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第二話『白石先生と、私』②



 ハッとして周りを見ると、小出先生が不思議そうに私を見つめている。


 「坂本先生は早く準備して教室行かなくていいんですか?」



 小出先生に言われてチラッと時計を見る。七時四五分過ぎ、まだ生徒は登校してこない時間。




 ……白石先生はこんな早くから、教室を開けて生徒を待っていてくれたのか。


 教室が第二の家になるようにと、先生がそう言っていたのは聞いたことがある。先生はそうなるように、“おかえり”の代わりに“おはよう”と言えるように、こんな早くから教室で待っていたんだ。




 多分小出先生は、白石先生がもう教室に向かったものだから、私も行かなくていいのか疑問に思ったのだろう。小出先生はクラスを持っていないから、まだのんびりできるけれど。



 時計を見た私とともに、小出先生は自分の腕時計に目をやり、小さく驚いてみせた。


 「あ、まだこんな時間だったんですね。白石先生、教室に行くの早くないですか?」


 生徒思いですねと、小出先生は楽しそうにクスクスと笑った。



 それから、ちょっぴり羨ましそうに白石先生の席を見つめた。


 「あーあ、私も担任とか副担任とか、やりたかったなぁ……」


 ふふっと笑った小出先生に、私はキョトンとして首を傾げた。



 「大変なだけじゃないですか?」


 自ら教師の道を選んだこともあるくせに、こんなこというのはなんだけど、教育実習のときは見ていて忙しそうなばかりだった。その上部活の顧問をやっている人もいたりして、精神を削られていく仕事だと思った。


 それを、羨ましがるなんて。



 小出先生は私の問いに、少し驚いてからニコリと笑った。



 「確かに、やってるときは忙しくてたまったもんじゃないけど、やらなくなるとすこーし羨ましくなったりするんですよ。生徒と一番関われるのがクラスですからね」


 まあ、私には部活がありますけど。と付け足して、小出先生はニヤッと笑ってみせた。




 ……あ、そういえば、部活、私もやらなくていいのだろうか。




 小出先生に、「確かにそうですね」と当たり障りのない返事をしてから、私は席をついた。


 部活のことについて疑問に思うも、どうせいつか帰るのだからと首を横に振った。


 そうだ、私は帰らなきゃいけない。これが現実なら未来に、リアルな夢なら現実の世界へ。走馬灯だというのなら、私の逝くべき場所へ。なんにせよいつか消えるんだ。そんなに、考えなくてもいいのかな。 



 手に持っていた書類を机の上においた。



 『どこが間違ってるのよ……』


 啜り泣く声、くしゃりと書類を握りしめる音、掠れた声。私が、泣いている。上司に投げ返された書類を見つめながら、泣いていた。





 「……いいと思うなんて褒めてもらえたの、いつぶりだろう……」


 違う意味で泣きそうになって、私はぐっと涙をのんだ。



 とりあえずテキパキと準備をしてから、私も教室へと向かった。その途中で挨拶をしてくれる生徒たちもいたけれど、反応が遅くなったり声が小さかったりした。


 ……挨拶するってだけで、嫌な記憶が蘇ってくる。




 「坂本先生」



 不意に声をかけられ、私はハッとした。あまり聞き慣れすぎた声に、ビクッと肩を震わせると、声をかけた彼女はクスッと笑みをこぼした。



 「先生、驚きすぎ。暗い顔してたけど、考え事?」


 彼女は、坂月 のぞみはそんなことを言ってまたクスッと笑った。 「不安?」と唇で弧を描く彼女には、きっと私がクラスに馴染めるか不安に思っているように見えたのだろう。


 確かに不安である。だって私は彼らを知っている。彼らですら知らない、未来の、二十歳になった彼らの行方も、知っている人については知っている。


 それを知っていた上で、どう接したらいいのか、不安に思う。



 ……まあ、今暗い顔をしていたのは、まったく別のことを考えていてなんだけど。




 「そう、ですね。少し」


 指でちょっとと示すと、そっかと言って彼女は笑った。





 「まあ、でも、先生ならきっと大丈夫だよ。頑張れ」



 口元にぺったりと笑みを貼り付けて、大丈夫だなんて無責任な言葉を放つ。大丈夫かなんてわからないくせに、頑張れなんて本心から思ってもないくせに、さらにと口にする。


 私だから、分かること。




 「ありがとう、ございます」



 自分自身に慰められてお礼を言うのは、なんだか変な気分だ。


 彼女は貼り付けた笑みのまま、教室の中に入っていく。


 挨拶を交わす声、楽しそうな笑い声。誰かからの挨拶に彼女はなんでもない顔で笑って返すけれど、その笑みが偽りであることを私は知っている。



 凛月の無邪気な笑顔ですら、裏がありそうだなんて探って。



 ……いや、実際、裏はあったんだけど。




 私はため息にも近い長い息を吐いて、教室の中に入った。



 「あ、坂本先生おはよー!」


 私に気付いて、凛月がぶんぶんと手を振りながら挨拶をしてくる。


 「おはようございます」


 小さく手を振り返すと、凛月は満足げに笑って、友人との会話に戻る。


 凛月を筆頭に私に気付いた人たちが次々と挨拶をしてきて、私はなるべく一人ひとりに挨拶をし返した。


 私に気付いて挨拶をしてくれることは、私の存在を否定されないことは、緊張するけれど嬉しかった。逆に泣いてしまいそうなくらい、心が満たされていくよう。ここに、仕事をしにきているなんて、思えない。




