第53話 大掃除(準備編)
宿屋の食堂で解雇通告を受けて、其処に到ってようやく、アビーは気付くことができた。タイガー・アイ帝国での襲撃以降、ルビアがただの一度も、自分を名前で呼んでくれていないことに。
既に見限られていたのだと、そこまでの失態だったのだと今更ながらに気付いて、アビーが感じたのは恐怖だった。自分自身が無価値になる恐怖。ただ、父バイライトの娘というだけの存在に、付属物に成り下がる恐怖は、命が危険にさらされる恐怖に勝った。
――それは、魂を失う恐怖だったから。
謝罪し、条件付きで赦されて、首の皮一枚で繋がる。早速承認を得るために早馬を……と、外に向かおうとしたところで、どうにか気付けた。
「アル様、スピネル様、その節はご迷惑をおかけしました」
仕事の邪魔をしてしまった二人に、アビーは深々と頭を下げる。
「アル『様』はかんべんしてくれ」との、どこかずれた返答に、
「ではアルさん?」訂正すれば、
「……こそばゆいから敬称は無しで頼む」
彼の苦り切った表情、というのも珍しい。
「わかりました、アル。それが貴方のお望みでしたら」
「それとな、お前の不始末を片付けたのはルビアだ。アイツが納得したんなら、オレから言うことなんてねーよ」
「まぁ、そうですね。今後荒事は僕とアルにだけ任せてもらえると助かります。あぁ、それと僕は『さん』くらいにしておいてください」
アルに続けてスピネルが言って、アビーはルビアに言われたことをようやく正しく理解できた。なるほど、この二人はひととして自分よりも優れていると。
だから、アビーは正直に伝える。
「それとは別に、もうひとつ謝らなくてはなりません。アル、スピネルさん、私は貴方たちふたりのことが怖い。すみませんが、当分は接し方がぎこちなくなることをお赦しください」
今一度、深く頭を下げたアビーに、答えを返したのはスピネルの方だった。
「まぁ、平和に暮らしていたひとにとっては、当然の反応だと思いますよ」
アルは無言で肩を竦めて同意したが、メアリーには不満そうに睨まれた。
「それでは、私は早速早馬を、」そう言いかけたところで、
「いえ。お客さんのようです」ルビアが遮って言った。
彼女の視線の先から、鮮烈な赤い髪の男が歩み来る。
どこかアビーの記憶に引っかかるその男は、印象に残る髪色以外は様々な意味で中途半端だった。
青年と呼ぶには年かさだが、中年と呼ぶには若すぎる。
紳士と呼ぶには粗雑だが、一般人にしては所作が洗練されている。
けれどアビーが見覚えがあると思うのは、髪色でも奇妙なアンバランスさでもなく、単純にその顔だった。商人として他人の顔を覚えるのは得意なのだが……この街の、何処で会ったのだったか。表情には出さずに、アビーが記憶を探っていると、ルビアから答えが与えられた。
「先程はお世話になりました」
という、ルビアの言葉で、どこかで見た気がする男と、国境でルビアが言葉を交わした門衛が繋がる。なるほど、気付けないわけだ。鎧は兵士の顔も同然、一度会った程度の相手では、平服だとすぐにはそれとわからない。
アルとスピネルの表情に疑問が無いのは、戦う者として身のこなしで判断できたのか。メアリーが泰然としているのに少し驚きつつ、ただひとり良くわかっていない様子のルッチに、アビーは耳打ちして教えた。
助けた被害者一行は、此処よりはランクの下がる宿で休んでいる。
加害者はというと、まさに今やってきた門衛に引き渡し済みである。
「少し内密な話をしたい。ご協力願えるだろうか」
帯剣もしておらず、一目ではそれとわからない門衛が言い、
「二階の左側、一番奥の部屋です。飲み物を用意してから向かうので、先に入っていてください。何が良いですか?」
ルビアが彼に鍵を放った。
部屋は二人ずつ三部屋取ってあり、今鍵を渡したルビアとメアリーの部屋を中心に、隣がアルとスピネルで、通路を挟んだ向かいがルッチとアビーの部屋である。
鍵を受け取ったやや細身の門衛が苦笑した。
「最初の質問は決まったな。君はいったい何者だ?」
