余聞 黒曜と藍玉と
教会は国家間の争いに関与しない。
教義でそれと定められているとか、聖職者として世俗には関わらないとか、そういったまっとうな理由はそこに一切無く、単に現在の教会上層部が外に興味を示さないという、ただそれだけのことだった。俗人よりも遥かに俗な聖職者の皆様方は、内側での権勢を競うのにお忙しくていらっしゃる。
長く続く教会史には、調停者として国家間の仲裁に入った記録も、例外とは呼べないだけの数が確かに記されている。そう言って、大陸全土に及ぶ影響力を有効に使うべきだと主張していた藍の司教は、不壊の黒剣に刺し貫かれて既に亡い。
かくて七彩教会は未だ、倦んだ停滞の中に沈んでいる。
愚かな彼らは大陸全土が教会に従うものと、従い続けるものと信じて疑わない。いや、信じるまでもなく、それが自明の理だと思い込んでしまっている。未だ教会の威が及ばぬ地ですら、やがては神の威光の前に膝を屈すると、それが正しいことなのだと、本気で考えている。
「流れを止め、澱んだ水はいずれ腐れるものだよねぇ」
「父さん?」
何の比喩だか知られたら、地位どころか命すら危うい局長の発言を、修道服姿の養女がやんわりと窘める。
そんな良くある日常に変化をもたらしたのは、一枚の報告書だった。
曰く、豊穣の王国エメラルディアで起こった騒乱を、メアリーゴールドを名乗る娘が治めた、と。その石名はアクアマリンであり、一応現在招聘中の聖女のそれとも合致する。
詳しい事情は、わからない。正式な刻銘の前に名声を高めるという強かな打算か、或いは名実ともに聖女を体現する者なのか。
どちらにせよ、確かなことはひとつ。
「澱みを押し流す清流たり得る、かもしれないね」
朱に交わって赤く染まることも充分あり得る。けれど、逆に無垢なる黄金色が、濁った七彩を染め上げてしまうことだって、絶対にありえないとまでは言えない。
老人たちが染まる可能性ならば皆無と言っていいだろうが、信徒たちは良くも悪くも純粋だ。汚濁した中枢部に染まる前ならば、単純に綺麗なものを望むだろう。
一応ワンドは追加の情報を要求したものの、正直それが届くのと本人が精都に到着するのと、どちらが先になるのかわかったものではなかった。
ワンドは各地の教会から広く情報を集めている。広く、ではあっても浅く、でしかないことが目下の悩みの種ではあるのだが、報告元が一般信徒であって、専門職ではないので致し方ないところだ。
「迎えを出す?」養女が問い、
「いったい誰をだい?」養父が反問する。
黒曜機関はその特異な色彩ゆえ慢性的な人手不足であり、主目的である戦闘要員の確保すら満足にできていない状態だ。予算もお世辞にも充分とは言えず、専属の諜報員など抱えられようはずもなかった。それでも個人としての情報屋であれば、手足の指では足らぬほどの繋がりを持っているあたりは叡智の黒曜の面目躍如とも言えたが……そもそも黒曜機関は現状、予算以上の問題を抱えている。
「私たちじゃダメなの? 最近此処はヒマだし」
「あぁ、それはムリだね」
警戒されているのである。他ならない、七彩教会そのものから。
教会にとっての正規軍である聖堂騎士団は実戦経験に乏しく、暗部を担ってきた黒曜機関は少数とはいえ実質的に七彩教会の最大戦力である。そこまで正しく認識しているのはワンドくらいのものだろうが、仮にふたつの戦力が正面からぶつかれば、鬼札を切るまでも無く、ワンドが何もせずとも、勝つのは黒曜の側だろう。無論、そこまで条件を縛っていては、損害はかなりのものになるだろう。が、負けは無い。数は力だが、それは数を適切に運用できるという前提があってこそだ。
と、そのような思考実験をしていることを、容易に読み取らせるような可愛げは無論ワンドには無い。けれど思考が読めない故の得体の知れなさまではどうしようも無かった。才覚だけで言えば、敢えて周囲に埋没することもできただろうが、彼自身が積み上げた実績がそれを許さない。
