第70話 かしこくなれない者たち
それに最初に気づいたのはルビアだった。
……いや、単純に察知した、ということであれば、紅蓮の方が先であったかもしれない。けれどそれはどちらでも同じことだ。侍獣である紅蓮は主、そしてその同行者であるルビアたちに危険が及ばない限りは、それらしいリアクションを取ったりはしないのだから。
どうしたものか、という思案は一瞬のことだった。
と言ってもそれは一瞬で決断したわけではなく。
哮、という咆声が轟いて、全員がそれを認識することとなったからだ。
「魔霊……いや、魔獣か?」
「距離は近くはないですが、遠くもないですね」
アルとスピネルがさすがの対応速度で言葉を交わす。そして、どうする? とばかりに視線を転じたのはルビアへ、だった。
「……どうして戦闘担当のふたりが揃って私を見るんでしょうかね……?」
「直接戦闘以外じゃ一番頼りになるからだよ。そんなことより、どうする?」
ルビアの逃げ口上はアルにあっさり潰された。
考えをまとめる時間が欲しかった、というよりは、あまり言いたくはないたぐいのことであったから察しの悪いふりをしたのだが。
「――私たちにとって何が最善か、という話であれば、無視して先を急ぐこと、でしょうね。方角と距離を概算すると、一番近づくべきではない街があります」
そう。因縁ある奴隷商の、その上位組織の本拠地がある、まさにその街が魔獣――まだ未確定だが――に襲われている。首を突っ込むのは愚というものだ。
もしも、誰もその存在に気づかなければ、ルビアは無視したのだろうか。
――無視、できたのだろうか。
「だからってほっとけねーだろ!」
アルならそう言うことはわかっていた。だから、報せるのをためらった。
「こんな国滅ぼしてしまえ、じゃなかったんですか?」
嫌なことを言っているな、という自覚ははっきりとあった。それでも、感情を排した意見を誰かが言わなければならないのなら、それは自分の役割だろうと、そうルビアは自任していた。
「今襲われてんのはひとだ! 国は関係ねぇ!」
――あぁ、本当に。このひとは、妬ましくなるほどにまっすぐだ。
「その『ひと』というのが、例の奴隷商のような輩でも?」
「全員がそうとは限らねぇだろ!?」
「そうじゃないとも限りませんね」
あくまで淡々と、ルビアが告げると、熾の少年は敵を見るような目で睨み付けてきた。ひっ、と息を呑んだのは、ルッチか、アビーか。
「……街なら、子どもだって居るんだぞ……!」
炎の色の少年の、握りしめた拳が震えていた。たいていの者は、激怒しているととらえるであろうその友人の様子が、ルビアには心細さに泣きそうになっているように感じられた。
はふ、とため息をひとつ。
「しょうがないですね。」
そう、今のを言われてしまっては、しょうがない。無視できたのか、という自問に対する自答は、やはり否だった、ということだろう。
「すいません、メアリー。私とアル君はちょっと野暮用ができました。馬、一頭だけ借りても良いですか?」
「良いわけがないでしょう」その即答は予想外だったが。
「ま、そうですよね」
スピネルの首肯はまだ予想通りと言えた。彼にとっての最優先はメアリーだろうから、非情な選択もするだろう……と、考えたルビアはこのふたりを見くびっていたらしい。
「街が襲撃されてるなら、治療ができる人間が必要でしょう?」
腰に手を当て、存外に豊かな胸を張って。未来の聖女が、聖女らしいことを、聖女らしからぬしぐさで言った。これでは勝気なじゃじゃ馬娘だ。
「ウチのお嬢様はこう言うんですよ」
困ったように。けれど誇らしげに、スピネルは笑う。
「……スピネル君はもう少しかしこいと思ってました」
苦笑すれば、苦笑が返される。
「それお互い様でしょう、ルビア?」
そして視線を転じれば。
「最低限の食料と水、積み替え終わったよ」
「最悪幌馬車の方は諦めましょう。私たちが行ったところでなんの役にも立たないでしょうが、二人で取り残されるよりは、スピネルさんとアルの傍に居た方が安心できます」
ルッチとアビーが出発の準備を終えていた。
安心、とアビーは言った。安全、ではなく。
より安全なのは、幌馬車を走らせて隣国へ逃げ込むことだから。
「ホント、肝心なところでバカですよね、みんな」
メアリーの馬車へと向かいながら。言ったルビアの表情は、きっと先ほどのスピネルのそれとよく似ていたことだろう。
御者台には戦闘要員のアルとスピネルが、戦えない残りの4人は馬車の中だ。期せずして男女でわかれる形になったが、目的地に着けば御者はアビーが交代する手はずになっている。今は速度重視でアルが――彼の色彩の副次効果で多少馬に無理をさせられるから――手綱を握っているが、そのままでは戦えない。
当然スピネルも手を空けておくべきだから、残るはアビーか、ルッチか。ルッチはどちらかといえば馬車の中にいて防衛機構を担当した方が良いから、消去法でアビーに決まった。というか、これ自体アビー本人の論法である。
「信じてほしい、などと言えた義理では無いですが……二度とあのような無様をさらさないと、改めて約束します」
