第1話 ボーイミーツガール的な何か
アルマンディン=グレンは孤独だった。
友達は他の誰よりも多いくらいだし、一人で行動することはほとんどない。遊びに行く時、狩りに行く時、傍らに連れがいないことはまずなかった。
けれど、生まれついての色を持っていた者は、彼の他に一人としていなかった。再誕式を迎える前の同年代はもちろん、大人たちも含めて『精霊の子』は彼一人だった。皆、誰しもが金無垢に生まれ、心身の成長とともに自分の色を得る。『色づく』という言葉が『大人になる』という意味で使われるのはこのためだ。
けれど。彼は最初から赤という色を持って生まれた。
自分だけが違うということは、自尊心の基にもなるが、同時に周囲との隔絶を感じさせる。
そういったことをはっきりと自覚していたわけではなかったが、胸の内のモヤモヤが自分でもどうしようもなくなった時、アルマンディンはふらりとこの場を訪れるのが癖になっていた。
不入の森と呼ばれるそこは、濃密にすぎる精霊の力に満たされた、人を拒む魔境だった。村のほとんどの者は、ほんの数呼吸ほどの時間で霊光酔いを起こすことだろう。この森に入って平然としていられるのは、アルマンディンくらいのはずだ。
今ではもう一人、街から来た親子の親の方、シディもそこに含まれるだろうが、それならそれで稽古をつけてもらう時間が増えるだけだ。そんなことを考えながら、そぞろ歩く。
以前は多くの魔霊が徘徊し、衝動のままに暴れるために訪れたこの場所も、シディがこの村に住むようになって随分様変わりしたものだ。
一体何をどうすれば『こう』なるのか。こう、できるのか。赤髪の少年には想像もつかない。
今の不入の森は……そう、透明だった。
生き物が居ないのは以前と同じ。鳥獣はもちろん、小さな虫すらも此処には居ない。普通に考えればそんな森は死んでしまうのだろうが、ありえない濃度の精霊の力――多彩なる輝煌が普通でない状況を成り立たせる。
色を得て、瞳が開いた者であれば、例外なく目が眩むであろう程の、精霊の煌めきに満ちているのも何ら変わることはない。
ただ、透き通っている。森を満たす輝煌が。魔霊の類が、生まれる余地のないほどに。
以前のような発散の仕方ができなくなったわけではない。
未だこの森は余人の立ち入れぬ魔境で、どんなに暴れても音が外に漏れないのも変わってはいないだろう。
それでも、ただ何をするでもなく森を彷徨うのは、きっとこの森の在りようが変わったからだ。的もなく力をふるうのを『つまらない』ではなく『無粋だ』などと火の申し子が考えてしまうのだから、そこはもはや魔境ではなく聖域と呼ぶべきなのかもしれない。
ぱしゃり、と。
水音が聞こえたのは、森に入ってどれくらい経った頃だろう。
水音。それは此処が尋常な森であれば、気にするようなものではない。けれども此処は不入の森、水音を立てるような魚や蛙は居ないし、森の木ですら、葉を落とすことはない。
魔霊の類がまだ残っていたのか、と腰の剣に手を伸ばし、足音を忍ばせて、断続的に聞こえてくる水音を目指す。
ぱしゃり、ぱしゃり。
木立の間に小さな泉が、見えて……
妖精が、そこに居た。
少なくとも、それは怪物には見えなかった。
腰まで届きそうな、長くまっすぐな髪に色はなく、森にあふれる輝きを受けて、ありとあらゆる色に煌めく。それは色彩が無いというよりは、総ての色を内包しているようにも見えて。
年は13のアルマンディンと同じか、少し上くらいだろうか。手足は華奢で、体にあまり丸みはないが、雪のように白い肌を、しっとりと濡れた髪だけが隠している様は、どこか危うい艶めかしさを感じさせる。
唇はあえかな笑みを刻み、鮮やかな金無垢の瞳はひどく醒めた色を宿していた。
冷めた、ではなく、醒めた。まるでこの世界自体が夢で、ただ一人そのことに気付いているというかのように。或いは、此処とは違う何処かを見つめるように。
不用意に触れてしまったら、光に融けて消えてしまいそうな儚さを、少年は魅入られたように見つめる。
その子が躍るようにくるくる、くるくると回る度に、ぱしゃりぱしゃりと水音が鳴った。
――と。凍り付いたようにその動きが止まる。
慌てて上げられた両手は体ではなく頭へと向かって……吐息とともに、ゆっくり下ろされる。
そこまでを見て、アルマンディンはやっと目が合っている事実に気付いた。