「通りすがりの恋する乙女です」
ルビアの即答をごまかしと取ったのだろう、門衛は投げやりに「酒でなければ何でも良い」と先の質問に答えて二階へ向かった。アビーも最初聞いた時は冗談かと思ったものだが、恐ろしいことにルビアはこれを本気で言っている。
門衛が部屋に入るのを待って、ルビアが言った。
「さて。相手は仮にも戦闘の専門職です。たぶん大丈夫だと思いますが、いざという時はお願いしますね、アル君」
「は? おいおい、相手はアゲート王国の兵士だろ?」
「兵士だろうと騎士だろうと敵になり得ますよ。知ってるでしょう?」
ルビアの言葉で、アルの顔つきが変わる。アビーの知らない、二人の間だけで通じる何かなのだろう、他の三人も怪訝そうにしているが、特に説明することなく、ルビアは席を立つ。
「ではアビー、お勉強の時間です。しっかり学んでください」
「……はい、先生」
アビー、と。そう呼ばれた喜びからか、思わずそう答えていた。ルビアは当然のごとく、嫌そうな顔をする。
「先生はやめなさい。まったく、そんなところまで父に似なくて良いです」
ルッチに飲み物を頼んで、アルを伴って階段を上がっていくルビアを追いかけつつ、アビーは訊いた。自分は父に似ているのか、と。
「全てを失う寸前で間違いを認め、年下の相手にも教えを乞うことができる――貴女は間違いなくバイライトの娘ですよ、アビー」
――あぁ。これで先生ではない、などと言われても。
声には出さず、笑みだけで答えて。アビーは師の後に続いた。
2脚ある椅子には門衛の男とルビアが向かい合って座り、メアリーとルッチは奥のベッドに腰掛けて、その傍らにはスピネルが立つ。アルはルビアの隣に、アビーは背後にそれぞれ立っていて、紅蓮はいつの間にかルビアの足下に居た。
ルッチが運んできたコップの中身(ミルク)に、男はそれはそれは微妙な表情をしたが、何でも良いと言った手前文句も言えず、黙って一口だけ飲んだ。
……まぁ、いい年をした男がミルクというのもなんである。嫌がらせか何かか、とアビーに視線を流せば、美味しそうにミルクを飲んでいて、単に自分が好きなものを頼んだだけだと知れた。
「まずは名乗っておこう。私は国境の護りに就いている、スピネルという者だ」
男の言葉に、全員の目がこちらのスピネルへと向けられる。
「……あー、まぁ、兵士職には良くある名前ですよね。私のことはルビアと呼んでください。他の皆も紹介しますか?」
答えたルビアに、門衛の方のスピネルはかぶりを振った。
「いや、とりあえず今はいい。それよりも先に確認したいことがあるのでな。
ルビア、君は何故あの男が怪しいと思った?」
あの男、というのが誰を指すのかは全員が理解できただろう。アビーにいちいち絡んで来たあの男について、国境でルビアはこのスピネルに尋ね、他人を見下しがちだという返答を得ると、彼に言ったのだ。
『あのひとの身辺調査をすることをお勧めします』と。
「あぁ、やっぱり既に内偵中でしたか。国境を守護する方たちが優秀なようで何よりですが……これは、余計なことを言ってしまいましたかね?」
どうやら、ルビアにだけ見えている『何か』があるらしい。
「いや、それに関しては問題無い。あの時一緒に居た者も知っていることなのでな。それよりも、質問に答えてもらえるか?」
こちら側の皆もその疑問は同じだった。視線での問いに、ルビアが答える。
「まず最初に、奴隷商の馬車を見た時の反応です」
「――えっと……ただびっくりしてただけに見えたけど?」ルッチが首をひねる。
「そうですね、とても驚いていました」
ルビアはそう言って頷いたが、まだアビーには師の言わんとすることがわからない。全員を代表して、彼女は問いを重ねた。
「ほんの数日で馬車が一台増えて帰って来たとあっては、驚くのも当然ではありませんか?」
ルビアはこともなげに答える。
「そうですね、それだけの可能性もあったので、確認のために言いました。奴隷商を返り討ちにして、その馬車の中に捕らえてある、と。そう私が言った時の反応を覚えているひとは居ますか?」
