第88話 白く、皓く、猶皎く
某月某日、食卓に謎の白い塊が並んだ。
いや、某月某日、などととぼけてみたところで、その日はハルたちが森の外から帰って来た翌日の夜であり、その得体の知れない白いナニカがハルのために用意されたであろうことは想像に難くない。カレンの新作料理はたいていがひどい偏食のハルが食べられるよう創られたものであり、危険な――実際はそれ程でもなかったのだが――野外活動から帰った直後ともなれば、彼女が腕を揮うのも頷ける話だ。
……なのだが。
大皿……というか、特大の木製のボウルの中の何か白いもの、それが食卓にある全てというのはどうしたことか。いや、確かに分量だけなら充分あるのかもしれないが……と、思わずハルは周囲の皆と視線を交わす。
全員目が点だった。
「えぇと……」
誰ひとりとしてその視覚的衝撃から立ち直れていないようなので、とりあえずハルは口を開いたものの、その先が続かない。
いったい、なんと言ったものか。十中八九自分のために創られたものだということも、ハルが言葉選びに戸惑う一因だった。
「――なんすか、コレ?」
あとを引き取って言ったのは、サニーだった。まだ衝撃が抜けきらぬのか、言葉数は少なく、端的だったが。食卓中央にでん、と鎮座するバカでかい白いモノを指差して、カレンに胡乱な視線を向ける。
あはは、と、ごまかすように犯人、もとい料理人は笑う。
「いやほら、朝昼とわたしなりに気合い入れて作ったのにさ、サラはともかく魔王君はあんまり喜んでくれてない様子だったから……」
説明、或いは言い訳は尻すぼみに消えて逝き、
「更に入れた気合いが暴走した結果がコレだ、と?」
サラが容赦なく切り捨てた。
うぐっ、と人並みに豊かな胸を押さえてよろけるカレン。サラの発言に悪意や皮肉は一切無く、ただ純粋な疑問だけがあった。アレは逆に効く。
「喜んでない、なんてことはないんですが……」
特にフォローのつもりでもなく、ハルが正直なところを言えば、
「あるよ。魔王君のそれは、ただ不満が無いってだけ」
真っ直ぐに目を見て、そんなことを断言されてしまう。
だから、というわけでもないのだが、そうなのかもな、とハルは思った。カレンが作るものは、どれもおいしく食べられる。肉も魚も卵も使わず、油ですら植物性のものだけで作られている徹底ぶりである。おそらく調理器具も、ちょっとした風味ですら移らないように、他の皆とは別のものが使われている。
――でも、父さんの味じゃない。
そんなことを考えなかったかと言われると、ハルとしても否定はできない。どちらが美味しいのかと問われれば、考えるまでもなくカレンの方なのだが……それは父の味でも、ルビアの味でもない。
そもそも食に対する興味が希薄なハルなので、重要なのは味そのものではないのだ。不器用なりに少しずつ整えられていった父の作るもの、それをベースにできる限りの改善を加えたルビアの料理は、やはりハルにとって特別であった。
けれど興味そのものは希薄であったため、その味について詳しく説明することがハルにはできない。だから無理なことは最初から言わないようにしていたのだが、カレンに対しては、それが逆に良くなかったのかもしれない。
「――いや、それでどーしてこーなるんすかね?」
ただただ白い食卓に、サニーがため息をつく。人数分の取り皿とスプーンが用意されているものの、中央の圧倒的な白にどうしても目が行く。
カレンもさすがに気まずそうな笑みを浮かべた。
「いや、魔王君って、野菜果物ならなんでも美味しく食べられる、ってわけじゃないでしょ? 豆は食感が苦手みたいだし、味も含めて嫌いなのもあるよね?」
「――驚きました。良くわかりましたね」
まだ話は途中の様子ではあったが、たまらずハルは呟いていた。見透かされているとは思ってもみなかった。
「噛む速度、呑み込むまでの時間、手の動き――見てればわかるよ」
