余聞 イド
それはエメラルディア王国で交わされた、余人には聞かせられぬ話。
馬車に乗り込み、恋する乙女を自称する天才軍師が、組み込まれた機能のひとつを発動させる。音が伝わるのを防止する、密談用の機能だろうか、などと考えるインディゴライトは、それが本来は防火用に組まれた機構だとは知らない。
「何故あの血色の道化についたんです?」
開口一番、軍師に問われたインディゴライトは素直に答えた。
「いやぁ、あのヒトと違ってオレは剣の方はからきしなんで。目ぇつけられた以上は協力するしか生き延びる道は無かったんだよ」
ブラドの計画に、インディゴライトは早い段階で気づきはしたが、彼が気づいたことを奴に気づかれもしていた。だから口封じに殺されないためには、敵対せず、自身の有用性を示し続ける必要があった。
「本音と言いつつ建て前を語るのが貴方の流儀ですか?」
軍師様は、それは綺麗に微笑んだ。
インディゴライトは慌ててかぶりを振る。
「いやいやいや、嘘なんて言ってねーよ?」
「えぇ。貴方は嘘などつかないでしょう。けれど貴方が語ったのは、ただの事実とほんの表層部分だけ。だって貴方、面白そうだからという、それだけの理由で、自分の命を賭け皿に載せられるひとでしょう?」
一応語尾は疑問形を取っていたが、ほぼ確信している様子で、インディゴライトの口許からは軽薄な笑みが消えた。
「――根拠は?」
「今、貴方が此処に居ること。
危険を冒してまで事態を収拾しようとしなかったのは、あのお姫様では理由として不足だったからではないですか?」
はっ、と爽快な笑みが漏れ出す。
「すげーな、アンタ。姫様がアンタみたいだったら……あぁ、だったらそもそもブラドに踊らされやしなかったか」
それに関しては環境と経験の差も大きいと思いますが、などと謙遜する軍師様に、インディゴライトは一番聞きたかったことを訊く。
「なぁ、アンタはいったい、何処を目指すんだ?」
それだけのことが視える眼で、これだけのことができる智慧で、いったい、何を為すのかと。これに対する返答は、「とりあえず精都エルドラドですが?」という、とぼけたもので。
「そういうこと訊いてんじゃねーよ」
わかってんだろ、と半眼を向けるインディゴライトに返されたのは、彼が望んだ、いや、彼の期待を遥かに上回る答えだった。
「ではこう答えましょうか。とりあえず、世界を変えます」
とりあえず、と彼女は言うのだ。なんの気負いもない、当たり前の笑顔を浮かべたままで、世界を変えてしまう、などと。
むしろ隣に座った護衛の赤毛の方が驚いた顔をしていた。
「はっ、はは、そりゃまた大きく出たもんだ」
呆れたものか称賛したものか。インディゴライトですら即座に決めかねる発言だったが、少女は小首を傾げて更に言う。
「そうですか? でもこれは最低条件なので……」
「いやホント何処向かってんだよ!?」
思わず声を荒げるのに、応じる声は淡々と。
「決まってるじゃないですか。恋する乙女が向かう先は、恋した男の子の居るところ、ですよ」
――本気で言ってたのか、アレ。
「いやそれで『とりあえず』世界を変えるって……」
今度は考えるまでもなく呆れる。どんな恋だそれは、と。
「だってしょうがないじゃないですか。この世界は彼をかいぶつだなんて言うんですから。これはもう、どうしようもない」
インディゴライトは、インディゴライトですら、息を呑んだ。
「――オイ、まさか……」
かいぶつと呼ばれる人間について、思い当たるものなどひとつしかない。
「恋する乙女は最強なんですよ? 好きな男の子のためだったら、空に架かる虹だって消してみせますよ」
――なるほど、それは世界を変える恋だ。
たとえと呼ぶこともためらわれるような、ほとんどそのままの表現で、その恋する乙女は言うのだ。特別気負った様子さえもなく、この大陸を実質的に支配する一大勢力に――『教会』に挑む、と。
「……アンタ、オレが思った以上にイカレてるよ」
「そりゃあ、自分で自分をかいぶつだなんて呼ぶひとに恋してますから」
言って、彼女は誇らしげに笑ってみせる。誇るのは恋をしている自分か、恋をした相手か、それともその両方か。
「あぁ、ホント、イカレてて、イカシてるよ、アンタ」
