第2話 日常と非日常
七彩教会。その正式名称すら、この村では知らない者の方が多かった。
大陸最大の宗教であり、この国では……いや、この国でも国教となっているその肥大化した宗教についてが、月長石の月から始まったブラウニング精霊術教室の最初の授業となった。この時はまだ、ウィルの父のシディが教師を務めていた。
当初の予定とは違うものになったが、さすがにこれを教えておかないわけにはいかない。教会とだけ呼ばれることが多く、それで充分通じるとはいえ、知らないことが罪とされる土地さえもあるのだ。
虹の七彩――赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色が教会の教えでは最も純粋な色であり、教会の聖印にもこれが用いられる。扉の上にある、七等分された円形がそれである。片田舎のこの村では七つの色に塗り分けられているだけだが、大きな街ではこれがステンドグラスになっている――そう説明すると、誰もかれもが実物を見たがったものだ。
ちなみに七曜の色もこの七彩で、夜の色とされる紫の日が安息日だ。
シディが七彩教会について説明しながら、村の子どもたちの精霊術に関する理解を確認していくと、当たり前のように『魔法』という言葉が『精霊術』の意味で使われていて、父子揃って愕然としたものだ。
これは土地によって、などという話ではなく、七彩教圏内では明確な禁句だ。
そも『魔法』とは、無彩色の怪物が揮う力を指し、精霊術とは名実ともに違うものなのである。
精霊術が精霊の力を借りる術なのに対して、魔法は精霊の力を根こそぎ奪い尽くすものだ。
つまり。魔法が使われれば、精霊が死ぬ。
そのあたりのことをしっかりと説明し、魔法という言葉を使ってはならないとよくよく言い聞かせ、精霊術の基本理論をウィルが教えるようになって約ひと月が過ぎ、空気がだんだんと夏めいていく紅玉の月を迎える。
教会前の広場、大樹の陰には10歳から16歳の子どもたち15人が、大樹を背にしたウィルを中心に思い思いに座っている。その中でまだ色づいていないのは最年少二人の内片方と、教師役のウィルだけである。その色彩故に侮られていることを、ウィルは他者が思うよりもずっとはっきりと自覚していたが、彼は萎縮も卑下もすることなく微笑んで、村の子たちに知識を与えていく。
「精霊術の基本についてはだいたい説明できたと思います。なので、今回はそのまとめから始めましょう」
視線を巡らすように、ぐるりと。両目が閉ざされたままの顔を教え子たちに向けて、一人の少女のところで動きを止める。まるで見えているようなしぐさだが、実際ウィルは見えている。姿かたちではなく、その魂の輝きが。髪や瞳と同じ色のそれが、瞼を通してさえも。
「では、サルビア=アメシスト=バラスンさん、精霊と、精霊術についてまとめてもらえますか?」
ウィルやアルマンディンよりは一つ上の14歳で、蒼い髪と瞳をした方の緋衣草で、もう一人のサリィに対して、彼女はルビアと呼ばれている。
年齢だけなら彼女以上の者は何人もいるが、理解力と思考力では他の者とは比べるべくもない程だ。かつては貴族であった両親を持つというその出自故、施された教育はこの村の一般家庭とは程度が違うのだろう。
片側だけ軽く編み込みがされた空の色の髪をそっとかき上げ、ルビアは答えた。
「精霊とは『輝煌』とも呼ばれ、この世界のあらゆるものの基となるものです。私たちの体にもこれは宿っていて、その内なる精霊を通じて、主に同系色の精霊の力を引き出す術を精霊術と言います」
いくつか上がった感嘆のため息は、答えた内容に対するのもか、まだ幼いながらも艶めくそのしぐさに対するものか。他の村人とは一線を画す流麗な所作も、生まれと育ちによるものだろうか。
「さすが、良く理解できていますね。では、その精霊術において、いささか古めかしい言葉が用いられる理由はわかりますか?」
ウィルが続けて問うと、ルビアは右の人差し指を唇に当てて暫し黙考した。
やがて肩を竦めて、甘やかな声が答える。
「お手上げです」
「難しく考える必要はありませんよ?」
との助言に、
「……精霊自体が古いものだから、でしょうか?」
「お見事です」
すぐに正解にたどり着くあたり、本当に頭の回転が早い。
ここまででわからないところは、と問えば、沈黙が回答として返される。
