第一話『ここは10年前の、』②
「坂本先生、そろそろ体育館に行きましょうか」
今度は教頭先生が声をかけてきた。坂本という名字はどうも呼ばれなれないが、“坂”が同じだからなんとかすぐの反応はできる。
私は返事をして、席から立ち上がると、先程見つけた着任式での原稿をポケットに入れてから、教頭先生の後を追った。
教頭先生もいいお父さんという雰囲気が、あの時と変わらない。そういえば着任式で新しく来た先生を体育館まで連れてきていたのは教頭先生だったか。
体育館に入ってすぐ、懐かしい景色に私はつい泣きそうになった。
変わらない。あの頃と同じ景色がそこにある。
私は三年生の時、一度選挙管理委員の仕事で前に立ったことがあった。その時、狭い体育館に詰め込まれた全校生徒の多さに驚いた。聞いてはいたけれど、実際見てみると本当に多くてなんだか感動すら覚えた、その時の景色と変わらない。
「生徒、多いでしょう」
そっと歩み寄ってきた白石先生が、コソッと私に耳打ちをした。
私はじっくりと生徒たちを眺めながら、コクっと頷いた。私の反応に、白石先生は満足げに笑っていた。
始業式が始まり、校長先生の短いけれど長い話が始まる。
うとうととしている生徒も多い中、私はその話に耳を傾けていた。
さすがに校長先生の話の内容なんて覚えていないから、懐かしいなんて言葉も出ない。あのときは私も寝ている側だったし。
だけど改めて聞いてみると、意外とありがたい話をしていたりして、なんで聞いてなかったんだろう、と思う。
しばらくして、着任式が始まり、私の他にもいるらしい数名の着任される先生とともに、登壇した。そして、それぞれ手短に話、もとい挨拶をすることになった。
私ももちろん、自分では書いた覚えのない、私の字で書かれた原稿を読んで挨拶をした。
それから降壇して、担任、副担任の発表をして、生徒たちが喜んだり落ち込んだり驚いたりするのを見て。
それから……。
「……坂本先生」
呼ばれなれない名前を呼ばれ、一つ遅れてそちらを見た。
そこには白石先生が立っていて、私と目が合うとニコリと笑いかけてきた。
「そろそろ教室に行きましょうか」
白石先生の言葉に頷いて、それから体育館をあとにした。
教室につくまで、白石先生はこっちに何があるとか、この階には何があるとか教えてくれたけれど、やはりそれは私の知っているとおりだった。私の知っている、学校の構造そのまんま。
改めてここは私の通っていたあの中学校であることを思い知った。
二年三組について、扉の前で一度立ち止まって。白石先生のあとに続いて教室の中に入った。
白石先生が軽く話している間、私はチクチクと刺さる視線を感じながら、私も教室の中を見回していた。
一人、一人、見覚えのある顔が並んでいる。
白石先生に促され、教卓の前に立って、改めて教室を見回して。
「さかづ……、坂本美希です。一年間よろしくお願いします」
典型的な挨拶をしてお辞儀をする。
パラパラと聞こえてくる拍手に顔を上げると、不意に“彼女”と目が合った。
ムスッと不機嫌そうな顔をして、睨むような目で私を見る彼女。一見怒っているように見えなくもないけど、彼女はいつも感情がないときはあんな酷い顔をしている。
……知っている。
だって、彼女は私なのだから。
*
「坂本先生はどこの中学から来たのー?」
誰かが、尋ねる。
始業式後の学活の時間も終わり、生徒もだいぶんと帰った頃である。
そんなの知らないわよ、と言いたいし持ちを抑えて、私は校長先生の話を思い出した。
「新任……だから、大学から、ですかね?」
そういえば、尋ねた子は「あ、そっか」と言って笑った。他の子が、校長先生が話していたことを指摘すると、聞いてなかったとおどけてみせる。
この二人は、確かクラスの中でも仲が良くて、いつも二人で行動してたっけ。名前も、うん、ちゃんと覚えてる。
一応、クラス名簿と照らし合わせて確認していると、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら誰かが近付いてきた。
「ね! 先生いくつなの? 彼氏はいるの?」
きゃっきゃと楽しそうに話しかけてくる。中学生らしく無邪気でストレートな質問に、ズキッと胸が痛む。
「年は、今年で二十四歳で、彼氏はいません」
はっきり言うと、つまんないの、と口を尖らせる。
知ってる。この子の言うことはこのクラスでは絶対で、無邪気で残酷な女王様だってこと。
名前は山内 凛月。ふわふわとしていて、名前もとても可愛らしくて、何よりも残酷な子。
「凛月ちゃん、失礼でしょ! それに先生はまだ彼氏がいないだけで、綺麗だからこれからいくらでもできる可能性があるわけだし!」
サラリと褒めてくれた、おだて上手なこの子は結城 夏子。上っ面だけはものすごく良いけど、腹の中は何を考えているか分からなくて。
……うん、よく覚えている。
まあ、お世辞でも褒めてもらえて嬉しいけど、今はその言葉にすら胸が痛む。未来に希望を持ったような言い方は、未来を捨てようとした私には、あまりにも残酷だった。
なんとか、「ありがとう」とお礼の言葉を口にすると、夏子はふにゃりと微笑んだ。
途端に、トントンと肩を叩かれる。
