んだのだから。私が自信を失い、教師にならなかったのは、彼女の死が大きく関係するのだから。


 これは、きっと、彼女が苦しみ死んでしまう未来を、それとともに私が死ぬ未来を変えるための、チャンス。凛月が悔み苦しんでいくだけの未来を回避するための、チャンス。


 ここで過去を変えて、私の世界が変わらなくても。せめて、この過去の未来が、少しでも良い方向に回っていくように。



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