第62話 予期せぬ再会
翠玉の月になった。
畜産実験も成功し、ルナもとりあえずは感情を暴走させることなく過ごしている。大きな事件は何もない、平穏な日常……いつの間にか、ハルにとっても此処での暮らしが『日常』と呼べるものになっていた。
時折ニクスに付き合わされて、くたくたになるまで駆けまわるはめになったりするのも、まぁ、日常のアクセントとして受け入れ……たくは無かったが。できることならそういうのは元気なひと同士でやってほしいと思うハルであった。
実はそう仕向けているのはシグルヴェインだったりするのだが。ある程度は体を鍛えるようにと、いくら言ってものらりくらりと躱してしまうハルに、最低限の運動をさせるための一計である。
サニーと夕顔との『デート』以降、アニーが何度も何かを言いたそうにしていたが、ハルは特に促すでもなく放置していた。全員との自己紹介という義務はもう果たしているので、後のことは皆が好きなようにすれば良いと思っている。
此処の皆のことは――自分を嫌っている様子のサラも含めて――嫌いではなかったが、積極的に誰かとの距離を詰める意図はハルには無い。
「まおくんって、意外といぢわるっすよね?」
サニーにはそんなふうに言われたが、別に悪意があるわけでは無い。特に好意も無いというだけで。彼女の言葉を借りるなら、柔らかい壁が全周囲にある、ということだろう。それを壊す意思も越える意思もハルにはないので、努力はその意思がある者の側で行うべきだと思う。
ハルの友人ふたり、アルは一撃で跡形も無く壊してしまったし、ルビアはずっと越える努力をしてくれていたのだから。
――だから。
ルビアにすらしなかったことを、ただの被保護者に対して行うなど、論外だ。
そして商人との定期取引、その前日になった。
今までは遠見の魔女に加え、サラとシグルヴェインという戦闘要員のみで出向いていたそうだ。フロルは森を出るまでだけ同行し、帰りは出迎えに来る形をとっていたのだという。まぁ、妥当な判断だろう。
「――それで、私は今回も留守番ですか」
魔女の代わりは後継者であるハルが出向くべきだと言ったサラは、不満そうに口にした。不満ではあっても、自分からそう言ったということは、納得はしているということだろうが……
「いえ。商人の相手をするのなら、同行者はサラさんの方が適任でしょう。此処の護りにはシグルヴェインさんと、白鴉を残しましょう」
侍獣を残して行けば、此処の状況把握は容易い。いざという時は『跳んで』戻ることも可能だ。ハルが魔法を使うことになるが、魔女に託された楽園を護るためであれば、躊躇は無い。
「陛下。それだと前衛が居ないよ。ボクを置いてくのは却下」
今回はもうひとりの護衛に反対された。
「いえ、私の方はなんとでもなるので、此処を護ってください」
「陛下はおばあちゃんがやっと見つけたボクらの王様だよ、前衛の護衛は必須。これは譲れない。ボクがダメならせめて白鴉は連れてって」
「白鴉はもっと連れてけませんよ。サラさんか白鴉、どちらかが残るのは絶対条件です。この楽園は私が魔女から託された場所なんですから」
ならボクが、いやそれだと戦力比が……などと平行線になった議論に最適解を出したのは、意外な人物であった。
「――じゃあママは?」
ニクスが言った瞬間、それまで一切存在が感じられなかった巨大な黒豹がのそりとその身を起こした。言われてみれば、その存在が誰の口からも出なかったことが意外ですらあった。
隠形に特化した影の侍獣は、隠密行動に適任であるのみならず、その体躯からしてサラの白鴉よりも前衛向きである。
ついでに言えば、背に乗って移動もできそうだ。
「では護衛役、お願いできますか?」
ニクスの侍獣に手を差し出せば、掌に額をこすりつけて応じる。なめらかな手触りはひんやりとして、紅蓮のそれとはまた違った感触だった。触り心地の好みで言えば、ハルはこちらの方が好きかもしれない。
「ではニクスさん、貴方のママをお借りしますね」
――どうでも良いが、この呼び名は少々恥ずかしいので、ちゃんとした名前を付けて欲しいものである。
「では今回のメンバーはこれで決定……」
「――わたしも行く」
待ったをかけたのは、またまた意外な人物で。
「カレンさん……護衛対象が増えるのは好ましくないのですが」
これには珍しくサラも同意した。
「戦えない者は不用意に此処を出るべきではない。おばあ様もそう言っていたでしょう」
「じゃあ訊くけど、どんな動物が必要なのかはわかってる?」
問われ、ハルとサラは顔を見合わせる。
「それは……」「牛でしょう?」
