第104話 水底の青玉
世界唯一の海中都市だと、ルビアは言った。
「……あのさ、ルビア。」
「なんでしょう、アル君?」
苦笑いをするようにアルが問いかければ、平静そのものの答えが返る。
「オレの気のせいかな、あそこでヒトが歩いてるように見えんだけど?」
指差す先に目を凝らしたルビアは、小首を傾げて答えた。
「目、良いですね。私にはまだはっきりとは見えませんけど、そりゃあ街ですし、ひとのひとりやふたりは歩いてるんじゃないですか?」
「……いや海の中だよな?」
「はい、だから海中都市ですね」ぽふ、と見えない壁に手で触れて「これと同じものが街を覆ってるんですよ」
「……あの規模で? そんなん人間に可能なのか?」
いつもの馬車や、今乗っている『船』程度ならばともかく、街規模で常時術を発動などということが可能なのか、という至極もっともな疑問には、何故か全員の白けたような視線が返された。
「うん、それアルにだけは言われたくないと思う、あの街のひとたちも」
メアリーに言われ、一瞬言葉に詰まった。
「――い、いやいやいや、確かに全力でならあれくらいの範囲を燃やせるケドさ」
「燃やせるんだ……」乾いた笑いのルッチはとりあえず無視。
「術を維持し続ける、ってのはまた違う話だろ?」
「そうですねぇ……」答えて、ルビアは指先で軽く唇に触れ、短い思案の時間を置いた「術式の詳細は国家機密ですので、私の想像になりますが……たぶん、あそこにいるひと全員から少しずつ霊力を徴収する形で成立してるんじゃないですかね」
「……それはそれで可能なのでしょうか?」
と、これはアビー。声が僅かに弾んで聞こえるのは、彼女もこの光景に高揚しているからか。
ちなみにスピネルも無言ながら、興味深げにあちこちに視線を投げている。
「可能でしょう。精霊が人間の意思に反応する、というのは常識ですが、無意識的なものもこれには含まれるので。
海水の中で日常生活を送りたい、なんてひとは鰓呼吸でもできない限りいないでしょうから、その無意識的な願望を汲み取って、生存に適した環境を維持している、ということだと思いますよ。意識的なものでないので、個々は微々たるものでしょうが……」
「――それを数で補っている、と。ひょっとして、旅人の受け入れに積極的なのもそういう理由なのでしょうか?」
「そこは経済を回すのが主目的でしょうが……余禄としてはあるかもですね」
このあたりの難しい話は、アルはほとんど聞いていなかった。
「ようするに、なんか上手いことやってる、ってわけだ」
「間違ってはないんですけどね」ルビアが苦笑する「訊いておいてその結論はどうなんでしょう?」
港から見えた島の海中部分に街は築かれている。外ではなく内に、彫り込むように造られていることにも意味があるのだろうとルビアは語った。元来地の領域であった場所であればこそ、水の領域との境界に定めやすいのだろうと。
「あれ? 全部で七層あるんじゃなかったっけ? 五つに見えない?」
言ったのはルッチだ。アルはそもそも七層というのも初耳だった。
「第一層と第二層は直接海には通じていないそうですよ。維持コストの軽減と集客を兼ねているのでしょう。あそこなら比較的安価で泊まれるようですから」
「……それって海中都市の意味あるの? ただの地下室じゃない」
ルビアの答えにメアリーが眉根を寄せた。
「そのための商業区画、ということでしょう」
アビーが目で示したのは、最初にアルが人影を見たあたりだ。第一層、ではなく第三層ということになるそこには各種商店が建ち並ぶが、海の世界を一望できる外縁部をただ散歩するだけの者も多く、海遊歩道の名で呼ばれていて、たいていの観光客の目当てのひとつがそこなのだという。
続く第四層も商業区だが、こちらは三層に比べて高級店が多いのだとルビアが続けた。海中都市では下へ行くほど価値が上がるのだと。
第五層は食堂街。海と繋がっている外周部の店には海からしか入ることができないので、基本的に『船』を貸与された者だけが利用できる。
いくつかの店は上層の客に向けても開放されていて、乗合馬車のような共用船を用いて移動できる。当然内奥の店よりも値が張るが、海中都市に来た記念にと奮発する者も多いのだとか。
第六層は富裕層向けの宿だ。それなりの格の馬車で訪れた者でなければ利用許可すら下りないので、ここでの宿泊経験が一種の珀付けにもなっている。と、これを嬉しそうに語ったのはルッチだ。
