第37話 契約
蒼紅サイド前回までのあらすじ
壊れた(壊した?)馬車の新調に、手持ちの約9割を吐き出した
ルッチの一人勝ち
街を出る前に、ルチル工房で正式な契約を結ぶ。
まず第一段階として、ルチルの父が書面に起こした契約内容を読み上げた。
「当ルチル工房は馬車の対価として、以下のものを請求するものとする。
ひとつ、既に支払い済みの一千万ジェム。
ひとつ、実用に耐えなくなった展示用の馬車。
ひとつ、都合三台分の馬車の内装絵」
と、そこまでで言葉を止め、契約書をこちらに差し出そうとするので、試されているのか、と眉を顰めつつ、ルビアは人差し指を立てて言った。
「追記。猶、一台と五分の二の内装絵は既に納品済みのものとする」
素で驚いた顔をした工房主が、やや慌てた様子で契約書の余白にルビアが指摘した追記事項を書き足す。この追記のための余白は、必ず数行分残されているが、あまりに不備が多く書き切れない場合は新しい契約書を用意することとなり、そんな未熟な契約書しか準備できなかった者は『再提出』などと呼ばれて大いに侮られることとなる。
一文を書き足した工房主は、こわごわとルビアを窺った。あと一文程度ならば追記するスペースもあるが、それだと互いの署名が同じ行になってしまい、『連名』と呼ばれるこれもまた、無能さの証明とされる書式である。
ルビアが頷くと、工房主はあからさまにホッとした様子で契約書を反転させた。
これが演技だとしたら大したものだが……おそらくそうではないだろう。職人たちの中では商人寄りのようだが、純粋な商人の相手をするにはまだまだ甘い。
と、この心の声を聞いたものがいたとして、ルビアが無自覚に自身を『純粋な商人』に含めてしまっていることを指摘したなら、彼女は涙目で頭を抱えただろうが、幸か不幸か、そんな魔法が使える者はこの場には居なかった。
「――はい?」
次の瞬間、いささか間の抜けた声がルビアの口から漏れた。
工房主が購入者の署名のために反転させた契約書が、何故か立会人に過ぎない自分に差し出されたからだ。
眉根を寄せてメアリーを見遣れば、きょとんとした顔で小首を傾げられた。コイツはダメだ、とスピネルに視線を転じれば、ソイツにまで良くわかっていない顔で数回瞬きをされた。
――お説教確定。
ルビアは聞こえよがしにため息をついて、契約書に不備が無いか確認する。これは本来、購入者であるメアリー、ないしその代理人としてスピネルがやるべきことだ。あらかじめ頼まれていたのであれば文句もなかったが、この態度はおそらく、契約の作法自体を知らない。
契約書に不備は――少なくともメアリーの側に不利となるものは――先程追記させたもの以外には無かったので、ルビアは書面の末尾に『以上』の文字を書きこんで、メアリーに回した。
「えっと……」
メアリーが視線でルビアに問いかける。本当に契約の作法を知らないらしい。フォローに入らないところを見ると、スピネルも、だ。貧乏貴族、などと当のメアリーが言っていたが、ルビアに言わせれば、貧しいならなおのこと契約関連はしっかりしないとダメだ。
メアリーには後で実家に手紙を送らせるとして、今は必要なことを伝える。
「今日の日付とサインを」
金剛石の月5日、と日付を入れたところでメアリーの手が止まる。
「あ。」
考えてみれば、メアリーゴールドだとか、キャッスルトンだとか、気軽にできるサインではない。僕が代わりに、とスピネルが署名をした。
した、だけで動こうとしないスピネルの代わりに、ルビアが契約書を工房主へと返す。最後に彼の署名を入れて、宣誓をして契約完了だ。
「ルチル工房工房主である私、スティール=ミモザ=オレンジバレーは、この名と精霊に誓って、この契約書の内容を履行するものとする」
右手は自身の心臓の位置に、左手は書き上げた契約書の上に置いて、誓いを立てる。自らの名と精霊に対する誓いは、決して破ることができない……と、いうわけでもないが、破れば単に嘘をつくよりも遥かに劇的に『濁る』こととなる。精霊術はほぼ使えなくなるものと考えて良いだろう。だから今回のように大金が動く場合や、貴族同士の取り決めの際に行われることなのだが……何故、親が元貴族というだけのルビアが知っていて、現役貴族とその従者が知らないのか。
「スピネル君、購入者としての宣誓を」
当然、この後の流れも知らないであろう、未熟な貴族の従者をルビアが促す。
「馬車の購入者である僕、スピネル=ヘリオトロープ=ジエルは、この名と精霊に誓って、この契約書の内容を履行するものとする」
見よう見まねのしぐさで、言葉に詰まることなく言い切ったのは褒めてやっても良いかもしれないが、正式契約に『僕』はいただけない。お説教の内容がまた増えた、とルビアは再度ため息をつくのだった。
「これでおしまい?」
と、ひとごとの口調で訊いてくるルッチにもお説教が必要だろうか、などと思いつつ、ルビアはウィルムハルト譲りの笑顔を工房主に向けた。
「さて、これで契約は正式に結ばれました。
ところで、納期に関する記述が一切ありませね。これでは、いつか、そのうち、気が向いた時にでも作ろう、と思ってさえいれば契約違反にはなりませんが……良かったのですか?」
「ちょっ……!」さすがにルッチも青ざめる。
「いえいえ、そんな詐欺まがいのことをするつもりはありませんが……それができるような穴がこの契約書にはあったと、善意から指摘してるだけですよ?