「では今日は、簡単な精霊術を実際に使ってみましょう」
言って、ウィルは傍らに置いた籠からロウソクとその台を取り出す。
「これに精霊術で火を点けてみましょう。実践部分は私では見本を見せられないので、代わりにジェイド=ヴィオラ=テミさん、お願いできますか?」
「えっ?」と、驚きの声を上げたのは当の本人で、
「はぁ!? 何言ってんだ、オマエ!?」
食って掛かる、という言葉の通りに、噛みつくような勢いで言ったのは、なんの偶然か同じジェイド=ヴィオラの名を持つ少年だった。
前者は薄い滄色の細くてまっすぐな髪、後者は植物の蔦を思わせる波打つ緑色の髪をしていて、どちらも男性の大多数がそうしているように、首の後ろで簡単に一つに束ねている。
「はい? 何かご不満でしょうか、ジェイド=ヴィオラ=タルボさん?」
胸中では緑翡翠と呼んでいる、同い年の少年に顔を向け、ウィルは小首を傾げてみせる。
「不満に決まってんだろ! 何で火ぃ使うのにアルムじゃなくてそのノロマなんだよ!?」
言われてウィルは眉根を寄せた。
「? それこそ決まっているではないですか。アルマンディンさんでは見本にならないからです」
だん、と。大きく地面を鳴らして立ち上がったのは当のアルマンディンだ。この村で色を持った者では唯一髪を短く切っているが、波打ち逆立つ赤髪は炎そのもののように見える。
アルマンディン、という名は珍しく、他に誰もいないので、ウィルもそれだけで呼んでいた。
「そりゃ一体どういう意味だ。オレより上手く火が使えるやつなんぞ、この村に居ねぇぞ」
今にも殴りかかってきそうな怒りを内包した声に、それでもウィルの笑顔は崩れない。
「だからこそ、です。意味は言葉のままですよ。貴方では見本にならない。貴方の炎は貴方だけのものだ。
貴方と同じことができる人なんて、国中探してもまずいません。知識と経験が不足している現時点ですら、です。それらが補われれさえすれば、貴方の炎は誰にも真似できないものにすら成り得る。雑な使い方をしていてはもったいないですよ」
ほとんど最上級の賛辞だったが、アルマンディンはお気に召さなかったようだ。
「結局説教かよ」舌打ちとともに言って、故意にか立ち上がった時よりも大きな音を立てて座った。
さて、と、改めてウィルは滄翡翠に声をかける。
「そういったわけなので、初等精霊術の実演は、真面目で且つ丁寧に理論構築を行う貴方が適任なんです、ジェイド=ヴィオラ=テミさん。お願い、できますか?」
「う、うん。わかった」
二つ年上の少年が、緊張した様子で隣にやってくる。
「力の源泉たる火の赤、揺らぐ小さき灯火を我が指先に」
語り掛ける言葉を省略することなく、丁寧に定義された色彩が、彼の指が指し示すロウソクに火を灯す。この程度の初歩的なものならば、自身の色彩に関係なく扱うことが可能だ。
「完璧です。良い見本でした、ジェイド=ヴィオラ=テミさん。ありがとうございます」
「これくらい誰にでもできるだろうがよ」
いちいち絡んでくる緑翡翠にも、ウィルの態度は穏やかなままだ。
「えぇ、その通りです。きちんと学びさえすれば誰にでもできる『ようになる』ことです。それがちゃんとできて『いる』からこそ、見本をお願いしたんですよ?」
「はっ、誰でも? どっかの『赤ん坊』以外の誰でも、の間違いだろ?」
何もできない金無垢。そのひどい嘲笑に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
「赤ん坊のウィル、ですか。うまいこと言いますよね」
ただ一人、それでも静かに微笑んでいる、嘲笑われた当人を除いては。
「では、他にも誰かやってみますか?」
ロウソクを吹き消して問いかけるも、ウィル以外は先の空気を引きずっており、皆気まずげに視線を彷徨わせるばかりだったが、一人だけそうではない者がいた。
「ではアルマンディンさん、どうぞ」
前に立った、誰よりもうまく火を扱えるという少年に向け、そっとロウソクの台を滑らせる。
アルマンディンはそれに向け、つまらなそうに手を振った。
――と。瞬時に現出した拳大の炎がロウソクを包み込み、一瞬の後には溶け残りすらなく完全に燃え尽きて、少し焦げた金属製の台だけが残される。
ウィルムハルトの笑顔が僅かに引き攣った、ように見えた。
