第77話 フランボワーズ
「お菓子作りを教えてほしい?」
予想外、というか思考の埒外ですらある魔王の発言に、カレンは同じ言葉で問い返していた。顔に出過ぎていたのか、彼は雰囲気だけで苦笑して「そこまで驚かなくても」と言った。
夕食を終え、家に帰る途中なので、一緒に居るのはルナを含めた三人だ。
……人間以外に、猫と鴉が居たりもするが。というか、その猫と鴉が明かり替わりになって行く道を照らしてくれているのだが。
「いや普通に驚くわよ。だって魔王君、作ることどころか、食べること自体あんまり興味ないでしょう? どういう風の吹き回しなの?」
遠慮も容赦も一切無い言い回しに、魔王は笑みを浮かべた。おそらくは苦笑のつもりなのであろう、圧倒的に苦みが足りていない笑みを。
「まぁ、だいたい合ってますね。ただちょっと、作りたいものがありまして」
「それ、わたしが作るのじゃダメなの?」
「はい。それだけは絶対にダメです」
即答だった。まぁ『食べたいもの』ではなく『作りたいもの』だった時点で、カレンにはだいたい予想できたことだったが。
「……ちなみに作りたいものって?」
「木苺のタルトです」
――まぁ、そうだろう。
彼が手ずから作りたいなどと言い出すということは、絶対に他人には触れさせたくない部分なのだろうと、予想はできていたが、それでもあまり愉快な気持ちにはなれない。
「え、なになに、新しいお菓子? ルナも一緒にやりたい!」
「いえ、今回は遠慮してください」
子ども相手に、この容赦の無い即答である。
カレンはなだめるようにルナの肩に手を置いて、「魔王君?」と、皆まで言わずに視線で語る。感情抑制を学ばせなければならないと言った相手を、自分で煽ってどうするのか。
「え。いや、だって……」
「だってじゃありません。それが魔王君にとって大切なものなのは聞いたけれど、もう少し言い方を考えて」
ため息をどうにか呑み込んで、叱る。どうにも、彼は極端だ。ほとんどの物事に無関心で、たいていのことは許してしまうくせに、本当に大切なものは決して誰の手にも触れさせようとしない。まるで、子どもが宝物をしまい込むかのように。
仕方がないので、カレンは年長者として妥協案を出す。
「ねぇルナ、魔王君が手作りのお菓子を振る舞ってくれるって」
月色の髪を撫でつけて言えば、ルナは不満そうながらも頷いた。
「え? いや……それは別に構いませんけれど、絶対にカレンさんが作ったものの方が美味しいですよ?」
たわごとはとりあえず無視した。問題は味ではなく、誰が作ったか、だ。
「それで、ルビアの誕生日か何か?」
問えば、魔王は虚を突かれたように目を瞬いた。
「驚いた。良くわかりましたね」
「いやわかるでしょ。木苺のタルトの話が出たときのこと思えば」
今度こそ呑み込まずに、カレンはため息を落とす。
実はため息の理由はひとつではなかったのだが。
「それで、いつ?」
「明日です」
あまりにあまりな返答に、カレンは頭を抱えた。
――いや、考えようによっては好都合か。
「ある程度の準備はこっちでやっておいて良い?」
「いえ。できれば最初から自分でやりたいのですが……」
予想通りの答えに、カレンは用意しておいた言葉を返す。
「材料を寝かせる時間も必要なの。全部自分でやって、失敗したら間に合わなくなると思うけど、それでも良い?」
「……下準備は任せます」
「賢明ね」
そういうことになった。
翌日、やるべき準備を終えた状態で、カレンは以前住んでいた――ついでに言うと数日前に女子会を開いた――家へと魔王を招いた。
材料を量って、混ぜて、焼く。こうして列挙すると、簡単に思えるかもしれない。まぁ空気を含ませたり、含ませなかったり、いくつか美味しく作るコツがあるにはあるが、食べられるものを作るだけなら工程自体は難しいものでは無い。
……無い、のだが。
結論から言うと、魔王様はひどく不器用だった。用意しておいた液を、攪拌中に手を滑らせてぶちまけられた時にはどうしようかと思ったが、念のために多めの分量を用意していたので事なきを得た。お茶の時間に皆に出すお菓子がいくらか少量になるが、仕方ない。
途方に暮れていた彼をちょっと可愛いと思ったのは、カレンだけの秘密だ。
他にも危なっかしい場面は一度や二度では無かったが、最初のやらかし以降カレンがしっかり目を光らせていたので、致命的な事態だけは避けられた。
焼き加減については、カレンも一緒に見るので一番問題が少ない。
魔王が作った小ぶりなタルトは、半分を彼自身が、残り半分をルナにあげることになったのだが……これは結局、皆で分けることになった。
なぜならば。
「絶妙に微妙」
というルナの感想に、逆に全員が興味を惹かれたからだ。
カレンは味見で知っていたが……不味い、というわけではないのだ。普通に食べられるレベルではある。けれど、美味しいとはお世辞にも言い難い。
何かが足りないと、そう思わせる味なのである。いっそ、食べられないくらい不味い方が、まだ笑えるだけマシだと思えてしまうほどに。
「……なんか、ウィル君の、歌、みたいな味……」
アニーの言は言い得て妙だった。
声自体は綺麗なのに、聞くに堪えない音痴というわけでもないのに、音程がイマイチとれておらず、時折無自覚にリズムが崩れる。冗談にしては笑えないし、本気でやっているとしたらなんとも微妙な気持ちにさせる。それが無駄に美人な彼の歌であり、手作りの菓子であった。
ちなみにルナは、皆から一口ずつカレン作の方のタルトをもらって満足そうだった。本末転倒な気がしないでもない。
当人が居ないので陰口ともとれるやりとりではあるが、似たような話は本人の前でもしているので問題はないだろう、というのがカレンの結論だ。
……むしろ問題があるとすれば。もし来年も、今度は彼が最初から全部作りたいと言ったらどうしようか、ということだ。
今日はひとりで。そう言って焼きあがったタルトを手に家に帰った彼がどのように過ごしているのか、それはカレンにはわからない。
……なんというか、紅茶を淹れるのにも失敗していそうで心配だが。
一年前は、おそらく友人も一緒に食べたのであろう、友人の手作り菓子を今年は自作して。ひとりで、と言った彼は何を思うのか。
わかることは、未だ楽園の誰ひとりとして、かつての友人の代わりにはなれていないということだけだ。
――あぁ。なんかムカつく、そう言ったサニーの気持ちが、今になってようやく理解できた気がする。
とまぁ、そんな現実逃避気味の思考はそこそこに、改めて思うのは、来年はどうやってごまかそうか、ということだ。
タルト、というかたいていのお菓子には卵が使われている。彼がそれとわかれば食べられないと言っていた、卵が。だからそれとわからなくなる段階までは先に準備した。卵はいくつかの材料と先に混ぜて、匂いでバレないように普段は使わないバニラビーンズなどであらかじめ香りを付けたりなどして。
寝かせる時間――ひと晩とは言っていない――が必要、だとか、失敗――それが一度だけとは言っていない――したら間に合わなくなる(可能性がある)だとか、そんな詭弁は充分な時間があれば役に立たない。
来年はどうしよう。という、その心配が杞憂に終わるのだと。この時のカレンは、まだ、知らない。
サブタイトルは木苺のことです。暦もあわせて、わかるひとにはわかった内容かもしれないですね。フランボワーズというのはあまり馴染みのない単語だと個人的には思うのですが……
次は蒼紅サイドのお話……を、予定しています。