第5話・青山食堂
星田巡査に淹れてもらった温かいお茶を飲み終えたころには、もう太陽が山の向こう側に隠れてしまっていた。
とはいっても、太陽が見えているわけではないので、雨雲がさらに暗くなった程度の判断でしかない。
そうなってからようやく、実りの少ない推理を一人で思考していた貴史は、顔を上げる。
彼は外が暗くなっていることに気づいた、驚いて掛けてある時計に目を向ける。
時刻は七時半を指していた。
「しまった」
つぶやく貴史に、あかりは首をかしげる。
「どうしたの?」
「実はこのあと慎二兄さんの青山食堂に行く予定なんだが……雨が止むまで待ってたら約束が守れないぞ……」
焦る貴史を見て、駐在所の星田巡査は「それなら……」と優しく微笑んだ。
「それなら、うちに傘が何本かあるから貸してあげよう。もう体は温まったかい?」
「はい、本当ですか! 助かります」
貴史は安堵し礼を言う。
幸いにも駐在所には予備の傘が四本あったので、あかりと春香は二人で一本を使い、男三人は一本ずつさして市街地へ戻ることになった。
この時の貴史は、幾野恵美の行方不明が惨劇の予兆だとは、微塵も考えていなかった。
せいぜい、人懐こい笑顔を浮かべた恵美ちゃんが「お騒がせしました」と、舌を出して謝る姿を想像していたくらいである。
貴史がしていた推理など、かくれんぼで隠れた相手を探す程度の気楽なものだったのだ。
大事になるかもしれないなんて、不謹慎な空想だと切り捨てていた。
貴史以外の面々も、おおよそ同じように楽観視しているようで、皆貴史の夕食に付き合おうと談笑しているうちに、深く悩む者はいなくなってたのだ。
*
側溝が溢れかえるほどの大雨。
寺社長は、昼間に森と話し合った案を会社に持ち帰らないといけないと言って、駐在所で別れていた。
そして旅館から車で五分。
雨に濡れた服を着替え直した貴史と森とあかりと春香は、貴史の車で夕食に来ていた。
市街地の外れにあるこの青山食堂は、貴史たちの二つ年上の青山慎二と、慎二の姉の美香穂が切り盛りしている小さな食事処である。
「久しぶりー」
店内で食事の準備をしていた慎二と美香穂に声をかけながら、貴史は入口の暖簾をくぐる。
青山食堂の店内は広くなく、四人がけのテーブルが二つとカウンターが六席ほどで、小ぢんまりとした空間に収まっている。
今日は大雨のためか、貴史たち四人以外の客はいない。
「よぉ貴史! それにあかりや春香ちゃんも雨の中よう来てくれたな!」
暖色の柔らかい照明の下で、頭にバンダナを巻いた慎二が手を上げて笑う。
料理の仕込みをしていた美香穂も、それに続いて微笑んだ。
「ふふっ、隆太兄さんもお疲れ様。今日は空いているから好きなところに座っていいわよ」
「まるで貸切だな」
慎二や美香穂に久しぶりに再開した喜びで浮かれる貴史は、慎二達のいるキッチンと対面するカウンターに腰を下ろす。
あかり達も貴史に続いてカウンターに座る。
そこに慎二が、ドンッとビールジョッキを置いて言う。
「貴史ももう二十歳だろ? こいつは俺からの奢りだ。貴史の帰郷祝いにパーっと飲もうぜ!」
慎二は森にもジョッキを手渡すと、あかりと春香の方を向き言う。
「あかりちゃんや春香ちゃんもお酒飲むか?」
突然話を振られた春香は、ワタワタと手を振って断り、慎二のテンションに慣れきったあかりは軽く流す。
「あのねぇ慎二兄さん、そんなこと言ってるとまた美香穂姉に怒られるわよ?」
「あかりちゃんはクールだなぁ、冗談だよ冗談。二人はお茶でいいかな?」
「ええ、そうしてもらえると助かるわ」
あかりが答え春香が頷くと、既に手元に用意していたお茶を二人に差し出す。
その様子を見て貴史は笑う。
「このやり取りを見ると、やっぱり帰ってきたんだなって感じるよ」
貴史の笑顔に慎二は満足そうに頷くと、彼自身もビールの入ったジョッキを掲げて音頭を取る。
「よっしゃ! じゃあ早速! 貴史の帰郷に乾杯!」
「「かんぱーい!」」
元気よくグラスのぶつかる音が響いた。
「……ってコラ慎二! あんたまで飲んでんじゃないわよ!」