「坂本先生は、食べ物、なにか好きなものありますか?」
ニコリと微笑みかけながら、桐谷 桜子が私に尋ねた。
隣には日下 光が、左手に誰かを連れて立っている。光に連れられた彼女はこちらを向いているものの、視線は私に向かない。本当に私に興味がなさそうで、早く席に戻りたそうにしている。
「食べ物……、和菓子、かな。甘すぎないものが好きです」
当たり障りのない答えに、彼女は不意に私の方を見た。
「先生、コーヒーは好き?」
彼女が口を開く。
今よりもずっと子供っぽい、坂月のぞみの声。やっぱり、声変わりという声変わりをしないためか、私の声と似ていた。
変な感じがする。やっぱり夢にしか思えない。だって、昔の自分と面と向かって会話しているだなんて。
「好き、です。特にブラックコーヒーが」
答えれば、彼女は艶のある唇で「そうなんだ」と呟いた。
ほんのりピンク色に色付いた唇。私はそこまで血色はよくないし、それが色付きのリップのためであることは分かっていた。もちろん校則に引っかかるのを分かっていた。だから、気付かれない程度の色付きリップを使っていた。
私だから分かること。
「わたしも、好き。甘いチョコが美味しく感じられるんだよね」
普段はビター派、と付け足した彼女に、私は知ってる、と心の中で突っ込んだ。
コーヒーを飲むときだけ甘めのチョコを食べること、チョコだけならむしろビターしかいただかないこと。
やっぱり、彼女は私なのだ。
「のぞみちゃん、コーヒー好きなんだね。大人だなぁ」
食いついてきたのは凛月だった。
一瞬だけ、のぞみが嫌そうな顔をした気がした。多分、気のせいじゃない。
なにせ私は、坂月のぞみは、このクラスの女王様が嫌いだったから。
理由は、簡単だった。私にはできようもないそのわがままな態度、どことなく漂うイジメっ子気質、雰囲気。
偏見なのは分かっていたが、上から押さえつけられるような女王様感が単純に気に食わなかった。
……この頃の、私は。
「私、そろそろ、職員室に戻りますね」
声をかけると、凛月が残念そうな顔をして、「えー」と頬を膨らました。
凛月はまだ話したいようだったが、私はできれば家に帰りたかったから、一言の謝罪とあからさまな愛想笑いでかわした。
職員室に戻ってから用意されていた昼食を取り、これからの説明をされ、大量の資料を受け取り、私の教科書を受け取った。
私は一年生半分と二年生の家庭科を担当するらしい。
半ば未だに信じられないままその日は帰ることになり、学校をあとにした。
帰る頃にはすっかり日が暮れかけていて、オレンジに染まる空がとても綺麗だった。
久しぶりにこんなに綺麗な夕日を見た気がする。最近はずっと、夕日すら見れていなかったような、そんな気がする。
……そんな気がするんじゃなくて、夕日も見れていなかった。
日の登る頃に家を出て、夜遅くまで残業して、たいして日の光を浴びることなく過ごしていたんだ。
どれくらいぶりかまともに見た太陽は、眩しすぎて目がチカチカした。
さて、どうやって帰ろうか。
適当に鞄を探ると、コツンとなにかかたいものが指に当たった。
鞄から出してみるとそれは車のキーで、不思議に思い学校の駐車スペースを見てみると、この時期にはないはずの車が停まっていた。私が、買うならこれと決めていたものだ。
試しにキーで車のロックを解除してみると、その車が反応する。
どうやら私のものらしく、扉を開けてみると、運転席の上に私のと思われる免許証が転がっていた。
釈然としないまま、とりあえず車に乗り込む。
ただ、帰るにしてもどこに帰ればいいのか明確ではなく、車の中をいろいろと漁る。すぐに、書類らしきものが見つかった。
駐車場の契約書。どこのマンションの駐車場か、住所までしっかり書いてある。
私が就職とともに一人暮らしを始めた家で、間違いない。
ふと助手席の方を見ると、シーツの上に家の鍵が転がっていた。一年間使ってきたものだから、見間違えるはずはない。
とりあえず、と車を家まで走らせることにした。といっても、この学校から家までは車で十分くらいで、そう遠くない。隣の隣の学区くらいだから、自転車で行くことも可能である。
まあ、朝からスーツで自転車を漕ぎたくはないかな。
マンションは、私が知るよりも新しめで、壁も私が知るよりも白くて綺麗だ。
あっているか分からないが、ひとまず私の住んでいる“はず”の部屋へと向かう。車で見つけた鍵を差し込むと、ぴったりだったようでがちゃんと音を立てて鍵が開いた。
「……ただいま」
やっと、一安心できた。
家の中に入って見渡してみると、それは確かに私の部屋だった。
ソファーに腰掛けて、スーツの上着を脱ぐ。あまりに非現実的な体験をしたためか、どっと疲れが押し寄せてきた。
未だにこれが現実だとは思えないが、この疲れたという感情も、なにもかも、現実じゃないとは思えない。
なにからするべきか、と視線を這わせると、床に赤いシミを見つけた。
「……これ、もしかして、」
近くに転がっていたのは、刃が赤く染まったカミソリ。私があの時、使ったもの。
……私は、この家は、あのときの、あの日のままらしい。
カレンダーと時計だけが、“正しい”時間を刻んでいる。
平成2×年、201×年の、あの時を。