第100話 『最悪』への備え
前回のあらすじ
サブタイトル参照。
アビス・ブルーは久しく無かった充足感の中にいた。
いや、本当はもっと研究を続けていたかったのだが、銀と爪牙に部屋に押し込まれてしまったのだ。特に銀に「睡眠の不足は作業効率を落とします」と言われてしまっては、アビス・ブルーにそれ以上の抵抗は不可能だった。
付き合いが長いだけに、扱いをわきまえている。アビス・ブルーは『効率』という言葉に弱い。口先だけの適当なものであれば聞き流せもするが、そこに一分でも理があれば、決して無視することはできなかった。
おとなしく引き下がったアビス・ブルーの私室は、物が少ないわけでもないのだが、几帳面に整理され過ぎていて、他者にはがらんとした印象を与えるそうだ。だからといって、意味のない物品を置くつもりは一切無かったけれど。
ベッドに身を横たえて、頭の中で今日の成果を整理する。それはアビス・ブルーの眠りにつくまでの日課であった。目を閉じ、思索の海にたゆたい、ゆっくり、ゆっくりと沈んでゆくのが。
有事の際、この城に転移する。それが魔王の言う『避難経路の構築』だった。
空間転移を行うには解消すべき問題が多くあるが、その最たるものは転移先を輝煌的に空白状態にすることだ。まず術式以外の輝煌による干渉をどうにかしないことには始まらない。故に通常は術者の視界内か、明確に思い描けるほどに良く知る場所に限られる。
この時点で、魔法に到達していない者には不可能だ。彼らと城にそこまでの縁は無い。そもそも空気の薄いこの場所自体が負担となるため、此処には来たことがある、という程度の者が数名、ほとんどの者は地図上の正確な場所すら知らないのではないだろうか。それでは転移先としての設定など不可能であり、できる誰かが運ぶしかない……と、いうのが常識的な結論だった。
魔王の方法論は、この当たり前の空間転移とは逆である。見えている場所、良く知る場所に転移するのではなく、転移先を見ているものと同期させ、上書きする。
そのために用いるのが魔法陣だ。転移先に道標として刻み、寸分たがわぬものを描いた布を起点とし、転送する。目に見える形は転移先の想起の一助ともなるので、輝煌の消費も軽減できる。
魔王との議論は実に充実したものであった。精霊文字の取捨選択と組み合わせ、使用する精石と、それらの適切な配置による場の構築、それはアビス・ブルーに魔女の緻密な術式を思い出させた。今はまだ、魔女の精緻さには及ばないが、それでもアビス・ブルーと意見を戦わせる域には達していた。
他の者ではこうはいかない。
なまじ力があるだけに、たいていのことは才能でごり押しできてしまうのだ。できるから、技術を磨こうという意識が生じない。
今までは魔女だけが例外であったのだが、いかんせんあの魔女は後継者を探して世界中を放浪していたので、じっくり話し込む機会などはほとんどなかった。
単に可能不可能の話をするのなら、それこそ魔女と魔王にできないことなどほとんど無いのだろうが、彼らは自分以外の者にも発動可能な術式を構築しようとし、何より輝煌の浪費を嫌った。
遠見の魔女のやりようを誰に教わるでもなく踏襲している魔王の姿に、彼を感情で嫌っている白の双子は早々に作業の場を離れてしまった。嫌いな相手が大切な相手に似ているのが我慢ならなかったということだろう。実に子どもじみた、くだらない行いだ。
――事実は事実として其処に在るのだから、認める認めないの問題でも無かろうに。まったく、火というものは実に幼稚で、度し難い。
魔王の『火』に対する思い入れをまだ知らないアビス・ブルーは、そんなことを考えた。知っていたとしたら、ちょうど良い議論のテーマだとばかりに、直接本人に言っていただろうから、ウィルムハルトにとっては幸いなことではあった。
気分が高揚して眠れない、などということは無く、思索を廻らす内に、いつも通りに沈んでいった。
浮かび上がる方はいつもよりも早かったが。まどろみの時間はほとんどなく、覚醒を意識すると同時に身を起こす。夜は明け、室内には柔らかな光が満ちていた。屋根や壁の一部に水晶が使用されており、どの部屋も自然光が乱反射して入り込むようになっている。
あの計算は楽しかった。数少ない魔女との共同研究の記憶に、部屋を出るアビス・ブルーの口許が無自覚な笑みを刻んだ。
普段はもっとゆっくり時間をかけて、ベッドの中で思考を遊ばせたりもするのだが、今はもっと面白い研究対象がある。
アビス・ブルーは急ぎ魔王のもとへと向かった。
「――おや、早いですね、深淵さん」
などと、既に作業を開始している魔王に言われるというのはいかがなものか。
「お前が言うな。いったい、いつからやっている?」
夜明けとともに目覚めたアビス・ブルーが問えば、魔王はつい、と目を逸らし、唇の前で人差し指を立ててみせた。
「サラさんには内緒でお願いします。また叱られそうなんで」
磨き上げられた石床に、地の精石を溶かしたインクで魔法陣を描く手は止めずに、そんなことを言う。アビス・ブルーとしては、沈黙は別にどうでも良いことではあったが。
肩越しに背後を振り返り、正面の魔王に視線を戻して言う。
「――本人が聞いているのだが、それは良いのか?」
魔王が手を滑らせて精霊文字が歪み、一部が描き直しになった。
お説教はまた後日、という魔王の提案は、意外にも生真面目な護衛にあっさりと受け入れられた。少しでも早く作業を終えて戻りたい、というのは彼女も同意見だったということだろうか。一応護衛のふたりが揃った後で、伝言訳として白鴉を帰らせてはいるものの、侍獣を得てより不安定になった月から長期間目を離すのは不安なのだという。