と、これはメアリーに向けての言葉。
「信じる、とは簡単には言えないケド……任せるわ」
「――はい!」
応じたアビーの目は少し潤んでいたりした。
「お前んとこのメアリー、カッコイイな」
「君のところのルビアも相当だと思いますが」
「オレらも」「はい、負けていられませんね」
御者台からも何か仲の良さげな会話が漏れ聞こえたりしたが。
「見えた!」そう、叫んだのは誰だったか。
「なんだ、あれは……」
呆然と呟いたのは、スピネルだ。
馬車の窓からも、もうその全容が見えていた。
……いや、『全容』と形容するのは正確ではないか。見えているのは上部だけで、下部は街並みに隠れて見えない。
それは、龍に似た何かだった。
或いは龍に似せようとした何か、だろうか。
質感は、魔霊のそれに似通っていた。いつぞやの、不定形な、白濁した――今回は黒ではなく白だった――靄のような何かが、無理矢理に龍のような形を取ろうとしている。けれど、無理矢理だから形状が安定せず、動くたびにあちらこちらが崩れては、また龍を模ろうと蠢く。
そんな、ひどく不安と嫌悪感を誘うナニカであった。
「……魔霊、ということになるのでしょうね、分類上は」
ルビアのつぶやきは、スピネルへの返答というよりは、自身の考えをまとめるための独り言であったように思う。
明確な実体を得たモノを精獣、魔獣と呼ぶのであれば、なるほどアレは魔獣未満のモノだ。街の一区画に匹敵するほどの巨大さであろうと、その定義に従うのならばそうなる。
「あんなサイズの魔霊がいるの!?」
ルッチの叫びは悲鳴じみて。いや、答えられる者の居ない問いは悲鳴でしかないのかもしれない。実際、ルビアの発言は答えになってはいなかった。
「私とアル君の先生が言っていました。ひとに宿る精霊は、ひとの想いに反応する……何十、ことによれば何百の死者の想いが重なれば、ああいうモノにも成り得るのかもしれない。
――実験なんて、する気にもなれないですけど、ね。」
此処は奴隷商の元締めの街だ。恨みつらみは人体が埋もれるほどに降り積もっていることだろう。
「もしその仮説が正しければ、完全に自業自得ですね。それでも、助けに向かいますか?」
こちらはルッチとは対照的に、静かな口調でアビーが念を押す。
「今更迷うくらいなら、最初から来ちゃいねぇよ」
言葉の通り、アルには微塵の迷いも無かった。
見上げる龍もどきには、散発的に火やら風やら氷やら、それに弓などの遠隔武器での攻撃が加えられているようだが、とてもではないが有効打になっているようには見えない。刹那の揺らぎを与えるだけで、下手をしなくても、そのマガイモノの龍、それ自体が動いたときの方が大きく形が崩れている。
「スピネル!」
名を呼ばれただけで求められていることを察したスピネルが手綱を受け取る。
立ち上がったアルが、がたがたと不安定に揺れる御者台から飛び降り――それを攫うように、大きさを増した紅蓮が駆け抜けた。轟、とひと声吠える、その力強さは、決してあの龍もどきにも負けてはいなかった。
「全力でぶちかます!」
紅蓮の背で、アルもまた咆哮する。
まだ距離はあるが、視界内なら彼は届かせるだろう。
『紅、其は爆火の色彩 弾け、爆ぜ、総てを討ち祓いたもう
爆炎よ、紅蓮の劫火よ、我が敵を消し飛ばせ! 紅爆滅っ!』
それは、一般的に知られる火炎の術の最高峰。およそ15の子どもに扱えるようなものではなかったし、そもそも詠唱が短すぎる。これもまた、アル用に編纂された術式だった。そこから更に魔霊用のアレンジがなされていることまでは、さすがにルビアも気づいていなかったが。
ちょっとした屋敷くらいなら一撃で吹き飛ばせるだけの爆炎が、轟音と共に龍もどきの首元で炸裂した。龍を模倣する魔霊の首が、まるで剣で斬り落とされたかのように、大きくズレた。
おぉ、と感嘆の吐息が、誰とも知れず漏れだして。
それはすぐに、恐怖にひきつるように呑まれることとなる。
龍が、それに似て非なるナニカが、はっきりとこちらを視ていた。首はというと、四半分ズレた程度で中途半端に止まり、おぞましく蠢きながら、ゆっくりと元の場所に戻ろうとしている。
チッ、とアルが舌を打つ。
「これでもダメかよ」
意識を、敵意を、重さすら感じられそうな濃度のそれを、はっきりとこちらへと向けた模造龍は、哮っ、とひと声咆えた。
死者の魂の集合体、などと先ほど考えてしまったせいだろうか。身を竦ませるその恐ろし気な咆哮が、ルビアには哭いているように聴こえた。
連・日・更・新! 今月中にもうひとつ、と思って頑張りました。
予告のサブタイ、最初につけたのは若干ネタバレ気味だったので、すぐに直したんですが、それでもしっくりこなかったので、今ついてるのは第三案だったりします。
バトル回と言いつつ口火を切ったところで終わっちゃいましたが、まぁウチではよくある話ですね(開き直り)
次で決着がつくはずです。たぶん、きっと、そうだといーなー。一応長引く覚悟はしておきましょうかね、うん。
では次回「葬送の熾」(仮)お楽しみに。