余聞 藍の記憶
それは教会の混乱が始まった日。
カッ、と蹄を打ち鳴らす音が響く。それは絶影の転移に必須のものだった。影さえあればどこへでも跳べる絶影の、唯一の欠点。だから逃走には使えても、本来は潜入には使えない。
現に今も、実戦経験はおろか戦闘訓練も受けたことがないであろうその人物ですら、音に反応して肩越しに振り向いてしまっている。まぁ、ただ殺すだけなら『最果ての黒』には、相手が気づいていようといまいと同じ事ではあったが。
黒曜の刃は防げないし、シディ=ブラウニングの剣は躱せない。
……それでも、何をやってくるか想像もつかないワンドにだけは、この手を使うことができないのだが。
深みのある藍色の髪をした、品の良い老婦人のように見えるその人物は、シディに目を止めると、柔らかな微笑みを浮かべた。
「あらいらっしゃい。良く来たわね」
などと、親戚の子が家に遊びに来た、といった程度の気安さで、実質教会の頂点のひとりである藍の司教は、黒曜の剣を歓迎した。
「……私が何をしに来たのか、わかってるんですかね?」
剣を抜くことも忘れ、シディは呆れを口にする。
これに対する答えは、彼を更に困惑させるものであった。
「取りに来たのでしょう? わたくしの命を」胸に手を遣り、こともなげに彼女は言うのだ「貴方がわたくしのところへ来る理由、なんてそれくらいしかありませんからね」と、正しく彼の目的を。
そして彼女はぱん、と手を打ち鳴らし、「じゃあ、まずは食事にしましょうか」などとのたまった。
「……はい?」
自分の目が点になっているのをシディは自覚した。
「あら、もう済ませちゃったかしら?」
とても残念そうに言われ、思わずシディは正直に答える。
「いえ。まだ、です、けど……」
「ならちょうど良かった。私もこれからなのよ。
……あー、最近忙しくてあまり料理なんてしていなかったから、ロクな材料が無いけれど、構わないかしら?」
この発言にシディは正気に戻る。
「――買い物に行きたい、なんて言いませんよね?」
行かせない、と言外に告げる。
「貴方は行かせないでしょう? だからあり合わせでも良いか訊いているのだけれど?」
……ダメだった。やはり彼女のペースのままだ。
「……自分を殺しに来た相手と仲良く食事をする気ですか貴女は」
せめてもの抵抗、と皮肉を口にすれば、
「あら嬉しい。『仲良く』食事をしてくれるのね」
童女のように無邪気な笑みで返される。
「言葉のあやですよ。そもそも黒曜と司教が仲良くできるとでも?」
もう事実を口にするしかないシディに、藍の司教は慈母の如き笑みで返す。
「そうできれば良い、とは思っているわ。教会の落とし子たる貴方は、私の子と言っても過言ではないでしょう?」
「過言でしかないでしょう。貴女がたにとって黒曜の武器はただの実験動物――では良く言い過ぎですか――実験の成果物に過ぎないでしょうに」
そう、実験。
人間を使った交配実験だ。
教会は『黒』の色彩を創り出すために、人為的に色を重ねた。そんなことにまっとうな人間は使えないから、素体とされたのは犯罪者や奴隷だったという。
その事実を隠蔽するため、また貴重な『黒』に悪影響を及ぼさないように、子を育てる方の役は純粋な教会関係者が担った。要らぬ依存をせぬように、父母ではなく、ただの教育者として。
ワンドがどうやってか調べてきたそれを聞いた時、シディが思ったのは『なるほど』と、それだけだった。淡泊な反応を訝るワンドにシディはこう答えた。自分のようなモノがまっとうな生まれであったとしら逆に驚きだ、と。
だからシディは、実父も実母も、その候補者ですら知らない。
だからシディは、家族というものが良くわからなかった。
妻と義父母がそれを、教えてくれるまでは。
教会にとって自分が、自分たちがモノでしかなかったのは純然たる事実だ。それに対してシディは特に思うところもなかったが、それでも自分を息子と呼んで良いのはあのひとたちだけだろうとは想う。
いや、実父と実母にもその権利はあるのかもしれないが、そちらはそもそも誰が我が子であるのかもわからないだろう。
……いいや、それ以前の問題として、既に生きてはいないか。教会が彼らの口を封じていないなどと考えるのは、悪魔に慈悲を期待するようなものだ。
事実を事実として述べるシディから、老女は目を逸らさない。
「否定はしません。わたくしたちは貴方たちをそのように扱った。だからこそ、貴方にはわたくしを殺す理由も権利も揃っている。
逃げも隠れもしませんよ。わたくしの命が望みなら持ってお行きなさい」
真摯な目でそう告げて、彼女はまた楽し気に笑ってみせるのだ。
「でも、その前に。最後の晩餐くらいは良いでしょう? 結局家庭を持たなかったわたくしですけれど、息子との食事、というのには少し憧れていたのよ」