……もう一つ、げんこつの音と美香穂の怒鳴り声も響いた。
*
青山慎二と美香穂とその両親が経営する青山食堂。
慎二は酒だ酒だとはしゃいでいるが、決して居酒屋ではない。慎二と美香穂が作るのは、煮物や魚料理などの和食が主である。
すると、貴史たちがメニューを頼む前に、カウンターの上に慎二が料理を出してきた。
「慎二兄さん?」
不思議に思った貴史は慎二の顔を見る。
とうの慎二はニカッと笑って、こう答えた。
「お前ブリの照り焼きを頼むつもりだったろ? 顔を見たらわかる」
確かに目の前に差し出されたのはブリの照り焼きであった。
寸分狂いなく貴史の好物である。
「慎二兄さんは心が読めるかと思ったよ。はは、いただきます」
「おう、ありがたく食え!」
そうやって笑いながら、慎二は森隆太に鶏五目ご飯を出す。
「こっちは隆太兄さんの好物だ。鶏五目と照り焼きは、隆太兄さんと貴史が頼みまくるから、今ではもう俺の得意料理だ」
胸を張って自慢する慎二。
そしてその自信を裏打ちするように、醤油の香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。
「なーに言ってんだ。慎二は店を任されるようになる前から料理出来てたじゃないか」
森隆太は昔を懐かしみつつ五目ご飯を美味そうに頬張る。
貴史のとなりでは、あかりと春香が美香穂から料理を受け取っていた。
「美香穂姉の料理は美味しいから好き!」
そう言いながら、あかりは小皿に盛られた肉じゃがを口に運んでいる。
春香も幸せそうに味噌汁を飲んでいた。
貴史はあかりの食べる様子を見ながら、ふと訊ねてみる。
「ところであかりは肉じゃが作れるようになったのか?」
以前二人で青山食堂に来た時も、あかりは美香穂の肉じゃがを食べて絶賛し、自分も作れるようになりたいと言っていたのだ。
貴史がその出来事を思い出したことを、すぐに察したあかりは笑う。
「ふふ、私を誰だと思っているのよ。美香穂姉に教えてもらったから、もういつでも作れるわよ」
それを聞いていた慎二は、興味津々な顔で話に食いついてきた。
「へぇ、それは頼もしいな。今度作ってくれよ」
しかし、あかりは少し顔を赤らめてから、慎二の要求を却下した。
「慎二兄さんじゃなくて……、私は貴史のために肉じゃが覚えたの。それとブリの照り焼きも! 慎二兄さん知っててからかうのは止めてちょうだい!」
貴史はあかりの発言に少し驚いた。
そして同時に嬉しかった。
「あかり……そこまで俺のことを思ってくれているんだな!」
「ちょっとやめてよ! もー、せっかくドッキリで作って驚かせようと黙ってたのに、全部自分で言っちゃってるし……」
あーッと恥ずかしさで叫ぶあかりに、美香穂はそっと手を伸ばして微笑む。
「ふふ、あかりちゃんもクールにみえて可愛らしいところあるからねぇ」
「美香穂姉までからかわないでー!」
そんなドンチャン騒ぎは、日付が変わろうとするころまで続いた。
*
七月五日の午前三時。
人々は寝静まっていた。田んぼのカエルや森のセミも、大雨の今晩は合唱をしていない。
そんな頃、神社の裏手に一人で忍ぶ影があった。
彼は雨に打たれながら、神社の蔵を開ける。扉には鍵が掛かっていなかったので、なんの障害もなく中身を晒す。
手に持っていた懐中電灯で蔵の中が照らし出されると、彼のお目当てが鎮座しているのが見えた。
磐舟神社に奉納されている七夕の神器だ。懐中電灯の光を浴びて、青い竹鞘が仄かに光る。
箱には納められておらず、剥き出しで置いてあったことを僥倖に思いながら、彼はは迷わずそれに手を伸ばし、素早く懐にしまい込む。
悪天候にも関わらず、その一連の作業には無駄がなかった。
もともとここに置いてあるのは知っており、去年も一昨年も盗みに入っているためだろう。
それに加えて、過去にバレなかったという実績からくる自信もあった。
素早く抜け出すと、もとあった通りに扉を締める。
彼は手に入れた神器を見てほくそ笑み、懐中電灯の光を消すと、水たまりを蹴って闇の中へと姿を消した。