「ご、ごめん! 別に覗くつもりじゃ!」
慌てて背を向け、謝る。
一瞬の間を置いて、返されたのはクスクスと笑う声だった。
「およそ怪物に行き遭った反応ではないですね」
慌てる少年とは対照的に落ち着いた声音が、そう言った。
「怪物ってオマエ……」
「いかなる精霊にも愛されなかった忌み児――無彩色の怪物。知らないわけではないでしょう?」
淡々と、まるで他人事のように背後の声は語る。
「そりゃ、話には聞いたことあるけどよ……」
「先程から随分と歯切れが悪いですね。そんな様子で殺せるんですか?」
「は? いや、は?」
予想もしなかった発言に、言葉の体をなさない音が唇から零れ落ちる。
「殺すのでしょう? 私を。その剣で」
「なんでそうなるんだよ!」
「私がどうしようもなく怪物で、貴方がどうしようもなく人間だからですよ? 自ら手を下すのが嫌だ、という手合いだとも思えませんし。
まぁ、見られてしまったからには仕方ないですよね。この世界はそういうふうに出来ているんですから」
本当に、なんでもないことのように、自分の生き死にを語るものだから、
「ふざけんなっ!」
アルマンディンは腰の剣を捨てつつ振り向いて、ソイツの両肩に摑みかかった。
「言葉が通じる相手が怪物なもんかよ!」
唾を飛ばす勢いの叫びに、自称怪物は目を瞬かせて返す。
「龍など高位の精獣は人語を解しますけれど、」
ずれた発言をアルマンディンは噛みつく勢いで遮った。
「そういうこと言ってんじゃねぇよ! わかれよ!」
「わからないですよ」
静かな言葉だった。静かな、いっそ密やかと言っていいような言葉が、どうしてだろう、アルマンディンに口を噤ませる。
「姿かたちが同じで、会話も成立する。けれどただ一点のみ、精霊の祝福だけが存在しない。
なまじ似ているからこそ、その致命的な違いがどうしようもなく気持ち悪い。以前、私を殺そうとした人間はそんなようなことを言っていましたよ」
「はぁ!? なんだよそれ、ソイツのがよっぽど気持ち悪ぃよ!」
こんなに綺麗なのに、と口に出さないだけの冷静さはアルマンディンにも残っていた。勢いで言ってしまいそうになって、口が「こ」の形に開いていたが。
なんなら一音の半分くらいは発音していたが。
「あの、ちょっと痛いです」
と、視線で剥き出しの肩を示され、それに伴い別の部位も目に入って、アルマンディンは慌てて両手を離し、回れ右をした。
「わ、悪ぃ、また……」
「いえ、別にそこまで痛かったわけではないですが。というか、本当に変わった反応をしますね」
「変わってねぇよ! オレが普通だ!」
「あぁ、狂人はえてして自分こそが正常だと思っているという、」
「狂ってもいねぇ!」
かきむしるように頭を抱えて遮ると、背後からまた笑い声が聞こえた。クスクス、クスクスと、小鳥が囀るような、耳がくすぐったくなる笑い声が。
「たぶん、狂っていると判断されますよ。無彩色の怪物と談笑してるんですから」
そう言った声が寂しげであったら、まだ救いがあったのかもしれない。けれどその子は、当たり前の事実として言うのだ。自身を、色彩の無い怪物、と。
だから、少年はこう答えてみせる。
「そーかよ。じゃ、オレは狂ってていーや」
「え……」と、どこか当惑したような声が返り、
「お。オマエの方が驚くのって初めてじゃね? よっしゃ、なんか勝った気分だ」
「私は別に負けた気分では……いえ、そうでもないですか。なんとなく、貴方には敵わないと今思いました。貴方に負けるのならば、それも悪くないか、とも。」
ため息にも似た呟きに、赤髪の少年は得意げな笑みを浮かべた。
とはいえ、裸のその子といつまでも背中越しに話しているのもきまりが悪い。今日はもう帰ると告げて剣を拾い、最後にもう一言。
「なぁ、明日もここで、会えるか?」
「え、明日、ですか? ……はい、良いですよ。また明日、此処で会いましょう」
若干の戸惑いは感じたが、了承の返事を得て、アルマンディンは元気に背中に向けて手を振った。
「おう! じゃ、また明日な!」
「はい。アルマンディンさん、また明日」
返された言葉に若干口許を緩めつつ歩を進め、森を出るところで、相手の名前も聞いていないことを思いだした。
「……ってか、オレの名前呼ばなかったか、アイツ?」
初期プロットではこれがプロローグでした。
ようやく物語が始まります。