結論から言うと、誰一人として居なかった。ひとを観察するのが仕事のひとつでもあるアビーですら、反応は印象に残っていない。
けれど、それこそがルビアの求める答えであった。
「おかしいですよね? どうして、なんの変哲もない馬車が一台増えていたことよりも、奴隷商を返り討ちにした話に驚かなかったのでしょう?」
驚愕に目を見開いたのは、アビーひとりではなかった。
言われてみれば、理解することは容易い。けれど何かが有ることではななく、無いことに疑問を抱くのは容易にできることではない。いったい、この少女には世界はどう見えているのだろうか。
「ついでに言うと、良く観察していれば、怯えを表に出すまいとして抑えているのが分かったと思いますよ。さらにもうひとつ、付け加えるなら、交代した後、相方に比べて随分速足でしたし。まるで逃げ出すかのように、ね」
軽く片目を閉じて見せたルビアに、門衛は一瞬、言葉が出ない様子だった。
「……本当に、驚きだ。
今度はごまかさずに答えてもらおう。君は、何者だ?」
兵士の鋭い視線が注がれるも、ルビアは柳に風と受け流す。
「――いや、本当に何者ってほどの者ではないんですが。ちょっと変わった生まれを持っていて、かなり相当めちゃくちゃ変わった先生に教わっただけの、ただの田舎者ですよ?」
「……とんでもない師を持ったということだけはわかった」
門衛は諦めたようにため息をついた。
「それで、私は何か手伝った方が良いですか? それとも、何もしない方が安心ですか? 私はどちらでも良いですけど」
それが本題でしょう? と、ルビアはとても綺麗に微笑んだ。
「……正直に言おう、君は得体が知れなさ過ぎる。その若さでその観察眼など、常軌を逸しているとすら言える。今回の奴隷商捕縛や人命救助に関しても、どんな深慮遠謀が隠されていようと、私程度の頭では理解することができないだろう」
「お留守番の方ですか」
軽く言ったルビアの言葉から、彼女の感情は読み取れない。関わらせてもらえなかった落胆か、関わらずに済んだ安堵か、或いは先程自身で告げたように、どうでも良いと思っているのか。
「いいや」言って男は野太く笑った「わかんねぇことは考えるだけ無駄だ。向いてねぇことするのはやめて、オレらしくいくことにするさ。
この街の大掃除がしたい。手伝ってくれ」
態度ががらりと変わった男に、ルビアは目を瞬いた。
「……驚きました。あそこまで考え至って、なお私を使いますか」
「有能なのは確実だろ?」
にっ、と笑う男は、先程までよりあけすけに見えて、けれど先ほどまでとは比べ物にならないほどの食わせ者に見えた。
「有能な敵かも、と思って試していたのでしょう? なのに何故?」
「――カンだ」
……ついさっきまでは頭の良さそうなやり取りをしていたというのに、この本能だけで生きている感じは何なのだろうか。アビーはポカンと口を開けてしまう。
「お嬢ちゃんは悪いヤツじゃない。そう思ったオレの直感を信じたのさ」
「……地獄への路は善意で舗装されているそうですよ?」
ため息にも似た言葉を吐いたルビアを、男は「照れんなよ」と豪快に笑い飛ばした。それに対し、ルビアは本当にため息をついた。
「仕方ありません。ウィル君のようにはいきませんが、私も自分の眼を信じるとしましょう。貴方は奴隷売買などに関わるようには視えませんから」
咳払いをひとつして、段取りを決めるか、と言った男の顔を「照れてます?」と覗き込むルビアは、確実に先程の意趣返しをしている。
……なんというか、頭が良いのか悪いのか、ひとが良いのか悪いのか、よくわからない二人だった。
こうして。ルビア以下6名――と言ってもルビアと護衛二人以外はおまけみたいなものだが――は、国境の街の大掃除を手伝うことになったのである。
まさか準備だけで一話終わるとは……予想通りですね! いや、うん、ごめん。つい。
そんなわけで新鮮なルビア劇場をお届け。次こそお掃除回です。影も形も無かった術式編纂者に出番があるのかは不明。