「いやそれがわかるのはカレンぐらいっす」
サニーのツッコミにちょっとした安堵を覚えたりなどしつつ、ハルはカレンの話の続きを待つ。彼女はサニーにちょっと不満げな表情で応じて、続けた。
「完全に潰して作った大豆のハンバーグなんかは問題なさそうだったから、苦手なのは薄皮の食感じゃないかと思って。で、失地の郷土料理に豆を原材料にしたものがあったのを思い出して……作ってたら、他の作る時間が無くなっちゃった」
全員の視線は、小さくなっているカレンではなく、食卓の白いアレへと向けられていた。取り分け用に準備されているのが大ぶりなスプーンふたつだから、柔らかいモノなのだろうということと、あとわかるのは、豆から作られているらしいということくらい。
他に料理は、無い。
それはもう一切。すがすがしいまでに皆無である。
つまりこの日の夕食は、ハルだけでなく他の皆も、この得体の知れない白いのオンリーということになる。
「――バカじゃないっすか?」「あ。実はボクもそう思うよ」「少なくともそれを否定する要素は無いですね」「カレン……」「……言って、くれれば……わたしも、手伝ったのに……」
同性たちからは、なかなかに容赦の無い言葉が浴びせられる。ルナにまで憐れむような視線を向けられているし。夕顔はただ肩を竦めただけだったが。
男性陣はこれに比べれば反応が薄く、気配だけで苦笑するシグルヴェインに、まったくの無反応のニクス、ちらちらとハルの様子をうかがっているフロストと……唯一興味津々といった体で白いモノを矯めつ眇めつしているのがフロル。彼はこんな時でもぶれない。
そしてハルは。
「これって、ひょっとして豆腐、ってヤツですか?」
訊くのに、むしろ意外そうな答えが返る。
「――知ってたの?」
「現物を見るのは初めてですが。父さんが作ろうとして、結局最期までうまくいかなかったものですね」
いただいても? と、ハルは取り分け用のスプーンを手に取る。どうぞ、と言ったカレンがやけに不安げにしているのに首をひねりつつも、自分の皿に白くて柔らかい塊を取り分ける。
ひとくち食べて、彼女の反応を納得した。
「なるほど。私はコレ、好きですけど、他の皆は物足りないかもですね」
なんと言うか、あまり味がしない。無いわけではないのだが、単体で食べるのは味気ないと言わざるを得ない。ここ一週間ほど食べ続けた携帯食料と良い勝負だ。
「何かしらのソースでもかけてみてはどうでしょう?」
ハルがそう提案すれば、
「魔王君が料理に興味持ってくれた……!」
「いや泣くほどですか」
実際に泣くまではいっていないが、両手で口許を覆ったカレンは、その寸前くらいには目を潤ませていた。
「泣くほどなんじゃないっすかねー」「魔王サマの無関心ぶりはえっぐいからねぇ」「……興味があるの、サクラの本、くらい……?」
どうやら此処にハルの味方は居ないらしい。だって護衛のふたりまで重々しく頷いているし。
結局その日の夕食は、豆腐の調理方法を考える会、となった。岩塩だけで充分美味しい、と言ったのはハルだけで、鍋や濃い味付けのスープなどに入れてみてはどうか、という意見が主流派だった。まぁそれは次回以降のことで、今回は作り置きがあるいくつかのソースでそれぞれが食べることとなったのだが。
質素で、彩には欠けるが、これはこれで楽しい食事ではあった。
帰って来た。そう、改めて実感できる、日常のひととき。
夕食が終わるのを待っていた、などということは決してないのだろう。
それは、空から舞い降りる。
「サラ」
発する言葉は、その2音で限界。注意を向けるべき先を視線で示して、
白く、皓く、猶皎く。視界を一色に染め上げる炎が、ウィルムハルト=オブシディアン=エキザカム=ブラウニングを包み込んだ。
こちらも物語が大きく動き始めます。
ひどい引きなのでなるべく急ぎます。