第61話 ある雨の日に
その日、彼がここにきてから初めて、雨が降った。
雨が降れば当然、カサを開く。
時刻はちょうど朝食を終えたくらいで、以前魔女が暮らしていた樹の前に、ほぼ全員が揃っている。前までは『ほぼ』ではなく全員だったのだが、魔王の精霊術教室が始まって以来、昼食に全員を集めているものだから、まずサクラが集中して物語を創る時間が取れなくなると言って、朝は前日に用意されたものをひとりで摂る許可をカレンからもぎ取って、ユウガオもなんやかんやと言い訳をして出て来ないことが多くなった。
今日も、その二人は不在だった。
ちなみに魔王も朝は弱いらしいが、隣で暮らすことになったカレンとルナによって毎日きっちり起こされている。
その魔王がぽかんと口を開けて上空を見遣り、視線を森の管理者へと下ろした。
「……なに?」
「いえ……アレはフロルさんが?」
と、魔王は頭上を指差す。
フロルはカサに目を遣って、「そうだけど、そうでもない。かな?」いささか曖昧な答えを返す。
確かに仕込みをしたのはフロルだが、カサは雨が降り出せば自動的に開くように設定してある。
カサ――即ち、頭上の空を完全に覆い隠すまでに広がった、宿り木の枝葉は、雨が降り出すと同時に急激に成長して雨滴を防ぎ、雨が降りやめば枯れ落ちて種へと戻る。樹木に絡みつくように伸びた蔦が雨どいの役割を果たすので、受け止められた雨粒は幹に沿って流れ落ち、ひとが雨に濡れることは無い。
始めはぱらぱらと。次第に音が連なってさーっと、雨音が奏でる音階に、とん、とん、と異なる音がリズムを刻んだ。確かめるように数回、食卓を指先で叩いたアニーはすぐに立ち上がり、たん、たん、と今度は足で雨音とのハーモニーを奏で始める。
誰しもが口を噤み、少女と雨の二重奏を乱す無粋を避ける。
たっ、たっ、と足音は軽快なステップへと変わり……
歌声が、総ての音を従えた。
圧倒的な存在感。それだけでも充分に美しかった雨音と足音の二重奏は、アニーが歌い始めると、すぐさま彼女に主役を譲り渡し、引き立て役に徹する。
硝子色の髪を舞い踊らせ、少女は歌い、奏でる。踏み鳴らす大地ですら、彼女にかかれば楽器のひとつだ。
静かなメロディーに乗せて歌われる譚詩曲が、世界に染み渡る。余計な雑音でその調和を崩さぬように、息を詰めて耳を傾ける、静謐な時間。
一曲が終わると、万雷の拍手がはじけた。
途端、あらゆる音を暴力的とも言える歌声で従えていた女帝は消え失せて、耳まで赤くしてうつむく人見知りの少女だけが残る。
あっ、と拍手を止めたのは、しかし魔王一人だけで。一曲限りだと知っている皆は、直前までの沈黙を取り戻すかのように、歌い手を讃える。
「久しぶりに聴けたわね、アニーと雨の唄」
「やー、これを聴き逃すなんて、ねぼすけ2人はもったいないことしたっすねー」
気難しいサラですら、これにうんうんと頷いている。
「ちょっとでも雑音が混じるとやめちゃうから、いつも一曲分だけ」
フロルの説明に、魔王はなるほど、と頷いた。
「だから皆息を詰めて、衣擦れの音ひとつ立てなかったんですね」
「ひどい時だと歌の途中で終わる」
「それはひどい」
「しかも即興だから一度しか聴けない」
「そりゃあ、皆息をひそめるわけですね」
歌うこと、それ自体ならアニーは恥ずかしがったりしないのだが、詞を作るのが恥ずかしいらしい。サクラあたりにそれっぽい詞を作っておいてもらってはどうか、と言ったのは誰だったか。
返答はフロルも覚えている。
『雨音は毎回違うから、同じ歌詞では歌えない』
