第四話『大きく一歩』①
姿見を買っておけばよかったと、後悔した。
ドレッサーの決して大きくない鏡の前で、おかしいところがないか何度も確認をする。
化粧はいつも通りしてるかわからない程度のナチュラルメイクだから、顔は昨日とまったく変わらないけれど、雰囲気が、違う。正直これだけ違ってくるとは思わなくて、緊張のしすぎで心臓が口から飛び出てきそうだ。
「……変じゃ、ないよね」
くるりともう一度回って、鏡に映る小さな自分を見て確認をする。多分大丈夫だと何度も何度も自分に言い聞かせて、パチンと軽く頬を叩いた。
大学時代に来ていた服を、一人暮らしの家に持ってきてよかったと心底思った。休日に着るかも、なんて持ってきて、そもそも休日なんてないわと捨てなくてよかった。
まさか、二度と着ないと思っていた服を、着るときがくるなんて思ってなかったけど。人生はほんと、なにがあるか分からない。
大きく大きく深呼吸をする。思い切り吸い込んで肺いっぱいにいれた空気を、ゆっくりゆっくり吐き出していく。
「よしっ!」
気持ちを、切り替える。
……どうせ、ここまできたらしばらくは元の世界には戻れない。
そもそも私がもうすでに死んでいて、そういう魂とかだけタイムスリップしている可能性もある。どっちにしろ、戻れないのなら、私のやりたいように生きればいい。
これは、私が変わるきっかけだ。
恐怖はある、不安でもある。けれど、変われるチャンスなら、やり直せるチャンスなら、何もしないでいるより、変わる努力をするべきだ。
後悔した未来を、繰り返さないためにも。
昨日の恵美が、それを教えてくれた。
でも、未来を変えるためには、いい方向に向けるためには、私自身もきっと変わる必要がある。
だから、大学時代の服を引っ張り出して、きっちりと一つにまとめていた髪をハーフアップにしてみて。少しでも堅い印象が抜ければと、見かけから変えてみることにした。
どこかを大きく変えてみなきゃ。人は簡単には変わらないのだから。
準備をして家の外に出ると、四月のはじめ頃とは違い、青々と茂った木がいくつも並んでいた。
一ヶ月ほど前は、そこら中がピンク色だったのに季節は変わり、もう五月。視界に映る人や物の背景を、緑色が埋め尽くしていく。日は高くなってきているけれど、風はまだ肌寒い。
そんな中車に乗り込み、学校へと向かった。
靴はしまっていたスニーカーを引っ張り出してきた。久々の丈の長くふわっとしたスカートは、運転しやすいようなしにくいような、微妙な感じ。
うっすいベージュのカーディガンが、サラッと肌をなでた。左手首には、家で見つけた太めのブレスレットをつけている。
スーツのときは傷も隠れたけれど、カーディガンだと風でめくれることもあるし。左手首だからよっぽどわからないと思うけれど、もしものためだ。深くつけた傷だから、どうにも消えそうにないし。
学校について、いつもよりもきれいに車を停める。
心臓がドクドクと大きく脈打つ。それがおさまるようにと大きく深呼吸をして、それから意を決して車の扉を開けた。
キョロキョロと周りを見渡して、正門そばの教員用玄関からさっと中に入る。靴を履き替えて、すぐ近くの職員室前まで行って、再び深呼吸をした。
それからそっと扉を開けようとした時だった。
「……坂本先生?」
横から声が聞こえてきて、思わず手を引っ込めた。
よく聞き慣れた声、顔を見ずとも誰のものかすぐに分かる。
私は恐る恐る、そちらを向いた。
「えと、白石先生、お、おはようございます……」
緊張のために息苦しく、空気が喉に突っかかっているようだ。なるべく自然に挨拶をしたつもりだったが、うまく舌が回らず噛んでしまった。
恥ずかしくて下を向くと、視界の隅で白石先生がパッと顔を明るくしたのが見えた。
「わあっ、びっくりしましたー! 大学の時の服ですか? 似合ってますね!」
色も素敵、と言って、白石先生は荷物を抱えたままこちらへ寄ってくる。
白石先生の言葉は多分本音で、だからこう、面と向かって言われてなんだか照れくさい。
「あ、髪型も違いますね! 雰囲気がやわらかくなりましたねー」
白石先生がこちらへ伸ばした手で私のやさしく髪を撫でる。
服装のほうが大きく変わってるし、髪型には気づくかなと疑問だった。だけど、いつもは後ろで一つに束ねていた髪をハーフアップにしたわけだから、当然気づかないわけがなかった。
ハーフアップにしたのは、印象がやわらかくなると思ったのと、スカートには、そっちのほうが似合うかと思ったから。
ニコッと笑う白石先生に、私は嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちでいっぱいになる。
下を向いたまま、私は頬を緩めて微笑んだ。
「ありがとうございます……」
ぼそっと呟くと、白石先生は「いえいえ」と言ってふわりと笑う。
白石先生はどうやら廊下においてある、クラスへの返却物を置くためのクラスボックスに用があったらしく、そのまま私に背を向けていく。
