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第八話『たすけて、』②



 それから、私の一言のせいで一瞬止まってしまった呼吸を整えるように小さく深呼吸をして、かたまっていた手足にかすかに力を込めた。ふう、と息をついてから、恵美はジッと私を見上げた。


 「別に、なにも。……あの、逆に、なんでそう思ったんですか?」


 曖昧な答え方をして、恵美は逆に私に問うてきた。


 なにも、というのは、死にたいと考えていたわけではなく、だからといって他になにか考えていたわけでもないのだろう。


 恵美の言うなんでそう思ったのか、というのは当然の疑問だよね。ぼーっとしていただけなのに、ぼーっとしていただけだからこそ、急に死にたいと思ってたかなんて聞かれて、驚くのもなぜそう思ったか気になるのも当然だと思う。


 私は恵美の問いに、少しだけ考えたあと、意を決したようにその目を見据えて微笑んだ。



 「私と、同じ顔をしてたから、です」


 はっきりとした声で告げたその言葉に、恵美はほんの少しだけ驚いて、それから不思議そうに首を傾げた。


 同じ顔、同じ表情。恵美と重なったのは、半年ほど前の、正確にいえばここに来る直前の私の姿。会社を辞めて家に戻ってきた私が、洗面所の鏡で見た自分の姿だ。あの時の私と、同じ顔をしていた。


 ……なんか、最近はよく、誰かと自分の昔の姿が重なって見えるな。それもどれも、悲しい姿ばかり。思えば思うほど、私の人生はまるでこの頃の罰みたいだ。勝手に見捨てておきながら、罪を償いたいからと教師の道を選んで、それなのに怖気づいて教師を諦めた身勝手な私への、罰みたい。



 少しずつ視線が落ちていった私に、恵美は「あの、」と声を振り絞る。


 「先生、死にたいと思ったこと、あるんですか?」


 少し納得のいかないような表情で、ちょっと疑うように問いかけてくる恵美に、私は困ったように笑った。



 今の私はとても充実した毎日を過ごしていて、死にたいなんて思ったことない、自分とは遠い存在に見えるのだろう。どうせあったとしても、学生たちが普段軽々しく死にたいと口にするような、ほんの小さなことだと思っているんだと思う。



 「……ありますよ。人間ですから、嫌なことも、死にたいと思ったことも」

 「……なんで、死にたいと思ったんですか」


 恵美の問いかけに、私はえっとと言葉を濁した。


 聞いてしまってから、恵美はハッとしたように口元をおさえた。きっと、自分だったらその質問で嫌な思いをすると、そう思ったからだと思う。


 だけど私は、そんな恵美に笑いかけた。


 「……イジメとパワハラを受けていて、それでも辞めずに仕事をしていたけど、精神状態が危うくなって、辞めざるを得なくなったんです」


 私がそう言うと、恵美は不思議そうに首を傾げた。


 「イジメやパワハラのある会社から、辞めることができた、じゃなくて、辞めざるを得なくなった、なんですか?」


 イジメやパワハラで会社を辞めるということは、一般的に見れば“逃げる”ということだ。自分に向けられる悪意から逃げることができるのは、それが社会人に比べ圧倒的に難しい義務教育中の学生からしたら、羨ましかったりするのだろう。義務教育は決められた学校に通うことを強いられていて、逃げることは難しいから。


 そりゃあ社会人だって、簡単に仕事を辞められるわけではないけれど。退路を自ら塞がない限りは、どこかに逃げ道が隠れていて、社会人は学生に比べるとそれを見つけやすいと思う。親と離れていれば、余計に。


 私は、自ら逃げ道を塞いでいった。むしろ、逆に逃げてばかりだったのかもしれない。


 「仕事のために生きていたので、辞めざるを得なくなった、なんです。仕事が生きる意味になっていた私にとって仕事を辞めることは、生きる意味を捨てることに等しかったんです」


 左手首のカーディガンを軽くまくれば、未だにくっきりとした傷が残っていた。夏はリストバンドやブレスレットで必死に隠していた傷跡。今も暑い日は、いつ半袖になってもいいようにとリストバンドで隠している。



