第一話『ここは10年前の、』①
どうして死のうとしたのかと問われると、正直答えがたいものがある。
その時の心境を素直に言えば「何も考えていなかった」わけで、一言で語れるような理由なんてものはない。
それでもその理由を簡単に言うならば、死にものぐるいで過ごしてきた一年間に積み上げてきたものがそうさせた。もっと簡潔にいえば、生きている意味を見失ったのだ。
どれだけ働いてもぎりぎり生活できるか否かの給料、繰り返されるパワハラ、イジメ。
教員免許を取得した私は、その後一人暮らしを始めて普通の企業に就職した。
免許を取得しておいて教師にならなかったのは、自信を失くしたというなんともしょうもない理由があるためである。
結局就職した企業は想像しがたいほどのブラック企業だった。それでも一年間は耐えてきたのだが、精神状態が危うくなったがゆえに辞めざるを得なくなった。
すでに生きている意味を失いかけていた私にとって、仕事を辞めることは完全に生きる意味を捨てることと同じだった。
生きるために仕事をするわけではなく、仕事をするために生きているようなものだったから。
せっかく仕事のせいで追い詰められ死すら考え辞めたというのに、辞めたあとも付きまとい追い詰められていく。
腕を切ったのは、気付いたら、だ。気付いたらカミソリかなにかを手にとって、気付いたら深く傷をつけていた。
一つ二つと切りつけられた手首から血があふれた。深く、刻んだためか。鋭く鈍い痛みがして、とめどなく血が流れていった。視界が揺れて、ふらふらと倒れそうになり、私は床に寝そべった。
フローリングに血が広がり、茶色を赤く染めていくのを見ながら、私は涙を流していた。
そしてそのまま、意識を、手放した。
*
「……先生、坂本先生!」
誰かが近くで呼んでいる。肩をつかまれ揺らされて、それが私を呼ぶ声だと知る。
その声でぼんやりとしていた意識を引き戻され、私はハッとして顔を上げた。
……私、死んだはずでは……?
キョトンとする私の目の前には女性が立っていて、私の顔を覗き込んでいた。
どうみても看護師ではない。死にかけの人を助けている、という感じもしない。
彼女は焦げ茶の髪をさらりと揺らし、私の目を見てふわりと笑う。
「大丈夫ですか? 心ここにあらず、って感じでしたが」
やっぱり不安ですか?と、彼女は優しく笑いかけたまま首を傾げた。よく話が見えてこない私は、戸惑いながらもとりあえず頷いた。
彼女はそうですよねと言って、くすくすと笑う。
見たことのある、見覚えのあるその笑顔。優しくてふわふわとした、白い服が似合う素敵な人。
信じられなくて目を疑う。呆然と彼女を見つめる。
すると彼女は何を思ったのか、コホンと一つ咳払いをした。
「白石真子です! 坂本先生が副担任を務める二年三組の担任です。担当教科は国語です」
よろしくお願いしますと、手を差し伸べられる。
ハキハキとした喋り方、若いのに頼りになる姿勢、低くもなく高くもない大人びた女性らしい声。
何もかも、あのときのまま。私の記憶にあるままの姿。
私は流されるがまま、彼女、白石先生の手を取って握手をした。
その温もりは、どうにも嘘には思えない。ぎゅっと握りしめ伝わってくる温もりも手の感触も、すべてがきっと、本物だ。
こんなこと、有り得ない。絶対に有り得ないはずだ。せめて夢であるはずなのに、夢にしてはどうしてこんなにもリアルなのか。
わけがわからず、相変わらずキョトンとしたままの私を放って、白石先生はおもむろに腕時計で時間を確かめた。それから、「わっ」と小さく声を上げる。
「あの、私、五組の出欠を取って体育館まで一緒に行くので、あとは職員室のほうに行けば、誰かが案内してくれると思うので!」
私が立っていたのは教員用の玄関らしく、すぐそこに職員室があった。
白石先生はそちらを指差して、それからこっちですと私を案内した。
「それでは、またあとで。一年間よろしくお願いしますね、坂本美希先生」
ひらひらと手を振り、優しく微笑んだ白石先生は、さっさと保健室のある方へと駆け足で去っていった。多分、保健室の隣にある階段から教室に向かったのだと思う。
とりあえず、状況を把握しきれていない私は、何かわかるだろうと職員室に入ろうとして、ふと違和感に気付いた。
白石先生が、私を“坂本美希”などと言ったことについてだ。
私の名前は“坂月のぞみ”で、全く違っている。それなのに、彼女はなんの違和感もなく違う名前で私を呼んだ。いくら夢でも、別の名前を呼ばせるなんてことは少し考えにくい。
これを夢だと仮定して、それなら私の記憶が作り出しているわけだが、坂本美希などという名前は全く身に覚えがない。思い入れがあるわけでもないし、身近にそんな名前の人がいたわけでもない。耳にしたわけでも、いつかにその名前を考えたことがあるわけでもない。
