第59話 エメラルダ
「あんなことはもう御免だ」
その言葉が紡がれた時、ぞくりと冷たいものが背筋を走った。
急に声色が変わったとか、目だけが笑っていなかったとか、そういうことはひとつとして無い。あくまで魔王は、いつもと変わらぬ穏やかな口調で、女性めいた面差しにとても綺麗な笑顔を浮かべて、悔恨を語るのだ。
利己的な理由で、最悪の事態を引き起こしたという、その言葉ほどに後悔は無い……などということはあるまい。言葉を選ぶことの重要性を語ったのは、他ならぬ彼なのだから。
こころの中心になる程の自己嫌悪を、自身の内にだけ押し込めて笑う。笑えてしまう。それはひととして、あまりに異常なことだ。
けれど。彼の在り様に恐れを抱いたのはほんの一瞬のことだった。
サニーは知っている。彼と同じように、悪感情も矛盾も総てを呑み下して、皆の前ではいつも穏やかに笑っていた人物がいたことを。
「ねぇまおくん、ちょっと歩きませんか?」
授業後のお茶会も終わって、サニーが誘うと、彼は数回瞬きをした。彼なりの驚きの表現だろうか。この無駄美人はわざとやって見せているとき以外の感情表現が実にわかり難い。
ちなみに今日のお茶菓子はチェリーのタルトだった。カレンのお菓子作りの腕がどんどん上がっている気がする。
「なんだい、デートかい?」本人ではなくサクラが言い、
「そっすよ。サニーちゃんからの、でぇとのお誘いっす」一瞬の動揺すらも無く、流れるようにサニーは答える「ナイショのお話をするんで、誰もついて来ちゃダメっすよ?」
唇の前に人差し指を立て、片目を閉じて見せるという、わざとらしすぎるしぐさに、サクラは苦笑して「キミは本当にからかいがいが無い」とこぼした。
「え、私が行くの決定なんですか?」
などととぼけたことを言った魔王には、「……イヤなんすか?」と、あざとい上目遣いを潤んだ目のオプション付きでプレゼントした。
これには魔王もまた、わざとらしく嫌そうな顔を作って見せて「お供しますよ」と言った。
歌っている時以外はうつむいてばかりのアニーが、両目を隠す前髪越しにじっと視線を向けて来ていたのが印象的だった。他の女の子たち(サラは除く)も、存外気にしている様子だ。
――おぉ。もてるっすねー、まおくんてば。
今後デートに誘われることが増えそうだ、とサニーは完全に他人事として思う。何故かフロストまでが妬まし気に自分を見ていることには、気付かないふりをしておいた。
少年が道を誤らないことを切に願う。
特に決めていたわけではなかったのだが、足は自然と前回と同じ場所に向いた。ほぼ完璧な自給自足ができているとはいえ、お世辞にも広いとは言えない閉じた世界だ、花畑以外で落ち着いて二人で話せる場所となると、家くらいしかない。
さすがに自分の家にいきなり連れ込むいうのは、サニーとしても思うところがあったので、消去法で一択だった。
お気に入りの場所へと向かう道すがら、サニーは言った。
「まおくんって、おばぁちゃんみたいっすね」
「……褒められている、という解釈であってますか、それ?」
彼にしては珍しく、戸惑うような沈黙を挟んで言葉が返される。それでもいつもと同じ綺麗な笑顔だったが、考えてみれば成人男性に向ける比喩では無かったと理解できた。
「あー、此処じゃほとんど最上級の褒め言葉っすから、安心してもらって良いっすよ。それにアタシが言ったのは、心の在り様がウチのおばぁちゃんに似てるって話っすから」
四季の花が香る場所でくるりと振り向いて、サニーは口調を改める。
「前、此処に来る途中に言った『柔らかい壁』の話。あれは楽園の皆のためにやっていることでもある――皆が知るべきではないことを呑み下しているせいだ、と私は思ったのだけれど、違うかしら」
クス、と笑って見遣れば、魔王陛下は黙して語らず、いつものようにとても綺麗に笑って見せた。それが回答だ。否定しない、という肯定。
「遠見の魔女の跡を継ぎ、楽園の護り手となられた偉大なる魔王様、少し、私の昔語りを聞いてくださるかしら?」
軽くスカートを持ち上げて、淑女の礼を。久しくやっていなかった動作ではあるが、体は自然と動いた。
以前サニーはもうちょっと仲良くなってから、と言ったが、あれは少し精確ではない。自分の身の上に関しては、信頼できる相手でなければ語るつもりは無かった。具体的に言うと、魔女以外では初めてだ。
他の皆が信頼に足らないというわけでもないのだが、言ったところで意味が無かったり、余計な気苦労をかけるだけだったりで、言う機会は無かった。
「ソレイユ=エメラルダ=スタインタール。それが私の名前です」
これだけで、わかる者にはいろいろわかる名を告げる。
「エメラルダ……翠玉の女性系ですね。12石のひとつ、それもそのまま用いていないということは貴族の出ですか」
暦に使われる12の石は、明文化されているわけではないが、王侯貴族専用というのが暗黙の了解としてある。一般庶民の12石も探せば居るのかもしれないが、わざわざ女性用に音を柔らかく、などと考えるのは気取った貴族くらいのものだ。
「さすが、博識ですね。ですが、スタインタールの姓はご存知ではない?」
魔王ならば、そこまで知悉しているものかと思ったのだが、とサニーは僅かに落胆するが、彼の返答は期待以上のものであった。