どんな悪罵でも崩せなかった彼の笑顔を崩すためにやったのだとしたら、火色の少年の勝ちだろう。
「やっぱり勿体ないですよ。そんなに綺麗な赤なのに」
非の打ち所がないウィルの笑顔に、アルマンディンはフンと鼻を鳴らした。
「替えのロウソクは持ってきていないので、今日はこれまで、ですかね」
気まずい空気を仕切りなおすためにやったのだとしたら、それは……
「こんにちは、アルマンディンさん」
不入の森の小さな泉。約束通りの場所で、約束の相手に声をかけられて、アルマンディン=ゲンティアン=グレンは頭を抱えてうずくまった。
「なんでまた脱いでんの、オマエ……」
地面に視線を固定して呟けば、水中の佳人は小首を傾げてこともなげに返す。
「服が濡れると困るからですけれど?」
相も変らぬ、ズレた答えを。
「てか、逢う約束したよな、オレと! オマエ恥ずかしいとか、そういうのねぇのかよ!?」
「私は別に気にしません……」
「オレが気にすんの!」
足下の地面に向けてツッコミを入れる。
「この森の水は、浸かるだけで全身くまなく綺麗になって気持ち良いんですよ?」
「――つまり?」嫌な予感がしながらも、先を促す。かたくなに、視線は真下に向けたままで。
「一緒にどうで……」
「入るわけがねぇ!」
気持ち良いのに、と拗ねたように呟く声は無視した。
が、当たり前のように自分の名前を呼ぶ相手に、オマエは誰だとは訊きづらく、アルマンディンは炎の色の短髪をがしがしとかき回した。
「……あー、オマエのことは、なんて呼べばいい?」
少し考えるような間があって、弾むような声が答えた。
「んー、では、紅姫竜胆で」
「べに……?」相変わらずコイツの言うことはよくわからない、などと考えるアルマンディンに、
「本当なら黒曜を名乗りたいところなのですが、こちらの名前は父さんが嫌いですから。
なので、紅姫竜胆です」
楽し気に指を振りながら紅姫竜胆(仮)は言う。
「長いしわかりづらい」
即答に水中で唇を尖らせ……たのは、アルマンディンには見えなかったが。
「友達同士の特別な呼び名、というのに憧れていたんですが……それなら、ウィルで良いですよ」
続く言葉に、世界が凍った。
「は? 待て待て待て待て待て。ウィルって、オマエ、男の名前じゃねーか」
思わず顔を上げたアルマンディンに、目の前の男(?)は小首を傾げて見上げて来る。
「? 何を今更……って、気づいていなかったのですか?」
「は? オマエ、男!? この顔で!?」
驚愕の叫びにそいつ――ウィルは不満げに眉根を寄せた。
「まぁ、良く言われますが。そちらではなく、私が誰か、ということにですよ」
さすがに気まずくて、アルマンディンは口ごもる。
「……あー、えっと……悪い」
素直に謝られて、彼女にしか見えない彼はため息ひとつ。
「ウィルムハルト=黒曜石=紅姫竜胆=ブラウニングですよ」
二度目の自己紹介を、したのだった。
「待て。待て待て待て待て待て、いろいろ待て」
ツッコミどころはいろいろある。というよりもむしろ、ツッコミどころしかない。いったい、どこから手をつけたものかと混乱するアルマンディンを、ウィルはきょとんとした目で見つめて……
「――って、目! オマエ目ぇ見えんのかよ!?」
あまり本題とは関係のない問いが口を突く。
と、ウィルはくすりと笑った。
「目が見えない、なんて私は一度も言っていませんよ?」
「は? いや、だってオマエ……」
「私はこう言いました『ずっと目が見えないというわけではない』と。つまり『目が見えない』という状態がずっと続いているわけではないという意味です。『目が見えない』という状態になったことが、過去にも現在にも一切なかったとしても、そこに嘘はありませんよ?」
「詐欺じゃねーか!」あんまりな言い分に吠える。
「心外ですね。せめて詭弁と言ってください。
――覚えていますか? 精霊は純粋で、嘘偽りの無い存在です」
「あぁ。嘘をつくと精霊の力を借りにくくなる。だから、精霊使いは嘘をつかない――だろ?」
ウィルは2、3度目を瞬いた。
「へぇ。意外とちゃんと聴いてたんですね」
「オマエな……」
「まぁまぁ。とにかく、嘘をつかなくても、人を騙すことはできる、という話ですよ。嘘をつかないからといって、相手が真実のすべてを語っているとは限らないんですから」