学校の先生になっている点については、中学家庭科の教員免許を持っているから納得だけど……。
……ますます、こんがらがる。
白石先生が触れた感覚は夢にしてはリアルすぎる。けれど、夢じゃなきゃ、おかしい話なんだ。
この職員室、それから長い廊下、見渡す景色は私の中学校と何一つ変わらない。
多分、ここは私の中学校。
そして白石先生は、私が中学二年生のとき、三組であった私のクラスの担任の先生。可愛らしく若い先生なのにそれなりにしっかりしていて、優しい笑顔が印象的だった。
つまり、だ。夢じゃなきゃここは過去の世界ということになる。白石先生が“二年三組”の担任を務めたのは私が中学二年生だった年だけだから。
私は一つ深呼吸をすると、意を決して職員室の扉を開けた。
「ああ、坂本先生、おはようございます」
出迎えてくれたのは、中学三年間見続けた校長先生だった。年の割に若く見える顔も、だけど髪が薄く頭皮が見える頭も、まさに元気なおじいさんと言える体格も、すべて記憶したときのまま。
おはようございます、と頭を下げてから職員室を見回すと、数名の見覚えのある先生たちが話していた。
わいわいと盛り上がる職員室の中、私は校長先生に自分の席まで案内された。一番隅、それも外と繋がる扉のすぐ近くだった。
それから、始業式が始まるときに一緒に来ることと、着任式での大まかな流れを確認した。
確認、というが、実際私がこの話を聞くのは初めてである。なんだか変な気分。
改めて自分の服を見ると、会社に勤めていたときのスーツを着ている。意識を失う直前、ボサボサだった髪は綺麗に一つに束ねられている。
近くにある洗面台の鏡で確認すると、見慣れた変わらぬ自分が映っていた。
なんだか釈然としないまま席につき、適当に鞄を漁る。物が当たる感触も、到底夢とは思えない。
漁っていると、着任式で話すための原稿らしきものや、保険証など自身の身分証明書が見つかった。
……名前は、坂本美希になっていた。
そのうち、あれこれと作業をしている私を、誰かがじいっと見つめていることに気づいた。気になってふと顔を上げると、斜め左前の席に座っている先生が、ニコニコと笑いながら私を見ていた。
「あの……」
私、この人も、知っている。美術担当の小出由香里先生だ。確か私が二年生のときは、どこも担任はもっていなくて、一年生の半分と二年生の美術の授業を受け持っていた。
可愛くて、女性というより女の子らしい感じがする人。童顔なのか幼く見える上にそんなに背も高くなくて、薄桃色のカーディガンがお気に入りの……。
「あ、申し遅れました! 小出 由香里です! 坂本先生、よろしくね〜」
いつも明るくて、テンションの高い面白い先生。
よろしくお願いしますの意を込めて、ペコリと軽く頭を下げた。それから、ちらっと隣の机においてあったカレンダーを見た。
四月の字の下に、「201×年」と書かれている。
私はふと小出先生の方を見た。こちらを気にしながらも、もうすでに自分の作業に移っていた小出先生だが、私の視線に気付いて首を傾げる。
「あの、今年って、何年ですか?」
脈絡のない突然の問いに、小出先生はキョトンとしてから、ぶふっと噴き出した。口元を押さえて必死に笑いをこらえようとしているが、まったくこらえきれていない。ちょっと待ったと手のひらを見せて、それから深呼吸をする。
「あー、笑った。今年は平成2×年ですよー。書類とかで散々書いたでしょー」
…あ、確かに、書類とかにはそういう日付を書く欄があるものだから、書いた、という“設定”になっているのか。
「書いたかもしれません」
曖昧に答えると、小出先生は再びふふっと笑いだした。
……私の美術を担当してくれた小出先生も、確かこんな風に笑う人だったっけ。遠慮なく、笑うときは笑うから、こっちまで楽しくなって笑えるような、そんな先生だったっけ。
思えばこの職員室の景色もよく見たことがあるのだ。私が座っているこの席が、空席だった記憶も。
それに、小出先生、平成2×年って答えてくれたけど、平成2×年はまだ私が中学二年生だったときの年だ。
私はこっそり机の下で手の甲をつねった。ピリッとした痛みが感じられて、私は「痛い」と小さく呟いた。本当に小さな声だったから、誰にも聞こえてはいない。
すっと手首の方になぞっていくと、くすぐったくてむず痒くなる。それから、スーツの袖の中まで指を滑らせていると、ふと手首に違和感を感じた。
何かにつっかかる感じ、皮膚とは違う、ザラッとした手触り。
袖をめくり上げると、手首には白い包帯が巻かれていた。
そこは、確かに私が切った場所。死ぬために切りつけた場所。
傷の上をなぞると、治っているわけではないらしく、傷口がズキズキと痛んだ。
私の身体は、この世界の時間から十年後の、202×年の死を決めた瞬間のままなのだ。