「あいにくと、貴族には興味が無かったもので」
サニーは声を上げて笑った。
このひとにかかっては、公爵家もかたなしだ。体面ばかりを気にする両親が後生大事にしていたものが、興味が無いとばっさり斬り捨てられるのは、思いのほか小気味の良いものだった。
「一応、この国でふたつしかない公爵家ですよ」
涙を拭いなら告げると、魔王は怪訝そうに眉根を寄せた。
「……それなら、貴女を守れたのではないですか?」
「――えぇ。まぁ、そうですね。生まれ持った色彩があっても、誰にも文句を言わせないだけの権力はありましたね。
でも、あのひとたちはあからさまに私を持て余していました。唯一、同い年だった庭師の息子だけがすごいすごいと無邪気な尊敬を向けてくれましたが……あぁ、普段の口調は彼の真似です」
「初恋の相手ですか?」意外な質問が来た。
「あら、嫉妬ですか、まおくん?」
「いえそういうのではないです」と、これは予想通りの返答。
「つれないですねぇ」
軽い口調で道化てみせて、サニーは話を戻す。
強すぎる力は、普通は恐怖の対象にしかならない。そしてサニーの両親は悲しいことに『普通』でしかなかった。サニーも極力、普通を演じようとしてはいたのだが……
ある日の園遊会で、それは起こった。
突如として現れ、両親に襲い掛かろうとした魔霊を、サニーが浄化したのだ。今にして思えば、余計なことはせずに、護衛に任せるべきだったと思うが……とっさに全力を揮ってしまい、魔石すらも浄化されて、精石が残された。
両親が自分を見る目に、隠し切れぬ恐怖を視て取って、サニーは理解した。
もう、家族には戻れないと。
書置きを残して家を出て、魔女に拾われて現在に至る。そう結んだサニーに、魔王はえらくずれたことを訊いた。
「書置きには何と?」
話題を逸らす気遣いだとしたら、あまり逸らせていないし、そこが一番の疑問だったのだとしたらかなり意味不明だ。
とりあえずサニーは、正直に答えた。
『バイバイ』
「……それだけ?」
敬語がなくなると、無駄に美人なこの少年は急に幼い印象になった。あどけない、幼子のような態度は、彼の美貌と相まって天使のようだ……本当に、男の子に対する形容ではないとは思うが。
「シンプルでわかり易いでしょう?
まぁ、そういった出自ですので、火種になる可能性が全くないわけではありません。極めて低い可能性ですが、此処の責任者には知っておいてもらうべきだと思いまして」
「なるほど。私は貴女から、魔女の後継として認められたということですか」
「怒りましたか?」いつものように笑う魔王に、サニーは訊いた。
「……はい? 私が? なににです?」
「今まで完全には認めていなかった、ということですから」
表面上は親し気に振る舞っておきながら、である。裏切られた、と思われても不思議ではない……と、サニーは思ったのだが。
「そんなの当たり前でしょう。むしろ不完全にでも認められたことが驚きでしたし……サラさんに到っては、今も露骨に不服そうですし、ね。それにちゃんと、もうちょっと仲良くなるまで秘密って言ってくれてましたし」
これは器が大きいのか、自己評価が低いのか。
「もうおわかりでしょうが、似た経験、というのは私と家族との関係ですね。ずっと腫れ物に触るような、柔らかい壁がありました。
あぁ、一緒にお芝居でもやらないか、というお誘いは、お断りさせてくださいませ。普段演技をしていることは、皆には秘密にしておきたいので」
サニーがそう言うと、何故か魔王はじっ、とまっすぐに見つめて来た。
「……えっと……言っちゃって良いんですかね……」
などと、珍しく口ごもっていたりする。
「――なんです?」
促せば、なおも言いにくそうに、魔王は口を開く。
「いや……『演技』なんて言いますけど、口調が違うだけでワリと中身はまんまですよね? 書置きの文面といい、私に対する絡み方といい」
予想以上に容赦のない言葉が飛んできた。
「それにどっちかって言うと、今の口調の方が演技っぽいです」
更に追い打ちまで。
――いたたまれない。
本人は一大決心の打ち明け話のつもりだったのに、これでは。
確かに、言われてみれば『貴族らしい振る舞い』などというものは、演技以外の何物でもない。どちらがより自然かと問われれば、答えはおのずから明らかだ。だが、これは、あまりにも。
「うっわぁぁ」
やたらと熱い顔を両手で覆ってうずくまる。きっと耳まで赤いだろうから、隠しきれてはいないのだろうな、とそんなところは無駄に冷静に自覚しながら、サニーはやつあたりを口にする。
「――まおくんなんてキライっす」
ちら、と指の隙間から見上げれば、魔王陛下はそれはそれは素敵な笑顔で答えてくださった。
「私は好きですよ、自分を偽れないサニーさんのこと」
……本当に、この天然タラシはタチが悪い。
一週間をオーバーしてしまいました。どーも最近エンジンのかかりが悪くて……
ちなみにこの子の貴族設定は後から生えて来たものではないですよ。サニー回「日輪草」でやろうとして、先送りになってたお話です。伏線を自分で明かす、というのもなんですが、下手したらアレ、ただの表記ミスだと思われかねないんですよねー。そう思ってた方も多いのではないか、と。
次はアニーのお話になる予定です。