私はもう一度深呼吸をしてから、職員室の扉を開けた。
……大丈夫、白石先生も褒めてくれたんだし。
職員室に入ると、まず真っ先に校長先生と目があった。キョトンとしていくつか瞬きをした校長先生にペコッと軽く会釈すると、あぁ、という顔をして微笑み会釈してくれる。
どうやら一瞬誰だか分からなかったらしい。
近くを通りかかると、校長先生は優しく微笑んだまま、
「明るくなりましたねぇ」
そう、ポツリと言葉をこぼす。
優しい言葉に照れくさくて下を向いたまま、お礼を言う。
それからさっさと自分の席へと向かった。
机に荷物を置くと、ふと斜め前の席からの視線を感じた。そちらを見れば、小出先生が私をまじまじと見つめている。髪型や顔から服装までしっかりと見られ恥ずかしくて席に座ってしまうと、代わりにガタッと小出先生が立ち上がった。
「イメチェンですか?! すごくお似合いです! そもそも雰囲気変わりましたよね? 接しやすくなった気がします!」
ワイワイと話し始める小出先生に、戸惑って俯いたままペコペコと頭を下げる。
接しやすくなった、のかな。前のままでも十分いろいろと話しかけてきた小出先生に言われても、あまり説得力がないような。
でも嬉しい一言に、ありがとうございます、と小さな声で言う。それなりの声で返したつもりなんだけど、小出先生の声と比べたらたまいぶんと小さく聞こえた。
「いやー、真面目すぎなくていいと思いますよ!」
褒められてるんだか、貶されてるんだか。
確かに真面目すぎると話しかけにくかったり関わりにくい雰囲気があるけれど。だから、褒められてる、って解釈でいいんだよね。
小さく笑うと同時に、小出先生の横の席にドサッと荷物を置く音がする。私からは少し遠い席にプリント類を置いたその人が、小出先生を軽く睨むように見る。
「小出先生、うるさい」
棘のある冷たい言葉のようだけど、からかうような口調は相変わらずだ。
「郷平先生も見てくださいよ! イメチェンされて雰囲気も変わってるでしょ! 似合ってると思いません?」
ほらほら、と私の方を指差して、小出先生がキャッキャとはしゃぎながら言う。指をさすなと、郷平先生が小出先生を軽く叱る。
二年生と三年生、それぞれいくつかのクラスの数学を受け持っている郷平 晃司先生。気だるげな先生で、口調はキツく冷たい言葉ばかりだが、それが全部冗談だと言いたげな顔をしていた。生徒をからかうのが大好きな、面白い先生だ。
緊張して顔を上げるに上げられず、俯いたままだけど、郷平先生からの視線だけは感じられた。
……生徒の前では面白くて明るい先生だったけど、実際はどうなのだろうか。職員室の中では性格が変わる先生もいるだろうし、と緊張する。他の先生たちはまったく変わりなかったけれど。
郷平先生はふむふむと頷いたあと、ぐっと親指を立てた。
「いいじゃんいいじゃん、スーツとかよりもそっちのが好きだな、俺」
そっと顔を上げる。郷平先生は相変わらず気だるそうな表情のままだけど、親指を立ててコクコクと頷いている。
私はほっと息をついて、ゆるりと口角を上げた。
「良かった、です」
……郷平先生、生徒の前でも先生たちの前でも、いつもこんな感じなんだ。服装を褒められたことと、記憶にある彼とそう変わらないことの両方に安心をして胸をなでおろす。
それじゃあ、と席に座った郷平先生をよそに、小出先生がこちらを向いたままふと首を傾げる。
「でも、いきなりどうしたんです?」
……なんとなく、絶対に誰かにはそんなことを聞かれる気がした。
昨日まではスーツで、まったくそんな素振りなんて見せなかったのに、いきなり私服を着てきたりなんかして。心境の変化があったなら、それが気になるのは当然のことで。
「えーっと、少し……」
昨日のことを思い出す。
けれどもそんなこと、人に容易く言えるはずもなく、えっと、と言葉を濁す。
「……変わりたいと、思ったんです」
ざっくりと一言でそう伝える。いろいろと端折られてるけれど、根本的にはそういうことだ。
「このままじゃダメだなぁって思って。変わるなら、分かるところから、かなって」
変ですか、と問うと、小出先生は優しく微笑んでふるふると首を振った。
「心機一転、というわけですね。とてもいいと思います!」
小出先生の言葉に、私は頬を緩めた。
……そう、心機一転、なんです。
うだうだと考えた理由が、一言にまとまってなんだかすっきりしたような、そんな気分だ。
私はとりあえずさっさと準備を済ませてしまって、それからそっと職員室をあとにした。
みんなと会うのは、なんだか緊張する。準備をしている間にいろいろ話しかけられたけど、先生たちは誰一人、おかしいと言う人はいなかった。
もちろん真面目な方が好きだと言ってくれた人もいる。ただそれは好みだからという助言もあるし、小出先生が変わるためだという話を出してくると、だいたいいいんじゃないかって言ってくれる。頑張れと言ってくれる人だっている。
……大丈夫、変じゃない。
自分に言い聞かせて、私は階段のほうへ向かおうとした。