 ……自分でそれらしいことを言っておきながら、どうして死のうと思ったのか、と問われると、正直答えがたいものがある。ただ一つ言えることは、死にたいという思いがそうさせたのではなくて、単純に生きている意味を失ったからそうしたまでだ。


 仕事に追い詰められて、仕事が唯一の生きる意味になって、それを失って。誰にも相談せずに、一人きりで抱え込んだモノが、いつしか逃げられないくらい膨大になっていて、死にたいという感情なしに死を選ぶまでに私を追い詰めて。



 「先生は、それから、立ち直れたんですか」


 今こうして教師として自分と接する私を見て、恵美はまっすぐとした目でそう尋ねた。


 ……ああ、どうだろう。考えたこと、なかったな。今の私は、立ち直れたのかどうかなんて。


 強制的にこの世界に連れてこられて、どうせ死んでしまったかもしれないなら、せめて来てしまったこの世界の未来が変わればいいと頑張っているけれど、それは、立ち直れたからなのかな。



 「どう、だろ。立ち直れた、のかな。わからないですけど。ただ、私は、もし六木さんになにか思いつめることがあるのなら、……同じ末路を、歩んで欲しくないんです」

 「……末路?」


 私の言葉に、なにか引っかかる恵美。だけどすぐに険しい表情をして、下を向いた。なにかを考えているようで、私は恵美が口を開くまで、何も言わずに外を眺めた。


 外の部活の、片付けを急かす声が聞こえていた。そういえば、今日は部活には初めに顔を出したっきりだったな。水月先生に任せっぱなしだ。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、恵美がそっと、口を開いた。



 「……あの日から、先生は、私が隠したかったことを知って、私のこと気にしてましたよね」

 「そう、ですね」

 「イジメられる自分が恥ずかしくて、自分でなんともできないことが情けなくて、先生には、強く当たりました。私は、大した理由もなしにイジメる山内さんに、何一つ抵抗できない自分が大嫌いなんです。自分を、辞めてしまいたいくらい。だから、せめて恥ずかしい自分を、なんとかしたくて……」

 「六木さん」


 恵美の言葉を、遮った。


 パッと顔を上げた恵美は、今にもこぼれそうなほどの涙をためていて、震えた声で、なんですか、と問いかけてきた。


 「イジメられることは、なにも恥ずかしいことではないです。非があるのは、イジメてる側……、って私が言うと、自分のことを庇ってるみたいにも聞こえますが。今、六木さんと話してて、改めて思いました。イジメは、心の殺人だと。理不尽な理由で突然ナイフを刺されても、黙って自分一人で解決しようとする人はそういないでしょう? 誰だって助けを求めるはずです。ナイフを向けた相手に、一人で抵抗しようとしなくても、いいんです。それに、助けを求めることだって、立派な抵抗です」


 だからあまり思いつめないでと、私もまっすぐ恵美の目を見た。


 ドクドクと心臓の音がうるさくなって、何度も噛みそうになりながら、なんとか言い終える。正直、思ったままを口にしたから、ちゃんと自分の言いたいことを言えていたか、わかんないけど。


 言い切って、大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。恵美の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。





 「じゃあ、私、山内さんに、先生の言う抵抗を、します。……だから、先生。私、坂本先生のこと、頼ってもいいですか……?」


 震えた声で、覚悟を決めた声で、恵美はギュッとスカートを掴みながら、負けじと私の目を見つめ返す。私の名前をしっかりと呼んで、不安の拭えない目で、それでも確かに私を見上げる。


