夢の続きは遥か遠くに
よろしくおねがいします。
「いい天気ですね」
「結構な曇天だけどな」
玲玲とした涼やかな声で、あいにくの空模様を晴天かのように表現する少女。
その声にぶっきらぼうにツッコミを入れながら、切ってもらったリンゴをいただく。
美味い、勉強で疲労した脳髄に確かな癒やしを与えてくれる。
本来は爽やかな果実の味も何処か上滑りして腹の中にしみてこないのは、他のことを考えているからだろう。
病室のベッドに身を預け、片脚を釣られている。松葉杖で歩くには今少し時間が必要だ。
幸いなのは今は痛みはあまり感じていないことで、少しは痛むが痛み止めを必要としていない程度で、問題はない。
怪我をしてからずいぶんと経っているのでそろそろ治り始めてほしいが、そう甘くはないのだろう。
「いえ、いい天気かと……今は初夏でしょう?」
「まぁ……暦の上ではそうなるけども」
「心頭滅却しても熱いものは熱いですので、今の季節において「いい天気」とは
今日のような、涼やかなる天候だと思いますから」
「なるほど、一理ある」
生涯二度目の病院送りということもあり、体も心も大分慣れては来ている。
ベッド脇に座る幼馴染と気楽に喋れるようになったのはそのおかげだろう。
「はい、ですからいいんです。お洗濯には向かないですが身体を動かすにはむしろこのような天気のほうが向いています。このところの天候は、些か暑すぎるかと。」
「確かに今日みたいな日のほうがいい試合を見れたりするからなぁ……」
そういって納得している様子の彼女を見ていると不安になる時がある。
彼女の名は、醍醐千歳
シルバーブロンドの幻想的な長い髪を靡かせ
伝承の宝珠もかくやという輝きを放つ碧色の切れ長の瞳
薄い唇とスッと整った鼻も含めて左右完全対象という奇跡
怜悧な美貌はしかし鉄面皮であることもなく、笑う様は月の光のようだ。
スラリと伸びた足は長く、背丈は170センチ程の長身でスタイルは女神級。
粉雪のようなきめ細かい肌をしている……完璧な美女。
自分では相応しくないのでは、と考えてしまう。
「…………毎日見舞いに来てくれるのは有り難いけど、色々と大丈夫なのか?
実家のことだって完全に片付いたわけじゃあないんだろう?」
「大丈夫ですよ、万事抜かりはありません」
「あいつら、諦め悪そうだったぞ?」
「フフフ……ところがどっこい諦めてくれましたよ?」
「…………」
何をしたんだ? とは聞けない。
千歳は実家から半ば追い出されていた時期があった。
両親の不義のせいで、巻き添えを食ったのだ。
幸い、彼女の祖母は人格者だった。多少破天荒なところもある人だったけども。
可愛い孫のために、巨万の富を持つ家を出て、老後を千歳を育てるのに費やした。
そういう情愛に溢れた人だった。ちなみに千歳の容姿は祖母からの隔世遺伝なのだとか。
実の両親、父親の方は姿すら見たことがない。会いたくもないけど。
千歳が中学二年になった頃に体調を崩されて……そのまま逝ってしまった。
祖母さんの遺産を狙って有象無象がやってきた、というのが実家とのいざこざの全貌だ。
他には何も、ない。ないったらないのだ。
「じゃあ学校はどうなんだ、テストは兎も角出席はどうもならんだろう?」
「推参させていただく手前、そのように心配してくれることも考えていましたが
やはりてっちゃんは優しい……」
「おい、誤魔化すな」
「欠席したのは数日だけですので、問題はありませんよ」
それは確かなのだろう。
千歳は才色兼備を地で行く女だ、然るべき努力にもって生まれた気質と才覚が合わさっている。
今の俺には欠けているものを、持っている。
その欠損部分こそが、俺の価値なのだと思っていた。
無様を晒したくない……そう思って、距離を取るように言ったことがある。
答えは一瞬の沈黙の後、雷の如き怒りを伴って。
『――厭です、巫山戯るのも大概にしてください。』
帰ってきた言葉は返す返すも言うが、信じられない怒気を孕んでいた。
昔から千歳には頭が上がらない。何も怪我してからではないのだ。
彼女は俺の心の内を覗いたかのような言動を取ることが珠にあるが……
「どうすれば道を分かつことができるかなどと、そんなことを思っているのでしょう」
「……いや、そんなことは」
「てっちゃんは昔からわかり易すぎます。競技中も反則をしたら笛がなる前から
やってしまったという顔をしてしまっていましたから審判の方も苦笑されていましたよ?」
「よくそんなことを、……覚えているな?」
「毎週見ていましたから ……戦術に詳しくなる程度には嗜んでいますから
それでなくともお隣同士で毎日顔を合わせていますから」
なるほど、道理である。
まぁ俺はポーカーフェイスというわけではないから、バレバレなのは当たり前かもしれないな
俺だって千歳の考えがわかるときも稀にあるわけで、お互い様と言えばお互い様か。
千歳との縁は本当に小さい頃からだ、保育園に途中入園してきてからだから……丁度十年かな?