「牛にも品種がたくさんあるわね。食肉用、労働用、そして今回必要なミルク用。その用途の中でも更に雑多な種類があるけど、相場はわかる? 商売相手が用意できるものの内、どれが最適か、どの程度であれば妥協できるか、味や値段と相談して、正しい判断が下せるの?」
すらすらと。まるで講義中のハルのように、あるいは物語について語るサクラのように、カレンが鼻息も荒くまくしたて、腰に手を当ててふたりを見据える。
ハルとサラは両手を上げて降参した。
「これは完敗ですね」
「カレンの要求するレベルとなると無理です」
再びふたりは視線を交わし、戦力分析について話し合う。
「護衛対象が増える分に関しては、私も索敵に加わることで対応しましょう。実戦経験は無くとも、眼の良さだけはそれなりなので。相手がこちらに向けている感情まで視通して見せますよ」
「それは良いですね。では打撃力は私にお任せを。相手に悪意があれば、先制し、殲滅してご覧にいれましょう」
「……あんたら実は仲良くないっすか?」
サニーにジト目を向けられて、サラの機嫌が悪くなったことは言うまでもない。仲が良い、とはお世辞にも言えないだろう。
商人との取引は、楽園があるのとはまた別の魔境で行われる。
まぁ、これも当然だ、とハルは納得した。教会の敵を相手に商売をしようと言うのだ、人目に付く場所は論外だろう。精霊の威が濃密過ぎて、侵入できる人間が限られる魔境ならば、最低限の条件は満たされる。
だからこそ注視される、という可能性も無くは無かったが、ひとが安穏と暮らせない程に精霊が濃い場所を魔境と定義するならば、その数は人間の街の数にも匹敵する。その全てを管理するなど不可能……とまでは言わないが、労力に対して得られるものが少ないどころか皆無に近い。
それでも念のため、ハルは常に周囲を警戒していたのだが、あらかじめ魔境の内に伏せているのでもなければ、怪しい存在は発見できなかった。相手がニクスやその侍獣のレベルでもなければ、という前提はつくが。
ひとを乗せられるくらいに大きいとはいえ、黒豹の背に3人は乗れず、ひとりは交代で歩くことになり、疲労はともかく速度を稼ぐことはできず、当初の予定通り途中で一泊する旅程となった。ちなみに一番消耗が激しかったのはハル……ではなく、旅慣れないカレンだった。
二日目はハルとサラだけが交代で歩き、カレンはずっと黒豹の背中だった。本人は最初遠慮したが、料理を作ってもらっていることに加え、護衛の観点からもその方が良いとふたりで説得して納得させた。
事実、カレンが居てくれたおかげでハルは無理に呑み下すような食事を摂らずに済んだのだから、それくらい安いものだった。
予定通り、商人より先に着く。
これは魔境に対するひと側の適正だけでなく、商品の劣化の可能性も考慮したものだった。食材など、こんなところに長く置いておけば、魔境に融けてなくなってしまうのだから。
予定通り半日ほどの後にやって来た商人たちは、ハルを大いに驚愕させた。
荷車を引いているのは、ひとではなく赤茶けた土人形だ。これは特に、驚く程のことではない。多少珍しくはあるが、使っている商人が居ないわけではない。馬ほどの速度は出ないが、霊力だけで駆動可能なのでコストがかからないし、何より馬では魔境に侵入できないから、これに関してはむしろ納得、といったところだ。
「おや、これはこれは」驚きに目を見張ったのもほんの一瞬「予定より随分早い即位ですな、魔王陛下。村で何かありましたかな?」商人は初対面の時と同じように、にこやかに問いかけて来た。
傍らに立つ、戦闘担当の妻は細い目を驚愕に見開いていて、こちらの方がいくらか可愛げがあった。
「ジャスパー=グレン、フリージア=グレン……」
ハルは愕然と、友人の両親の名を呟く。
「……知り合いですか?」
怪訝そうに問いかける、サラに答える余裕すらも無い。
魔女の紹介で住むことになった村に居た商人であれば、魔女と付き合いがあっても、それだけではなんらおかしいところは無い。
――けれど。
ハルは凝視する。商売用の笑顔を張り付けた、詐術士の玉石を。
――いったい、どこからどこまでが遠見の魔女の脚本だ?
サブタイで商人の正体がわかった、というひともいるかもしれませんね。ネタバレで萎える、という意見がどこかから出れば変更するかもです。
ようやくここがつながりました。キャラの使い捨ては好きではないので、アイツとかコイツとかがまた出てくるかもしれません(笑)
次回はまぁ、この続きです。ハガレン一挙があるのでちょっと遅れるかもしれませんが赦してください。