第105話 抗う者たち
サファイア・シティと海とを隔てる無色透明な壁は垂直ではなく、緩く弧を描いて湾曲している。船……海中馬車というのだったか、それを着けるところから数歩分程度は直上が海となっている。
その海が今、崩れ落ちてくる。
圧倒的な質量の崩落。それは世界そのものが崩れて、のしかかってくるような光景だった。ほとんどの者は水に呑まれるよりも先に目の前の絶望に呑まれてしまい、身動きひとつとれなかった。
ルビアもそうだ。術式の異変ならば感じ取ってはいたが、有益な行動は何ひとつとしてとれなかった。即座に動けたのは、ふたりだけ。
ひとりは一瞬の躊躇も無く、崩落する水に向けて駆け出した。
「アル君!?」
思わず声を上げたルビアに、言葉で返す呼気すら惜しんでか、アルはちらりと一瞥だけをよこした。
視線が絡んだのは、ほんの一瞬。それでもその眼差しに込められた意志を汲み取れぬほど、彼との付き合いは短くも浅くも無かった。
「皆、彼の後ろへ! ルッチ、鷲獅子準備!」
アルだけではムリだ。だから、指示を出す。
ルビアの言葉で、他の皆も動き出す。未だ呆然とするばかりの宿の従業員たちの手を引いて移動させるのを、けれどルビアは見てすらいなかった。
アビーはできないことなどないのではないか、などと買いかぶったものだが、さすがに此処は場所が悪すぎる。アルの威で皆を護ろうと思えば、そう長くはもたないだろう。
その時間を少しでも引き延ばすために、他の皆の力を積み上げる。
そして、ルビアは――状況を見極めるべく、眼を凝らした。
正確に把握できているわけではない術式の齟齬を見つける。そんなことが可能なのか、という弱気な考えは浮かんだ瞬間に棄却する。『在る』ということ、それ自体は間違いないのだ。ウィルムハルトならばひと目で見抜くだろうそれを、皆が作ってくれる猶予時間の間に見出す。
青玉よりも貴重で希少な、時の砂粒が尽きる前に。
呆然も自失もしなかったもうひとりは、遅れて着いた海中馬車の方に居た。
「若君!」
いかめしい顔をした赤髪の中年男が、水色髪の少年を、投げ飛ばすような勢いで突き飛ばす。
状況についていけず、ただ悲鳴をあげるばかりの少年を、前へ出たアルが――受け止めない。まるで球技のボールをパスでつなぐかのように、ワンタッチで背後へと投じ、その反動すらも利用して、更に前へ。
貴族風の少年がべしゃりと顔面から着地していたりしたが、この状況では些細な問題だ。かすり傷程度ならメアリーがなんとでもするだろう。
「走れ、走れ、走れ!」
勇壮な戦士が次々と同行者の背を押して急き立てる。
アルは彼ら彼女らの腕を摑んで背後へと押しやりながら、入れ替わりで前へと進んでゆく。4人、5人、飛沫にその身を濡らしながら、更に前へ。6人、7人……
アルの名を叫んだのは、果たして誰だったか。ひょっとしたらそれは、ルビア自身の口から洩れたものだったかもしれない。
――間に合わない。
それでもアルは必死に両手を伸ばして……
最後のふたり、踏みとどまって他の者を送り出していた男と、呆然と立ち尽くしていた女――前者が、後者の背を、両手で突き飛ばした。
全力全速で前へと向かっていたアルと正面から衝突する。どうにか抱き留める形で受け止めるアルだったが、大人と子どもの対格差と、背を押した男の膂力もあって、押し倒されるように尻もちをついた。
それでアルには僅かばかりの余裕ができた、けれど……
それでも猶、手を伸ばすアルの前で、最後まで他者を優先した勇敢な男が、海に呑まれた。最後に交わした視線で、彼とアルがどのような想いを交換したのかは、ルビアにはわからない。
彼我の距離は、たかが知れている。さして間を置かずに、こちら側に残された者も同様に、海という怪物の腹の中だ。
そう、其処にいるのが、アルマンディン=グレンでなかったならば。
「紅蓮!」
事が起こってから初めて。アルが発した言葉は己が侍獣の名であった。
たっ、と軽く地を蹴って、紅蓮がアルの前へと飛び出す。
火の精獣が、迫り来る海水の、その中へ。
しかし海は紅蓮の火を消すこと能わず、触れた瞬間に蒸発――爆発が、起こる。
ルビアの位置からでは背中しか見えないアルが、縋りつく女を抱き留めて、慌てた様子も無く眼前に空いている方の手をかざした。
『炎紗』
彼の手を中心に広がった赤い紗が全周囲に広がる爆風を受け止め……いや、焼き尽くす。彼の腕の中に居た女は、一切の衝撃を感じなかったはずだ。