当時、周りと違うことを気に病み、他人と距離を置こうとしていた彼女は孤立していた。
孤高になりうる面影など微塵もなく、ただただ気弱というのが当時の千歳の印象だ。
進化……とは違うか。……昇華したとでも言えばいいのだろうか?
いや単に成長したでいい気もするけど本当に凄い人になったものだなぁ、などと余計なことを考えていた。
「時間ですね、そろそろ始めましょう」
「え?」
そうしたら時間がある程度経過していたようで、オーバーテーブルが整頓されていた。
個室である以上、誰が片付けたのかは言うまでも無い。
満点の微笑みで参考書を片手に持っている様はまるで教師のようである
教え方の丁寧さと厳しさを味わっている身としては、甘い考えは浮かばない。
「さて、そろそろ十五分経つことですし、勉強の続きと参りましょう
二、三日中には復習を済ませなければなりません、そうしなければ前に進むことは叶いませんから。
加納鉄矢くん? 聞こえていますか?」
「毎回思うけど、切り替えが速すぎないか? イングランドかよ」
「てっちゃんも、もう問題を解き始めていますよね?」
似たもの同士、ですね。と彼女は微笑んで、参考書のページを指定した。
千歳は切り替えが疾い、と思う。
悪いことを引きずらないが、しかし良いことの余韻というのは大事にする性分。
見習いたいと思う。
俺は未だに引きずっている、嘗ての夢を取り戻せないと知りながら……
フットボールに対するこだわりは捨てられず、結局別の形で関わることに決めたのだ。
【俺からフットボールを取ったら? …………いいとこ酔っぱらいじゃねぇか?】
そう言って笑う恩師の顔を思い出す、待っていてやると言った髭面を。
俺も似たようなもので、フットボールを捨てられないのだ。
「…………今日は調子がいいみたいですね」
彼女の声を彼方に聞きながら、かりかりとシャーペンを奔らせる。
兎にも角にも現在の至上命題は勉学だ。
単に休んだ分取り戻すと言うだけではないのだから、頑張らねば。
身を粉にして、遠い夢に邁進すると彼女に誓ったから
☆
俺達が出会ったのは保育園の頃。
回覧板を新しいお隣さんに届けに行ったら、出てきたのだ。
見たことがない髪の色をした妖精のような少女……
仲良くなったキッカケは些細なものだ、俺がしたのは誤解を解いただけだ
明るい髪色=不良といった偏見を抱いていたのは一部だけだから、それさえなんとかしてしまえばクラスの奴らはさっぱりしたものだった
『てっちゃん、学校に行きましょう』
小学校に入っても、仲がよい二人はそのままだった。
いらんやっかみも受けたけど、年相応の悩みも増えていったけれど
千歳は歳を重ねるごとに綺麗になって、秘めた才能も花開き……
そこでようやく、彼女の隣というのがどんな場所なのか……理解したのだと思う
ただ、俺には人に自慢できる特技があって、少しばかり特異な能力も持っていた
『おめでとうございます、鉄矢くん ……でももっと早くに知らせて欲しかったですね
流石に今からでは旅券が間に合いません……』
『いや、追加招集だからね? 俺も呼ばれるなんて思ってなかったぐらいだからさ……』
その日はお祭り騒ぎだったな。
出発の日、わざわざ空港まで来てたのは驚いた
『鉄矢くん、ネクタイが曲がっていますよ? メディアの前に出るのですから
ある程度弁えなくては』
『お、おう……』
遠征先で行われた国際大会で活躍して、チームメイトと再会を誓って帰国。
……思えばこのときから禍福は歪み始めていたのだろうか
うちに来る雑誌やwebメディアの記者の人たちも増えて、高校や下部組織の指導者も目をかけてくれるようになった