「オレらそんなとこに泊まるのか……」アルがいささか気後れしていると、
「違うよ?」あっけらかんとルッチが応じる。
「へ? いや、だって『船』……」
「アタシらが泊まるのは、もひとつ下。」
絶句した。
「…………あの、ルッチさん? さっきルビアが下行くほど高級だとかなんとか……」
「うん。七層は普通、王侯貴族なんかの国賓、もしくは世界的な富豪でもないと泊まれないね。なんせ一番下で一番広いのに、とれる部屋はふたつだけなんだから。
いわゆるロイヤルスイートってヤツ?」
さすがに広大な七層の全てを宿として使っているわけではなく、行政施設や王族の住まいなどもこの層にあるのだが、逆に言えばこの国の中枢に宿泊するも同然だった。王宮を宿にするようなもの、と言い換えても良いかもしれない。
――くつろげてたまるか。
「オレらそんなとこに泊まるのか!?」
アルの絶叫に、ルッチはしかし当然と言った顔で頷く。
「そりゃあの馬車だし。今乗ってるコレだって、小さな町なら丸ごと買えるくらいの値はするよ、たぶん。」
はぁ!? と、裏返った声を上げるアル。いつもと立場が逆になっていることに気づく余裕は、無論今の彼には無い。
ついでに言うとルッチが続けて言った「普通は完全密閉型かせいぜい窓がいくつか付いてるくらい」という言葉はまるで耳に入っていなかった。
「やー、元々メアリーの絵に加えてアタシの最高傑作だったのに、ルビアと一緒に更にいろいろ組み込んだから……小さい国なら王族でも、あそこまでのには乗って無いと思う……」
言っていてやりすぎたと思ったのだろうか、後半の声はやや小さく、口許の笑みには苦みが混じった。
「……なぁルビア、そんなとこ泊まる金あんの?」
能力はともかく、出自はただの村人に過ぎないアルが怖々と訊く。
「あぁ、そのへんはぬかりありませんよ。馬車に組み込んだ各種防衛機構の解析を対価に、只同然……とまでは言えませんが、ちょっとした高級宿程度の値段にはなったんで」
「……具体的な数字は聞かないことにする」
存外貧乏性なアルであった。
それから先、地上部は全七層の番外であることや、街本来の住人はほとんどが店舗住まいで、それ以外は海に面していない内奥に住んでいること――ついでに隠された第八層の噂――などを説明されている間に、サファイア王国の海中都市は目前に迫っていた。
隣の『船』はもう完全に抜き去っている。
第七層の玄関口は、普通の建物に換算して二階分はあろうかという天井の高さで、此処が船着き場で展望ラウンジも兼ねているのだとルビアが言った。
牙のように突き出した突起に横から『船』をひっかける形で停めるのだと説明したのはルッチだ。『船』が係留されると、海中と船内を隔てている空気の膜が街のそれと一体化して、そのまま入ることができるのだと。
入口ということであまり多くの物は置かれていないが、柱や壁には波をイメージするような流麗な曲線が刻まれていて、出迎えにずらりと並んだ宿の従業員たちの姿もあり、殺風景な印象は無い。
アルは詳しく知らないが、飾られている滄い花はこの国の国花だろうか。いかにも海の国、という色合いだった。
玄関口兼展望ラウンジに降り立つと、出迎えの従業員一同が一糸乱れぬ動きで深々と一礼した。ガラではないので歓迎の挨拶を聞き流しながらアルは背後の海を振り仰ぐ。ダリアではないが、そこにある透明な壁が消えてこれだけの水が押し寄せてきたらと思うとぞっとした。いくらアルでも海の全てを干上がらせることは不可能だ。なら、取れる手立ては……
と、そんな思考が伝わったわけではないだろうが、ダリアがより一層力を籠めてしがみついてくる。せっかくの景色ではあるのだが、彼女にとっては内側の海が見えない部屋の方が安心して過ごせそうだ。
とりあえず、少しでも水から離れたいだろうと、案内を待たずに先に少しだけ奥へ進む。この選択を、すぐに後悔することになるとも知らずに。
歓待の言葉が一通り終わる頃に、追い抜いたもう一組の宿泊客が到着した。御者の腕が悪いのか、突起に船をひっかけるのに少々もたついている。
「……おかしいですね。海中馬車を着けるのは水馬がやってくれるのですが……」
従業員のひとりがそんなことを呟いた時、『船』が牙状の突起に接触し……
ふっ、と。なんらかの威が失われるのを感じた。そして。
海が、崩れる。
はい、引きました。次こそは急ごうと思います。
次回「海中都市動乱」(仮)お楽しみに。