それでも広大な展望ラウンジを覆い尽くすには足りず、荒れ狂う風が花を、調度を吹き飛ばす。
アルに護られた、生きた人間だけが無事だった。
そして彼の傍らでは、着地した紅蓮が、濡れてなどいないのにぶるぶると身を震わせていた。
水蒸気爆発は展望ラウンジを散々にかき回しただけでなく、迫って来ていた水を押し戻してもいた。けれどそれは一時のものでしかない。すぐにその勢いは尽き、再び海水が押し寄せるだろう。
故に、アルは次の一手を打つ。
『赤、朱、深紅、真紅。
立ち昇れ赤の壁 四色を以て焼き尽くせ 紅壁!』
その日、近隣の住民は海が火を噴くのを見たという。深度の違う幾つもの赤が混じりあった火の壁が海中から立ち昇り、次いでそこを中心に海が爆発したのだと。
サファイア王国の地上部農場には甚大な損害を出したものの、高波などの被害がほとんどなかったのは、アルが水面までを燃やし、爆風の広がる方向にある程度の指向性を持たせたからだ。
海中都市側の被害は――ロイヤルスイートの展望ラウンジさえ別にすれば――皆無。ひとまずは被害を最小限に抑えた形だ。
……小さな町くらい丸ごと買えるという水中馬車がふたつとも爆風で押し流されており、それらが破損していないかだけは心配だったが。
それでも、こんな力業を長時間維持するのは不可能だ。だからルビアは手を振って、ルッチに合図を送る。
「鷲獅子座、起動」
それは元々は、防火用として馬車に組み込んだ術式であり、海中都市へと赴くに際して携帯型の術具として組み立てた、非常時用の保険だ。
けれど二階分の高さと、ちょっとした舞台のような広さを覆うには出力が足りない。自分たちだけを護れても、奥に海水が流れ込んだ場合、第七層は勿論、上層すらどうなるのかわからない。
不足分を強引にでも埋める必要があるが、ルビアはそれ以上の指示を出すことなく、視ること、思考することの集中した。
――何が起こった? そして、何が起こっている?
「増幅!」
叫び声であったことだけが意外だった。アビーが霊力を過剰供給し、術の効果範囲を最大限に広げる。
「ぼさっとしていないで、手の空いてるひとは手伝ってください! 私たちだけじゃ長くはもたない!」
指示役はアビーに任せておけば問題無い。
思考し、思索し、思案する。
時間は有限だ。まして今は現状を維持するためだけに、とんでもない無理を通している。いつ、限界が訪れてもおかしくない状況。
――この事態が起こった原因は何処にある? どうすれば対処できる? 今は、何がどうなっている? 異常は、異変は、何処に在る?
ルビアは必死に目を凝らし、術式の綻びを探す。
どさり、と背後で音がした。誰かが倒れたのか、それとも膝をついただけでまだ踏みとどまっていてくれるのか。
――見つからない。
無理矢理拡張された障壁が不安定に揺らぐ。
――見つからない、見つからない、見つからない!
海中都市と海とを隔てる術式はどこをどう見ても完璧で、むしろ過剰なくらいで、問題なんてどこにも……
「――え、待って、過剰?」
ルビアの気の抜けた声のせいか、再度障壁が揺れて……けれど、飛沫の一滴も落ちてはこない。
「――あー、そういう……」
ルビアはその場に膝をついた。乾いた笑いが漏れる。
「――皆、もう良いですよ」
振り向いて言えば、床に置いた術具に手をかざし、必死に霊力を籠めている皆が目に入る。どうやら倒れた者はまだいないらしい。命のかかった状況だからか、皆実に良く頑張っている。
「ルビア!?」悲鳴じみた叫びはメアリーで、
「どうしたんです!? 諦めるなんて貴女らしくもない!」必死の叱咤はアビー。
それ以外の者たちも、初対面の者も含めて、ルビアに切実な視線を向けてくるのだが。
「あー、いや、そーじゃなくて。
……水中都市本来の壁、とっくに復旧してます。」
『………………はい!?』
皆が声を裏返らせて、それが隙になったのか、霊力の供給が途切れるが、水の壁は小ゆるぎもしなかった。
「――やっぱり。」
――さて。起きた事態も、その原因も、実行犯もわかったけれど……どこから説明したものか。
安心して気が抜けたのだろう、宿の従業員の内ふたりほどがそこで意識を失って倒れたのだった。
無理も無い。
とりあえず事態そのものは解決しました。何がどーなってこーなったかは、次回ルビアちゃんが説明してくれます。