俺はようやく……あいつの隣にいて許される存在に成れた気がした
千歳と対等になれたと有頂天になっていたんだろうな
そんな時隣の邸宅、つまり千歳の家に彼女の実家から使いの者が訪れた
先に挙げた遺産の件で、この際だから色々とかたを付けてしまおうと彼女は決意したみたいだ。
『鉄矢くん……いえ、てっちゃん……そういった事情ですので、少しだけ、お側を離れさせてください』
『…………うん、わかった 俺に構わず……往って来い』
遠征先で右足を軽く負傷していた俺は彼女をそうして送り出した。
家族と決着をつけに行く千歳を、あいつがいつもしてくれているように見送ったのだ。
『…………くそっ、加納出てくれッ! このままじゃあ……』
『はい、アップは済んでるんで……全力でいけますよ!!』
千歳が見に来れなかった試合は国内では久しぶりだった。
怪我明けの俺は、あくまで顔出しのようなもので試合に出る予定はなく……
しかし……監督は使わざるをえなかったのだろう。メンバー表に名前が入っていたのだ。
『加納鉄矢』を見に来ている人もいたから……な
後の顛末は……わかりやすいものだ。
再起不能の大怪我を負って、選手生命を絶たれた俺は幼馴染の少女に救われた
そして、彼女の助けを借りながら新しい夢を追いかけている
☆
帰宅して、ほっと一息ついて、諸々を済ませれば時刻は九時を回っている。
「流石にこの時間になれば暑さも和らいでくれますね……」
ゆったりと過ごせるのは久しぶりで、かえって落ち着かない。
こういう時に冗談を言ってくれる相手が不在だから、ついつい悪い方向へと思考が廻る。
『…………嘘、だよね。てっちゃんの足が治らないなんて、そんなこと―』
彼が利き足を負傷するのは初めてではなかった、私が彼の下を一度離れる前に一度目の怪我をしている
プレーすることを医者から止められるような怪我で、だけど治るはずだった負傷。
私が実家に、帰り……親族の後始末をし終わる少し前だった、凶報が届いたのは。
てっちゃんが、再び右足を負傷したと。その時血液が頭に集結し視界が赤に染まるほど理不尽な怒りを覚えたものだ
有象無象を片付け、残るようにいう親族を蹴散らして、帰りの飛行機に乗った私は……
公衆の面前で泣いていた、いい年して……情けないと自分でも思う。
だけど、だけれど……仕方がないじゃないかとも思う。
だって彼を想うと、自然と涙が溢れてくるのを……止められない、止められるわけがないのだから。
拭っても拭っても、どうにもならない量の涙が眼から溢れ、床を濡らし続けた。
無我夢中で辿り着いた病院で見たのは、疲れ切った笑顔を向ける愛しい彼の姿。
摩耗しきって夢を見失った、痛々しい姿で……
「ごめんなさい……てっちゃん…………」
醍醐千歳は咎人である。
あれほど慕っていた幼馴染を助けることが出来なかった重罪人だ
彼の足が元通りになることはもう、ない。
語り合った夢は泡沫と消え、ちやほやしていた大人たちはまるで砂漠の蜃気楼。
最初からそのようなものなどいなかった、と思うことにした……そう鉄矢くんは笑っていた。
とても寂しそうな笑顔で、病室に吊るされている千羽鶴を見つめて……
チームの皆は、しきりに彼に謝罪していた。
監督は……職を辞し、彼の恩師で当時チームを離れていた外国人コーチはそのまま日本を離れたそうだ。
『鉄矢、すまねぇ……俺は何も気が付かなかった……相棒ヅラしてたのに……』
『やめてくれ』
『だけどッ、お前は代表にだって選ばれてはずだろ?! 俺はお前の将来まで――』
『……誰のせいでもない、医者も原因は複合的だと言っていたしな……