それはどうも、などと気軽に答え、革命家が言った。
「ひとくち乗ります?」
まるで昼飯を賭けるか、とでも問うような気軽さで、彼女は命を張るかと訊いてくる。イカレている、そう言ったインディゴライトに応えるかのように。
くくっ、と喉奥で笑声が漏れた。
「世界の大半が敵か。なるほど、コイツは面白い」
挑み甲斐がある。
遊び甲斐がある。
交渉成立。それを悟ったのか、護衛役の――本気でここまでひと言も発しなかった――火そのもののような少年が、ひと太刀で拘束を両断する。
それは剣の腕、というよりも、剣自体が特別なのだろうとインディゴライトは理解した。
「それで? オレはこの国の軍でも掌握すりゃ良いのか?」
「いえ、そこまでは。一軍の中枢との連絡手段が確保できれば、今はそれで」
言った彼女が取り出したのは、共鳴石と呼ばれる一対の通信用刻印石だ。周囲の状況や距離によらず使用可能という利点と、一方通行で一度きりの使い捨て、加えてそれなりに高価という難点がある、非常用の通信手段である。
「……そんだけで良いのか?」
共鳴石の片方を受け取りながら問う。ちなみに受信側送信側の区別は無く、道具としてはどちらからでも通信可能だ。
ついでに言うと通信に精霊が働くので、どれほど騒がしい場所に居ようと、仮に眠っていたとしても聞き漏らす心配は無い。聞いているのは本人ではなく、その身に宿る精霊だからだ、などと言われている。
「軍は抑止力であることが最善。私はそう考えます」
「そりゃ随分甘い……いや、そうでもないのか。次善の策が必要な状況なら、躊躇うアンタじゃない、か」
「買いかぶりですよ」
――どの口で。
「ま、そういうことにしとくさ……ルビア、で良かったか?」
インディゴライトが右手を差し出すと、ほっそりとした指の小さな手がそれを摑んだ。剣が一応使える、といった程度のインディゴライトでもわかる。武器を持つ者の手ではない、と。
それにしては肝が据わり過ぎだろう、と。
「オレのことはインディでもディゴでも好きに呼んでくれ」
ひとによって呼び方が違うので、彼のあだ名は一向に安定しない。
「ではイドと」
誰も呼んだことの無い名で、少女は彼を呼んだ。
イド――それ。名前の無い怪物。心の内に居る、欲望の獣。
インディゴライトから抜き出した名ではあるが、マトモなヤツならそんな名で呼ぶことはしないであろう、それを聞いて。
インディゴライト――イドは腹を抱えて笑った。このイカシたイカレ女は彼を評してこう言っているのだ、どこまでも愉しむことに対して真摯だと。遊興に殉じられるほどに、それを第一にしていると。
――正鵠を射ている。
知略を競うこと、それを愉しむことこそが、イドとあだ名された彼の、唯一無二の望みであったから。
競うにふさわしい相手、ということならば、ルビアこそがそうなのかもしれなかったが、恋のために世界を変えると豪語する彼女は実に愉快で、イドとしては味方についた方が愉しいと思えた。
敵の方も、七彩教会であれば不足などということはないだろう。
――腹は決まった。
「そんじゃ、せいぜいアンタの恋路を応援させてもらうとするよ」
そちらにつく、という決意表明に、実にイカレていて、イカシた言葉が返る。
「はい。存分に愉しんでください」
信頼も信用もしていないから、好きに遊べ、と。こちらはこちらでそれを勝手に利用するだけだから、と。イド、などと名付けるだけあって、実に彼のことを良く理解している。
加えて言うなら、今後七彩教会に不足が出るようになったとすれば、その時にはもう、イドの智慧などは不要だろう。
そういう状況になったらまた寝返る、という可能性を彼女は考慮しているだろうか。ふとそんなことを考えたイドは、つまらないな、と切り捨てた。状況に流されてのことならばともかく、自分で決めた目標に対して、中途半端は面白くない。
いくら良い眼をしているといっても、ここまで視えるものではないだろう。だから、とイドは思うのだ。信頼も信用もしていない自分が、最後まで裏切らなかった時の、この少女の顔は見物だな、と。
今度こそエメラルディア王国篇、完結です。
新しい国がルビアたちを待っています。