勉強にはなるのだが、何か釈然としない。そんな思いでいると、もう一つ、釈然としないものを思い出す。
「てか、教会前じゃなんであんな態度だったんだよ?」
問うと、ウィルは指に髪を巻き付けるようにして言った。
「なんで、と言うなら、なんで私がこの色を隠していると思うんです?」
「別に色の話はしなくていーじゃん」
知らず、拗ねたような口ぶりになっていた。
「昨日貴方に口止めするのを忘れていましたから」
ウィルに言われて、アルマンディンは露骨に不満顔になったが。
「言わないでほしいと言ったことを殊更吹聴する方だとも思えませんが、うっかり漏らしてしまうというのは充分にありそうでしたし、昨日の態度を鑑みるに、無色ということがどういうことなのか、正しく認識できているのかが不安だったので」
「う。うっかりは、確かに否定できねー……けど、その色をおおっぴらにできねぇことくらいわかってるよ」
「それを聴いて安心しました、アルマンディンさん」
「アルムでいーって。『さん』も要らね」
言うと、ウィルはなぜか渋い顔になる。
「前々から思ってはいたのですが、アルムという呼び名は貴方に似合いませんよ?」
「ウィルのオマエが言うなっての」
ため息とともに言うのに、
「まぁ、私のウィルもそうかもしれませんが、アルムというのはミョウバンのことじゃないですか」
またいつもの、よくわからない答えが返る。
「ですか、って言われても……なんだそれ?」
「ミョウバン――『にがり』とも呼ばれる苦い物質です。豆腐を固めるのに使う凝固剤のようですね」
「更にわからん。トーフってなんだよ」
「失地の郷土料理らしいです。豆を潰して固めたものだとか……」
魔王が滅ぼしたとされる東の大地は、遺失というだけあって、今その場所にはただ死の海が広がるのみだ。
「……美味いのか、それ?」
「さぁ? 父さんが何度か挑戦しているようですが、成功するまで食べさせてもらえないんですよね。
ま、ともあれ貴方には鉄礬柘榴石の方が良く似合っていますよ」
「てつば……何?」
「鉄礬柘榴石ですよ。炎の明かりにかざすと美しい深赤色を呈する石です」
「あぁ、そんな言い方もすんのか。でもどっちにしろ長ぇよ」
ふむ、と顎先に指を当て、
「ではアルというのはどうでしょう。どこの国の言葉だったかは忘れましたが『まさに』『正しく』といった意味合いの言葉です。ミョウバンよりはずっと貴方に似合うと思いますよ」
「まぁ、それなら……でもついでに言っとくと『貴方』ってのもむずがゆい」
「注文が多いですねぇ」言いつつもどこか楽し気に「なら君?」
「大差ねぇ」
げんなりと言われて、ウィルは再考、
「……お前?」と、別の答えを出す。
「それだな」
アルは立てた指を軽くウィルに向けて振った。
「あまり使い慣れない言葉です……」
「じゃあこれから慣れろよ。友達相手に他人行儀なのは無しにしようぜ?」
「友達……」と、小声で呟いたウィルの声が届いたかどうか。
「できたら『です』とか『ます』もな。いきなり変えろとは言わねぇけど、ま、そのウチな」
「……なんだか私ばかり譲歩させられている気がします」
ちょっと不満げにウィルは唇を尖らす。
「言われてみりゃそうか。あ、じゃあオレもオマエのあだ名考えてやるよ。ウィルってのはあんま似合わねーからな。オマエが考えるのは長ぇし」
ウィルムハルト、ウィルムハルト、と何度か口の中で呟き、
「ハル、ってのはどうだ? 響きとか、けっこう似合わね?」
「ウィルムハルトのそこを切り取ったのは貴方が初めてですよ」と、一度苦笑して「でも、気に入りました。貴方のアルと似ているところが特に」
お揃いですね、と浮かべた笑みは、いつもの完璧な笑顔とは違って、どこかからかいめいたニュアンスを含んで。それでも、こちらの方がずっと良い。渋面を作りながらも、アルはそんなことを思った。
メインヒロインだと思った? 残念、ウィル君でした!
予想通り、という人もいるのではないでしょうか。
ようやくメインの二人が作者の脳内呼称に追いつきました。
異国の料理って、作り方だけ聞くと『エタイの知れないナニか』としか思えなかったりしますよね。
ちなみにアルマンディンは実在する宝石……だった石です。蛍光灯の明かりだと色が濁るので、今では宝石としては扱われないようです。
ほぼ完成してたのでついカッとなって上げた。今では公開している。