それよりさ、さっさとチームに戻らねぇとレギュラー落ちしちまうぞ?』
その人は彼の相棒。彼が負傷する時、その一部始終を見てしまったのだ。
てっちゃんに一喝されてからは練習に打ち込んだようだがその前は酷かった。
惨い負傷現場を見た下級生から退部者が続出したりといったこともあったそうである。
ともあれ、彼らは必死で闘って、チームは全国大会にまで勝ち進んだと音に聞いた。
私は此処に来ていたから、それを見届けることは叶わなかった。
私は……そう在れるだろうか。
今の自分に科せられた使命は、彼の夢を共に背負うこと。
役者不足かもしれないが……果たしたいと思う
そこに自らの夢も見出しているのだから。
☆
「ふぁ……あぁ、もう11時かぁ」
寝ないといけない時間である。巡回の看護師の人からは程々にせよとのお達しも受けた。
しかし俺はノルマをこなさなければならず、退っ引きならない理由もある。
「元々……勉強は苦手ってほどじゃなかったんだけどなぁ……」
得意でもないが、苦手でもない。可もなく不可もなくな面白みのない成績。
小学生時代からの自分の通信簿はそんなもので、幼馴染とは天地あるいは月とすっぽんである。
彼女は常にトップランナー……切なくなるほどに差があるなぁ……
「でもやるっきゃないんだよな、千歳。」
ひたすらにシャーペンを奔らせる、一問でも多く解いていかなければ置いていかれてしまうから。
彼女に甘えるのは厭だ、対等でいなければならないんだ。
そうじゃないといけない、隣に立てる男在りたいから。
「ジョゼさんのいう期限は三年後……か」
恩師が指し示した夢の扉が開く期限、その猶予は三年後。
関門はいくつも存在し、そのどれもが厳しいものとなるだろう。
第一歩は高校受験。
あいつと一緒の高校に受かることからだ。
☆☆☆
「ふぅ…………あぁ、緊張する。PKかよ」
「それですとと、もう蹴ってしまった後ということになってしまいますが……」
合格発表の日、大仰な門をくぐって志望校の学び舎へとやって来ている。
傍らの千歳は、電光掲示板を見る必要性はないのに着いてきている。
不安なのだろうか、と思っていたが……多分そうではないのだろう
「大丈夫ですよ、てっちゃんは合格しています。」
昨日からずっとこの言葉を繰り返している。
学園側から要請を受けて入学するほどの才女なのに……
中身超眩い、なんだこの生き物
不安を様々な感情で洗い流して、掲示板を眺める
俺の受験番号は……………………
「あった」「ありましたねっ」
呆然とする彼女と自分
周りの控えめな喧騒は掻き消えてしまい、動くことができなくなった。
思わず見つめ合ってしまって……
「…………うぅっ……」
「ぅおう……泣くなよっ!?」
お互いの歩みを思い出して、あの日々を振り返ってしまって
「でっちゃんっ……良かった、ああ…………」
「…………なんというか、あの頃みたいだな?」
そういう声を掛けると……彼女も思いあたるがあったのだろう
ようやく泣き笑いにはなってくれて、碧色の瞳に涙を浮かべながら言う
「だって、ずっとこうだったもの……簡単には、変われませんよ……?」
そんなことをいうものだからおかしくなって、涙目になりながら俺も……
「あぁ……なんつうかさ、その……これからも、よろしくな?」
ここはゴールではなく、中間地点に過ぎないだろう
困難さは終点に近づくに連れて上がって、その行く先を見ることすら今はかなわない
だけれど……千歳と一緒なら、諦めずに這ってでも進める。
そう、思う。
☆
読んでいただきありがとうございました。