第6話・再開発区
貴史は、じんわりと肌に張り付く汗で目が覚めた。
外ではセミが激しく鳴いている。
見慣れない天井を見渡して、寝惚け眼をこすって欠伸を一つしたところで、ようやく現状を理解した。
「あぁ、帰ってきてたんだっけか」
昨夜、あかりや春香や森が、仕事や門限を理由に帰路についたあと、青山食堂で日付が変わっても慎二と二人で飲んでいた。
貴史は飲みながら、慎二と美香保に「幾野を見なかったか?」と、会話のついでに尋ねて見たが、芳しい成果は得られなかった。それに、酔っていたので、もうすでに記憶が怪しい。
そして「飲酒運転はするな」と美香保に釘を刺され、雨の中千鳥足で旅館に帰って……そのまま倒れこむように寝てしまったのだ。
「変な体勢で寝てしまった……」
布団から這い出して、軋む腕を回したり腰を捻ったりしながら洗面所に向かい、顔をバシャバシャと洗う。
朝ごはんを食べようと思い立ち、ふと部屋に掛かってある時計を見ると、時刻は十時を指していた。
「もうすぐ昼飯の時間じゃねぇか」
ちょっと寝すぎたなと呆れて呟く。
ぼやきはそれまでにして思考を切り替えると、さっさと皺になった服を脱ぎ捨て着替えた。
何度目かの欠伸をしながら部屋を出て、寒すぎない緩い冷房の効いた館内を歩きフロントに向かうと、貴史と同じように欠伸をするあかりがいた。
「おはよう貴史。随分遅い起床ね」
貴史に気づいた彼女は、欠伸を噛み殺して笑顔で挨拶を交わす。
「おはよう。あかりも眠たそうだが?」
「旅館の朝は早いのよ。宿泊客は相変わらず少ないけどね」
苦笑して、貴史の差し出した客室キーを受け取るあかりに、貴史は尋ねた。
「じゃあどうして、こんなところに?」
「もう少しで、松塚さんが来るのよ。出迎えが必要でしょ」
「へぇ、それはまた珍しい人が帰ってきたな」
松塚という名前を聞いて、貴史は意外そうに驚いた。
松塚萩。
貴史が知っている彼の情報といえば、磐舟村出身の府議会議員ということくらいだろうか。
続けて貴史はあかりに言う。
「だったら欠伸なんてしている暇ないんじゃないのか?」
「バカにしないでよ。お客さんの前で欠伸なんてしたりしないわ」
貴史の意地悪に、あかりは心外だと笑って答える。
「一応、俺も客なんだが?」
「あんたは別よ」
そんな取り留めもない話をしていると、旅館の外で車の止まる音がした。
それを聞くなりあかりは駆け足で玄関口へと向かい、車を降りてきた人物に、先程までとは打って変わってはつらつと挨拶する。
「いらっしゃいませ!」
見とれるほどの営業スマイルで彼女が迎え入れたのは、噂の松塚議員であった。
白髪の混じった頭髪と、シャープなメガネが特徴的な彼は、爽やかな笑顔で挨拶を返すと、すぐに本題を切り出した。
「あかりさん、久しぶりだな。早速ですまないが、仕事の話に入りたい。委員会の関係者は揃っているか?」
松塚の手荷物を受け取りながら話を聞いていたあかりは、困った顔で答える。
「すいません。まだ森委員長と村長しか来ていなくて……」
「ふむ、寺社長はまだ来ていないのか。まぁ、まだ予定の時刻には時間があるから、ゆっくりと待つ事にしよう」
顎に手を当てて少し検討した松塚議員だったが、ふと肩の力を抜いて結論を出した。
もしかしたら、忙しいスケジュールに僅かな暇を見つけて落ち着いているのかもしれないと、貴史は勝手に想像する。
「ではご案内いたします」
あかりの案内で、松塚議員は貴史の横を通り過ぎていく。
貴史が彼らの行く先を目で追ってみると、やはり昨日と同じ大広間だった。森や村長も来ているということは、今日も連日の打ち合わせが行われるのだろう。
「では、寺社長がお見えしだいお連れいたします」
松塚を案内し終えたあかりはふすまを閉めると、フロントで待ちぼうけを食っていた貴史の元に帰ってきた。
貴史は、ふと感じた疑問を口にする。
「松塚さんが、七夕祭になにか関係があるのか?」
「えぇ、勿論よ。松塚さんは、今回の七夕祭だけでなく、磐舟村の祭の予算を捻出してくれている出資者の一人なの。彼のおかげで、大きなお祭りが開催できているといっても過言ではないわね」
スラスラと答えるあかりは、自分の手柄でもないのに妙にドヤ顔だった。
彼女曰く「隆太兄さんや寺社長が七夕祭の準備に熱心なのは、彼に村が活気づくように激励されたことも一因にあるらしいわ」とのことだった。
松塚議員も、七夕祭に欠かせない人物であるようだ。
*
なかなか旅館に現れない寺社長を「これ以上待っていなくてもいい」と、あかりの母親の洋子さんに言われた貴史とあかりは、フロントを洋子さんに任せて外を歩いていた。
昨日の雨で中断していた短冊の作業を、先に片付けてしまおうというあかりの提案が発端である。今はその前に春香を誘いに向かっている途中だ。
幸いにも外は雲ひとつ無い快晴で、道端の草木から垂れる雫がキラキラと輝いている。
しかし、神社までまっすぐ伸びる川は、堤防のギリギリまで勢いのいい濁流に飲まれていた。川から引いた田畑の水路の水も溢れかえっている。
「大変なことになっているな」
貴史は思ったことをそのまま呟いた。
どうやらあかりも同じことを考えていたようで、深い水たまりを避けながら頷く。
「そうね。それぐらい激しい雨だったってことかもね」
「だけど昨日くらいの雨なら珍しいもんでも無いのに、ここまで川が増水しているのは初めて見たぞ」
「それもそうかもね」
彼女は一人で納得し、対岸の方を見る。
「ん? どういうことだ?」
対岸は北の新興住宅街が軒を連ねる『新甘草区』が広がっているばかり。新興住宅が建設されだしたのは、ここ一年か二年のことでまだ目新しいが、それ以上の感慨は貴史にない。
「新甘草区もそうだけど、私が言いたいのはもっと奥。あんたが帰ってくるのに使った高速道路があるでしょう? あれが出来たおかげで、上流の方の川の流れがちょっと変わったらしいのよ」
「なるほど。元あった流路が変わったから増水しやすくなっているのか」
「悪く思わないで。高速道路や新興住宅の開発を担った松塚さんも、そのことはちゃんと考えていたみたいで、その分堤防は補強されたのよ」
貴史の脳裏に、高速道路が出来る前、高速道路建設に懐疑的な村人に必死に説明をして回っていた松塚議員の顔が浮かぶ。国策として提案されていた高速道路の建設ルートを磐舟村の上に通し、都会との連絡を強化して村に新しい風を取り入れる。それが彼の一番の願いだった。
彼の尽力によって、過疎化の進む磐舟村に活気が戻った。
「感謝こそすれ……悪く思う理由がないだろう」
そう言って再び歩き出す。
しかし二人はまだ、この川を流れる事件に気づいていない。