あと、ついでに言うと馬車のサイズも記載されていませんので、模型を作っても契約は履行できますね」
にっこり笑うルビアの傍らで、「悪魔だ」「悪魔だな」「悪魔ですね」などと、連れの三人が見事に意見を一致させていた。
「失礼ですね。悪魔ならわざわざ教えたりせずに実行しますよ。
そもそも契約書というものは、曖昧さを排除するために作成するんですよ? 共通認識をきちんと明文化しないような穴だらけの契約書なんて、どうぞつけこんでくださいと言っているようなものじゃないですか」
工房主親子の諍いの時には、むしろこちらに好意的ですらあった職人たちが、嫌悪感を隠そうともせずにルビアを睨み付けて来る。騙したわけでもないのに、とルビアは内心苦笑した。
「――んで? ルビアはそこにつけこむのか?」
それなりに付き合いの長いアルが、肩を竦めてそう訊いてくる。
「私はそこまで下品じゃないですよ」
気軽に答えるのに、職人たちがあからさまにホッとした顔になる。かろうじて無表情を取り繕えているだけ、工房主はまだマシだが、こんな調子では商人には良いように足下を見られるだろう。そう思ったルビアは、ひとつ教訓話をしてやることにする。
「先にこちらを騙そうとした相手であれば、容赦はしませんが。品の無い商人は、どこまでも職人からむしり取ろうとしますからね」
「……お前、何やったの?」アルが合の手を入れてくれる。
「父の作った刻印石を安く買いたたいてくれた商人が居たので。
契約書の書き直しが必要になる分だけの不備を小出しに指摘して、三枚目を書かせたんですけどね……」
「どうなった?」立ち直りも早く、ルッチが先を促した。
「泣きながら謝られました」いや、あの時は驚きました、と苦笑して「大の大人がボロボロ泣きながら子どもの私に頭を下げるものだから、逆に疑わしくなって言いました『次も問題があればまた書き直してもらいますからね?』と。
別に脅したつもりはなかったんですが、呆れるほどの好条件が示されましたよ。本当に、不必要なまでの譲歩でした」
知識の増えた今のルビアであれば、わからないでもない反応だが。
「つまり相手がこちらを騙そうとしているのであれば、それこそが付け入る隙になる、ということです。工房主さんは、頑張ってくださいね」
「それで、善意あるお客人は、どんな誠意を要求するんだ?」
それなりに見込みのありそうな工房主が問うた。
「ささやかなお願いですよ。私が支払った精石と刻印石を、一週間ほど貸してください。その利息分と送料が授業料です」
ルビアの返答に、工房主はきょとんとして、そんなもんで良いのか? と訊いてきた。
「そちらとしては大した出費では無いでしょう? けれどそれを現金代わりに支払うのは、私にとっては大損害なんですよ。刻印石はともかく、加工前の精石は」
「……驚いたな、アンタ、その若さでいっぱしの刻印師か」
「良い道具を使ってますから」
規格外を通り越して反則級の道具なのだが、メアリーたちにすら明かしていないことを、ただの商談相手には教えられない。
「でもルビア、一週間で良いの?」
メアリーがルビアの右手を気遣わし気に見た。
「さすがに一月以上だと送るのも大変になりますから。前払いで刻印石を買ってくれそうな、個人的なツテを頼ります。
――正直、できれば頼りたくない相手でしたが」
「お前がそこまで言う相手か……」
ルビアが苦い顔をすれば、どんな想像をしたのか、アルが難しい顔をする。メアリーとスピネルも、心配そうな視線を向けて来が、ルビアは多くを語らなかった。
どうせ、すぐにわかることだ。
Q.これってなんのお話だっけ?
A.少なくとも商売の話ではねーよ。
えぇと……なんかすさまじく話が逸れた感ありますが、これも世界観の掘り下げだと思ってひとつ!
ギリ一週間でしたが、次はもうちょっと早くお届けできるよう頑張ります。
次回「先生」(仮)お楽しみに。