 ……私は、こんなの知らない。



 冷たく淀んだ空気、ピリピリとした職場、誰も私を見ない、認めない世界。たった一人で監獄に入れられたような、孤独で緊張した雰囲気。誰もいないみたいなのに、誰かに必ず見張られている。何かあればナイフが私の胸に突き刺さってしまうような、そんな場所しか、知らない。



 『また来たのかよ、役立たず』

 『ほんと目障り。アイツがいるだけで仕事に支障がでるのよ』


 喉元に突き立てられたナイフみたいに、冷たくて鋭い言葉、突き刺さる視線。泣いて、泣いて、どうしようもなかった毎日。





 「……あ、坂本先生、早いですね!」


 白石先生の声で現実に引き戻される。




 「あ、はい。……えーっと、やることってありますか?」


 白石先生からの期待も込められたような目に耐えきれず、私はそんなことを尋ねた。


 白石先生は思わず、ふふっと笑みをこぼした。



 「先生、会社に勤めていた時の癖が出てますよ」




 ……ああ、私が一年会社に勤めていたっていうのは、履歴に残ってるんだ。知っているということは、いつかに私から聞いたか、誰かから聞いたか。


 確かに、会社では常に誰かのご機嫌をとって、やることはないか問うて、仕事を引き受けて、ばかりだった。いつの間にか、人の仕事まで引き受けるのが癖になっていたらしい。



 「……えっと」


 なら何をしようかと戸惑っていると、白石先生はまたふふっと笑ってみせた。



 「生徒たちとお話してきたらどうですか?仲良くなるためにも」


 ね、と耳打ちされる。


 生徒たちと、と口の中で復唱して教室の中を見回してみる。


 見覚えのある景色が広がっている。自分たち、子供の世界に入り込んだ、大人を受け付けない空間。“私”もきっと、先生が入ってきたら少し鬱陶しいと感じるはず。


 戸惑っていると、くすっと笑う白石先生の声が聞こえた。



 「坂本先生、もしかして人見知りとかですか?」


 クスクスとからかうように笑われて、つい、何も返せずに肩をすくめた。



 人見知り、というわけではない。話しかけられれば話すし、話さなければならないことは普通に話せる。


 ただ、昔から人と関わるのが苦手だった。浅い付き合いなら構わないのだけど、そう、仲良くなるということが。これを人見知りというのかもしれないが。



 ならなぜ教師になろうと思ったのか。それは今さら悩むまでもなく、大学生だった頃の自分が散々悩んでくれた。


 理由は、あった。けれど悩めば悩むだけ、やっていける自信がなくなっていった。



 「人見知り、ではないんですけど。生徒だけで楽しそうに話してますし、私が行って邪魔にならないかなと」


 ポツリと、本音をこぼす。言ってしまったあとでハッとして、手で軽く口元を覆った。



 『言い訳をして逃れようするな! お前は俺の言ったとおりにやってればいいんだ!』


 キーンと頭に響く金切り声。地面へと伸ばされた手をぎゅっと握りしめる。




 「そんなことないですよ」


 ふわりと笑う、優しい声。なだめるように、優しく説得をするように語りかけるような声。


 「気持ちは分かります。けれどみんな、坂本先生と仲良くなりたいと思ってますから。邪魔だなんて、思いませんよ」


 ふふっと笑みをこぼした白石先生は、誰よりも綺麗に見えて眩しく見えて、心があたたかくなる。決して上から押さえつけるような言葉じゃなくて、諭すような声だから、言葉だから、心にまっすぐ届いて。



 ……どうしてこの人はこんなにもまっすぐなのだろう。



 「あ、ね、坂本先生! わたし、聞きたい事があるの!」


 ぐいっと誰かに腕をひかれる。そちらを見ると、高めの背丈の桜子が、こっちこっちと私の腕を引いていた。


 行く先には光と彼女、それから周りの席の女子が数名集まっている。



 不意に白石先生を見る。白石先生は微笑みながら、できないウインクを披露してくれる。



 「ほらね」


 眩しくて、見てられない。十年前には感じられなかった、白石先生の眩しさが、私の心を溶かしていく。


 悲しいくらいに、眩しい。




 私、こんなにもいい先生が担任だったのに、なんにも、できなかったんだ。


 憧れが、眩しさが、罪悪感に変わっていく。


 成人式、チラリと見えた、白石先生の悲しそうな横顔。話しかけてみても苦しそうな作った笑みを浮かべていた。そんな顔をさせる羽目になってしまったことが、私がこうなってしまったことが、申し訳なくて。



 桜子に引かれた左腕、手首がズキッと痛む。


 傷はまだ、癒えないまま。




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