「まだ言いますか。私が言うのもなんですが、貴女も相当おかしいですね」
「そうね。自分たちがおかしいということに気づけなかったから、こんなところまで来てしまったんでしょうね。
燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや、などと嘯く者もいますが、大きな鳥であれば小さな鳥の命を踏みつけにして良いということではないでしょう。鴻鵠安くんぞ燕雀の夢を知らんや。個々人のささやかな日常をないがしろにしてきた果てが、今の教会の在り様で、有り様なのでしょうね」
自嘲するように笑う老女に、シディはため息をつく。
「――さっさと済ませてしまいましょう。材料を斬るくらいは手伝いますよ。得意分野ですからね」
そんな、少しも笑えない冗談に、藍の司教はそれはそれは楽し気に笑った。
鼻歌など歌ってはしゃぐのには、シディは少々辟易したが。よりにもよって、妻が良く口ずさんでいた曲であったから、余計に。
あり合わせ、と当人が言った通り、さほど凝った料理では無かった。
けれど。それを口にしたシディは、不覚にも泣きそうになっていた。
「お口には合ったかしら?」
「――不本意なまでに。もう食べられないと思っていた、妻の料理に似ています」
「あら、それは逆ね」
「逆?」
「これがそれに似ているのではなくて、それがこれに似ているの」
「言葉遊びには付き合えませんよ。私は妻や息子ほど頭が良くないので」
卑下するのではなく、むしろふたりを誇るようにシディは微笑む。ずっと笑っているので、特に表情が変わったわけでも無いのだが。
シディは、他に表情を知らない。他の黒曜が泣いたり嘆いたりする時にも、シディだけは静かな笑みを浮かべていた。いつも、いつでも、いつまでも。
藍の司教は苦笑と共に肩を竦めて答えた。
「エクに料理を教えたのは私、という話よ」
エク――エキザカム。とある七彩の司教によってローズと改められる以前の、シディの妻の名前。彼女はそちらの名前の方が気に入っていたようだが、シディが自分にとって君は蒼薔薇そのものだからとブルーローズと呼べば、「ばーか」と笑ってその呼び名を受け入れてくれた。
「随分と、懐かしい名前ですね」
彼女をその名で呼び、料理を教わる程度には親しかった相手。
ブルーローズ=サファイア=ブラウニングは、そんな人物を、息子のために殺せと言う。シディはそのことが、少しだけ、哀しかった。
「この呼び方が通じる相手も数えるほどですしね。さて、最後の晩餐はこれでおしまいね。付き合ってくれてありがとう」
立ち上がり、静かに目を閉じる、エキザカムだった頃の妻を知る人物。彼女は「できれば殺すのは私で最後にできないかしら?」と言った。
「できませんね」シディは答えて言う「少なくとも、あとひとりは殺すことが確定しています」
「黄ですか」彼女は即座に言い当ててみせた「まぁ、彼も教会の頂点のひとつである以上は、わたくしに止めることはできませんね。では、確定していないそれ以上を、貴方が殺さないことを願うわ。そう願う年寄りが此処にひとり居たことを、良かったら覚えておいてちょうだいね」
閉じた瞼を開くことなく、彼女は最期にこう告げた。
「――息子よ、良い旅を」
黒曜の刃は防げない。
シディ=ブラウニングの剣は躱せない。
相手にそのどちらもする意図が無いとなれば、結果はひとつだ。妻が必要と判断したことならば、彼はそれを為すのみである。
それが、どのような非道であろうとも。
翌日。とある七彩の司教の死体が発見された。
原型をとどめない程に損壊した亡骸は、見つけた兵士が恐慌状態に陥るほどで、いったいどれほどの恨みを買ったらこのようなことになるのかと、教会関係者を大いに怯えさせた。
ただひとり、死体を冷静に検分した、無刃の黒曜を除いて。
いつも笑っている彼は、怯えも恐れもしなかったが、哀し気に眉根を寄せた。
「黄はともかく、藍は交配実験の中止を主導したのだと、知らなかったのかい?」
知っていても、必要がありさえすれば同じことをやったであろう旧友は、いったいどちらだったのだろうかと、叡智の黒曜は思いをはせた。
藍の願いが叶えられたのかどうかは、いずれ語られることもあるでしょう。
新年早々重苦しい話ばかりでごめんなさい。クリスマスにやる話じゃねーなー、年の瀬もアレかなー、などと考えた結果こうなりました。年明け最初は避けたのですが、あまり意味がないという説……
てかやらかしました。次回予告で色を間違えてました(修正済み)
青ではなく藍でしたね。青はまだ生きてたわー。
さて次は重くも暗くもない話、ということで、有能な厄介者をつけられたお姫様の話にしようかと。次回「番外王女奮闘記」(仮)お楽しみに。