「ま、感情に関連付けられる月であれば、不安定なのは当然か」
「そういうことです」
アビス・ブルーの呟きに、失敗した部分を描き直している魔王が答えた。
「お説教は後できっちりさせてもらいますが、それでも今日はちゃんと寝ると約束してください。さすがに二日連続は看過できません」
「はい、帰ったらゆっくり眠らせてもらいますよ」
「いや、だから『今日は』と。」
「はい、だから今日、家に帰ってから寝ますよ」
噛み合わない会話に、待って、と口を挟んだのはもうひとりの護衛だ。
「数日かかる、って前に言わなかった?」
珍しく不満げに言う鬼人に、魔王が「あぁ」と顔を上げる。
「それは実際使えるようになるまでにかかる時間ですね。陣を場になじませるのに数日必要なんですよ。私の作業自体は今日中に、全員分終わります。というか、終わらせます。今のルナさんを二日も放置できませんからね」
刻印する精霊文字は大きくわけて三種類。使用する者を表すものと、この城を表すもの、そして空間転移の意味を与えるためのものだ。
各個人の私室ではなく、城で大きくくくり、転移先の分割には使用者の銘を用いることで術式の簡略化と補強、消耗の軽減にもなった。これはアビス・ブルーの案である。
各部屋に魔法陣を描くのはアビス・ブルーも、布に写しを描くのは銀も手伝ったので、日暮れ前には作業を終えることができた。
森に戻ることを白の双子に告げると、ふたりは嫌そうな顔で同行すると言った。一緒に居たくはないが、監視はつけておきたい、というところか。
「魔王のことは私が見ておこう」
「――アビスが?」
意外そうに言ったのは銀だったが。アビス・ブルーとしては自明だ。
「此処に籠っているよりも、魔王のところに籠っていた方が、私の興味は満たされそうだからな。思索が捗りそうだ」
「どっちにしろ籠るんだね……」
爪牙が呆れたようにため息をついた。
アビスなら、と双子も納得し、日暮れを待たずに楽園へ還る。『城へ』はまだ稼働不能だが、『森へ』の転移は既に物資では実験も済んでいるとのことで、問題が起こった場合の対応用に魔王も伴い、術式の起動はアビス・ブルーが行った。
魔王の拘禁について告げた時にはひと悶着あったが、アビス・ブルーにとって重要なのはそこではない。魔王の家で、共に軟禁状態に置かれて、その後だ。
「貴方にひとつ、研究してほしいことがありまして」
魔王は彼にそう告げた。これが始まり。「なんだ」と問い返すアビス・ブルーに、きっと退屈しないですよ、と前置いて、魔王は薄い胸に手を当てた。
「私を殺す方法」
少女じみた容貌に、透明な微笑を浮かべて。悪い冗談のようなことを、言った。
「――な、にを、言って……」
かすれた声が魔王に届いたかどうか。
「私たちにとっての最悪って、なんだと思います?」
唐突に――アビス・ブルーにとっては唐突に、魔王が話題を変えた。いや、変わっていないのだろうか、いつになく混乱する頭でアビス・ブルーは考え、答える。
「それは……魔女が死んだ今、その後継であるお前も死ぬことだろう?」
これに魔王はかぶりを振った。
「いいえ。それでは『最悪』にはまだ足りない。もっとひどい状況、真に最悪なのは敵側にも私がいることです」
敵側にもと魔王は言った。それはつまり、魔王が裏切るという状況ではなく、同等の威を持った者が敵側にも存在するという意味だろう。
無彩色を『魔』と呼び、それを狩る教会側に、魔王が。
「いや、有り得んだろう、それは」
失笑が漏れる。
「有り得ない」繰り返し、魔王は真っ直ぐにアビス・ブルーを見据えた「これほど貴方に不似合いな言葉も無いですね、水底の深淵」
ともすればそれは、挑発ともとれそうな言葉だったが。
掌で半ば口許を覆うような恰好で、アビス・ブルーは思案する。
「確率論に零は無い。一度観測された事象はもう一度起こり得る。『魔王』という存在、それは既に観測され、確定している。ならば同等の者が存在する可能性もまた……」そこまで回転した思考が、ひとつの可能性にたどり着く。
「――そもそも。敵が教会だけとは限らない」
呟き、顔を上げたアビス・ブルーに、美貌の魔王は微笑んだ。
「ね、最悪でしょう?」
魔王が――いや、アビス・ブルーたちにとってもっとわかり易い例を挙げるならば、敵側に遠見の魔女が存在する可能性……確かにそれは最悪と言えた。
そしてそんな状況ですら想定する魔王は最高である。
「確かに承った、我が王よ」
大仰に膝をついたりはしないが、アビス・ブルーは一礼し、王命を受諾する。
「それはまだ未確定ですよ?」などと王は苦笑――苦笑?――するが、
「確定したとも。他の何者が形式上の王になろうとも、私はお前以外の命令を聞くつもりはない。私のことはお前が使え」
「そんな自分を物みたいに……」
「それもお前が言うな」
自身の命の使い方を云々した男にだけは言われたくないと、アビス・ブルーが苦笑する。こちらのそれはちゃんと苦笑だ。
「王よ、結局のところ私は、知識そのものにしか興味が無いのだ。それをお前以上に巧く扱える者には思い当たらん。故に私が蓄えた知識、それらを用いた思考、その総てを我が王に委ねる。好きに使ってくれ」
これがアビス・ブルーにとって最も重要な出来事。
水底の滄が、王を得た瞬間であった。
なにげに一番忠誠心高いかもしれません。
次は帰宅時のあれこれを、留守番組の誰かの視点で。たぶんルナかな? サブタイトルはまだ未定です。