 「頼ってくれるんですか?」

 「頼ります。先生、助けてください」


 私が首を傾げると、恵美ははっきりと、そう言った。声の震えも気にならないくらいに、はっきりと、確かな声でそう言ってくれた。


 「もちろんです。私のできることをします」


 それなら私は、それに応えるだけ。私にできる限りのことを、他の先生にも協力してもらいながらやるだけだ。



 「ありがとうございます。あの、私、もう帰りますね」


 チラッと窓の外に目をやってから、恵美は軽く会釈をした。それから荷物を持って、教室を出てこうとする恵美に、私は笑いかける。



 「六木さん、また明日」

 「はいっ」


 振り返った恵美が、大きく頷いて笑い返してくれた。恵美の自然な笑顔は、初めて見た気がした。


 まだどこか寂しそうだけど、それでも私まで笑顔になれるくらい、やわらかくて素敵な笑顔。その笑顔を、守れるように、頑張らないと。



 ……行動を起こすのは体育大会が終わってからになっちゃうかもしれないけど。




 翌日からは、凛月が見ていないすきに声をかけてくれた。そのときに、コソッと体育大会のあとになることを説明したけど、恵美は仕方ないと言ってくれた。


 もう数日後、言ったら今週末に迫ってるし、大きなイベントに区切りがついてからのほうが動きやすいし。大きなイベントが迫っているからか、凛月のほうも大きな動きはない。しばらくはいつも通りの時間が流れている。


 それから、体育大会当日、自分のやることに区切りがついてそこらを歩いていた私に、のぞみが驚いた顔をして駆け寄ってきた。



 「先生っ、そういえば、六木さんが先生に相談したって言ってたけど、ほんと?」

 「ほんとですよ」


 私が答えると、のぞみは安心したように笑って、よかったと呟いた。


 最近は、のぞみと恵美の距離も前よりも近くなったみたいだし、少しずつだけどいい方向に進んでいる気がする。でも油断は禁物だ。


 しばらくのぞみの様子を見ていると、のぞみはそういえばと私の顔を見た。


 「そういえば今さっきのことなんだけど、光が、最近わたしと六木さんがよく話してるから言っておくけどって言って、イジメのこと、なんとなく勘付いてるような、発言してた」


 話したほうがいいのかな、と悩むのぞみをよそに、私は中学三年の始業式にクラス表を眺めていた自分たちの姿を思い出した。



 『……うわっ、山内さんと同じクラス。あ、でも六木さんは違うクラスなんだ、良かった』

 『良かった、って、どうして?』

 『だって、見るからにイジメっ子とイジメられっ子なんだもん、山内さんと六木さん。実際それっぽい雰囲気匂わせてたの、のぞみなら気付いてたんじゃない?』


 あの時光は、サラッとそんなことを言って、私に聞き返してきた。私はいつから気付いてたのかとか、どう思ったのかとか聞けなくて。きっと光も巻き込まれたくなかったんだと察して。


 『確かに、ヤな空気流れてたよね、あの二人』


 そんなふうに、濁した。


 光は雰囲気で勘付いただけだった、私はイジメを目撃したのに逃げた。私に、光にあれこれ言う権利なんてないのは明確だった。


 光は、このときからなんとなく気が付いていたんだ。凛月はあからさまに態度に出すことは避けているみたいだけど、光は勘の鋭いほうだから、なんとなく気付いていたのだろう。



 「イジメのことは、話しても、話さなくても。ただ、たまにはたくさんで話したほうが楽しいかもしれないから、その……」


 コソッと小さな声でそこまで言うと、のぞみはニコリと笑みを浮かべる。


 「それは分かってる。光も桜子も、六木さんとは話してみたいって言ってたし」


 大丈夫だよ、と笑ってみせたのぞみに、私も笑顔で返した。


 少しでも恵美を支えてくれる人が増えてくれれば、きっとこの先も恵美が笑みを失くすことはないはず。凛月のイジメから脱することができたとして、ひとりぼっちのままだったらそれは意味がない。


 のぞみはそれだけ伝えると満足したのか、自分のクラスの席へと戻っていった。


 私もそれを見送ってから、次の役割を確認して、その場所へと向かった。



 体育大会が終わった。


 土日、部活が終わったあとなどに、準備をしていた書類をしっかり見直して確認をして。月曜日、私は、意を決して、学校に向かった。


 白石先生になんて話せばいいのか、なにから話したらいいのか、すごく悩むところだけど。


 頑張らなきゃ、頑張って声をかけなきゃ。説明をして、協力を得なきゃ。


 ……きっと今日が、この先の未来を決める、一番大きな一歩になるんだから。



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