それを正しく理解できた者は、きっとひとりもいなかったが、それでも、雨の日だけの特別だとは理解できた。だから皆、アニーが雨音にリズムを刻み始めると息をひそめる。音楽家の興を削がぬよう、その時限りの即興音楽に耳を澄ます。
ともあれ、今日の音楽会はこれで終わりだ。
「フロルさんフロルさん」
と、魔王がフロルの袖を引いた。逆は良くあるが、彼がこういう態度を取るのは珍しい。フロルが小首を傾げると、魔王は頭上、カサを指差した。
「あーゆーのができるなら、防衛機構では樹がヒト型になって動き出したり?」
……なんだか目が輝いているように見えるのは、きっと気のせいだろう。魔王はいつだって笑っているから。
「――しないよ?」
「しないんですか……」
「樹が動くとか、ヒト型とか、効率悪いし」
「ですよね……」
「やろうと思えばできるだろうけど」
「できるんですか?」
「たたかうのはムリ」
「ですよねー……」
いつものように笑って、少し話の方向を変える。
「あ、でもウチの窓から隣の窓へ、梯子か何か架けることはできます?」
「……梯子?」フロルはきょとん、と首をひねる。
「はい。私の身体能力だと、飛び移るのは少し不安な距離なので」
「――梯子で良いの? 板とか、橋じゃなくて?」
魔王は頭上を――そこにはカサしかないが――見上げ、すぐに視線をフロルに戻すと、大きく頷いた。
「ぜひとも、橋でお願いします。」
そういうことになった。
では早速、ということで、魔王の家へと移動する。何故かその場に居た全員がぞろぞろついてきた。暇なのか。
カレンの飾り文字で『魔王』と表札の掛かった樹を見上げ、完成形を想像し、創造する。フロルがそっと幹に右手を触れると、樹は小さな種を落とした。左手でそれを受け止めて、魔王に渡す。
「窓枠にはめ込む場所を作ったから、そこにはめるだけで橋が架かる」
「……試してみても?」
問われたフロルが頷くと、彼は家に入り、暇人一同が見上げる中、窓を開いた。
「下。」目があった魔王に、フロルが端的に告げる。
すぐに見つけたようで、種子が専用のくぼみにはめ込まれ……橋が生えた。あまり頑丈そうには見えないだろうが、数人程度の重さなら問題無く支えられるはずである。設計通り、腰位の高さの柵もある。
おぉ、と、どよめきは何故か、カサを見慣れているはずの皆からも上がった。
「今更驚く?」呆れ交じりに問えば、
「いやぁ、こういう人工物っぽいのが生えるのは新鮮な驚きで」
サニーがそう言って笑う。
「いったい自分がどこに住んでると思ってるのさ、サニー」
「あー……そーいやそーなんすけどね。アレは生えるとこは見てないっすから」
などとやっていると、頭上の魔王が呼びかけて来た。
「これ、どうやったら戻るんですか?」
「戻らない」時間は巻き戻らないから「そろそろ時間」
その言葉が合図だった、などということはないのだが、即席の橋は枯れ落ちた。残骸の中から種を拾い上げ、魔王に向けて放り投げる。
「わっ、とっ」
それほど勢いが良かったわけでもないのに、何度か摑み損ねた彼は、最終的に……落としてしまったらしい。窓の向こうへ姿を消した。
……これはこちら側に落とさなくて良かった、と思うところだろうか。
なんにせよ、橋に柵をつけておいて良かったと、フロルは心から思った。
そして。持続時間、もう少し長く設定し直した方が良いだろうかと悩んだ。
巨大ヒト型兵器はロマン。ハル君の貴重な年相応の態度でした(ただしルビアちゃんは見られない)
久しぶりにがっつりファンタジーな小道具を出した気がします。
「雨に歌えば」というサブタイ候補もあったんですが、例のシーンが弱くなるのでやめました。
次はアニー回か商人回です。サブタイは未定。