それでも穏健派である藍の司教が手綱を握っていたからこそ、今まではある程度自由に動けていた。
現在は支援者であった藍の司教と同派閥の赤の庇護下にあるものの、黒曜を最も警戒しているのが、その赤の司教であった。持て余している、と言い換えても良いだろう。
ワンドに教会に対する叛意などは無い。上層部には失望し切って――藍の司教だけは例外だったが――いても、それでも猶、この世界のために七彩教会という組織は必須であると信じていた。
そんなワンドを、赤の司教は信じられない。存命の3司教全てに言えることだが、俗物であるが故に、力を持つ者のことが信用できない。
ワンドが十全に力を揮うことができれば、もっとずっと巧くやることができるというのに。教会内の権力闘争に無関心であった弊害とも言えたが、ワンドとて内と外の問題を同時に解決することはできない。
世界の敵たり得る者の排除。黒曜機関の使命であるそれを優先するのは当然のことであった。結果、それすらもままならなくなりつつある、というのは皮肉と言うしかなかったが。
「本当に、憎らしいくらいに最高の一手を打ってくれたものだよ、シディは」
戦力のほとんどは要人警護に駆り出され、そうなる前に単独で動いたダガーは、正直実戦にしか使えない。探索で成果を上げることは、ワンドですら期待していないレベルである。
残るは頭とその手足だが、これが不用意に動けば、以降は今以上に動きにくくなることだろう。だから、無理はできない。
「またそういうことを楽しそうに」
養女の呆れたため息に、ワンドは「おっと」と口元に手をやった。
「そもそも、精都に至るまでが聖女の試練でもあるわけだしね。それが敵対派閥による暗殺の温床になっているのは、なんとも笑えない話だけど。
なんにせよ、聖女の護衛という名目ではボクらは動けない、ってこと」
「……それ、動けないのは父さんだけよね? 私だけなら平気じゃない?」
ワンドの言葉に、ティアが小首を傾げた。確かに、名目上彼女はただの養い子である。黒曜機関に正式に所属しているわけではなく、養父の手伝いで雑用をやっているだけ、というのが傍から見た彼女だろう。現状で唯一自由に動ける人物だと言って良い。
――の、だが。
「まぁ、ティアが動くのに名目は要らないねぇ」
「だったら、」
「でもティア? 初対面の相手と仲良くなれる自信、ある?」
「うぐ……」
指摘された問題点に、ティアはまぶたを閉じたままで眉根を寄せる。
「ウチの子は人見知りが激しいからねぇ。友達のひとりもできたの?」
「とっ、父さんだって友達いないじゃない! いるのは部下だけでっ!」
何を失礼な、とワンドは胸を張って答えた。
「シディは友達だよ? あとブルー・ローズ」
「友達(敵)を含めないで! あと故人も!」
「むぅ。娘が反抗期だ」
「当然の反論だと思う……」
娘の呆れ顔はともかく、何か名目が無ければ動けない、という結論は変わらない。今は無理をするべきではない、ということも含めて。
動くための名目。それは意外なところから、意外な形でもたらされることになるのだが……あまりに想定外すぎて、ワンドですら巧く利用することができずに、聖女と良好な関係を構築するという目的は果たせずに終わることとなる。
それは、もう少し先の話である。
ハーフサイズでさくっと投稿、のはずがちょい短い程度のフルサイズで丸一週間かかるという……ぶっちゃけ2行目以下のくだりは10回は書き直しましたね!
読みやすいものになっていると良いのですが。
さてさて次は無彩色サイド。いよいよあちらにも動きが……って話にするか、お姉ちゃんの新作料理の話にするかまだ考え中です。たぶんどっちかです。