第1話・帰郷
七月四日金曜日の四時半頃。
村境にある長いトンネルを抜け、高速道路の案内標識に『磐舟村』と書かれてあるのを見ると、天野貴史は「ふぅ」と肩の力を緩めた。
「磐舟村に帰ってくるのも半年ぶりか」
半年前までは村からほとんど出なかった貴史にとって、五ヶ月も村から離れているのは初めての体験であったため、再び村の名前を見てひと安心したのだ。
都心から高速で約二時間。三年前の春にようやく竣工したこの高速道路のおかげで、ずいぶんと移動が楽になった。
高速道路の両側に高くそびえる防音壁が邪魔をして、肝心の村が拝めないが、それもここの料金所を抜け一般道に入ればすぐに見える。
やや西に傾いた太陽の眩しさに目を細めながら、昔と変わらない田園風景を見て懐かしさがこみ上げてきた。たかが半年でここまで懐かしいのは、それほどこの村に愛着があったのだろうと自己分析しながら、貴史は村の旅館へと車を飛ばす。
今、彼の一番会いたい人がそこにいるのだ。
村の役所や公民館・郵便局などの重要施設が集まる村の中心街『桜瀬区』に、村に一つの旅館がある。
村の真ん中を横に貫く河の畔に建つ『磐舟旅館』。小さな村に合わせた控えめな佇まいだが、手入れの行き届いた二階建ての木造建築は、老舗の貫禄をも漂わせる深い存在感があった。
車を降りて、両手を上に伸ばして思い切り新鮮な空気を吸い込む。心地良い夏の湿気を含んだ空気を存分に味わうと、意を決して旅館の扉を開いた。
すると、中から元気のいい少女の声が響いてきた。
「こんにちわー。もう会議の時間でしたっけー……ってあれ? ちょっと……」
丁度フロントの受付台を掃き掃除をしていた着物姿がよく似合う少女は、貴史の顔を見るなりその手を止めて固まった。目を点にしたまま貴史の顔を見る。
「よぉ、あかり。久しぶりだな。元気みたいでなによりだ」
片手を上げて気さくに声をかけると、あかりと呼ばれた少女はようやく止まっていた時間から解放されたかのように声を上げた。
「貴史じゃん!? え、いつの間に帰ってきてたのよ?」
「ついさっきだよ。はは、この感じだとサプライズは成功みたいだな」
貴史は珍しく慌てた声を出すあかりを笑いながら、靴を脱いで受付へ向かう。
「……」
「どうした、あかり? 愛しの彼が突然現れて声も出なくなったか?」
貴史は小刻みに肩を震わせるあかりの顔を覗き込む。
「……っ!!」
すると突然腰に抱きつかれた。彼女の短い艶のある黒髪から、いい香りが漂ってくる。
あかりはしばらく貴史の腰にしがみついていたため、貴史も笑ってそっとあかりの腰に手を回す。
これが感動の再開ってやつか。などと貴史は感動に浸っていたのだが、ガバッと顔を上げたあかりの発言は、少々貴史の理想とは外れていた。
「本当に貴史じゃん。おかえり」
あかりは、サプライズ時の感情的な叫び声とは打って変わって、落ち着いた優しい声音でそう呟いた。
これがあかりという少女の本来の姿だったと、思い返しながら返答する。
「ただいま。あかり」
「あー、どうして気づかなかったのかしら私」
貴史と同じ高校を出たあと、幼い頃から手伝いをしていた『磐舟旅館』で正社員として働いているあかりは、受付にある予約客リストをボールペンでつつきながら頭を抱える。
「天野貴史って、ちゃーんと今日の宿泊予約客欄に書いてるじゃん。……まさか、私にだけ知らせてくれなかったの?」
「その通り。ちょーっと悪戯心が騒いで、あかりの驚く顔が見たくなったんだ。普段の落ち着いたあかりじゃ滅多に見られないレアな光景だからな」
受付のカウンター越しに、肘を付きながら貴史が笑うと、あかりも「呆れた」とため息をこぼして微笑んだ。
ひとしきり笑ったあと、あかりは「で?」と疑問を口にした。
「ここで予約してるってことは、家には帰らないのかしら? もう半年も顔を合わせてないんでしょう?」
「あー、実家に帰ってもいいんだけど、あそこは朝から晩まで忙しいからな。ゆっくりするなら旅館の方が向いてると思ったんだ」
「そうね。貴史のおじいさんは村長だし物知りだから、みんな頼りにして昔は来客でいっぱいだったわね」
「そういうことだ。それに、ここに来れば一番にあかりに会えると思ったんだ」
「はいはい。私も久しぶりに会えて嬉しいわ」
あかりは貴史の言葉を軽く流すと、おもむろに取り出した宿泊客の名簿の天野貴史の欄に、慣れた手つきで生年月日と電話番号を書き込んでから聞いた。
「いつまでこっちにいる予定なのかしら?」
「七夕祭の翌日には寮に帰る予定だから……三泊四日かな」
「うんうん。三泊四日っと。へー意外、七夕祭りのためだけに帰ってくるなんて。ちゃんと約束を覚えてたのね」
感心したような顔をしながら、嬉しそうな声でチェックインの準備を済ませるあかり。
今度は貴史が思わず「心外だな」と呆れる番だった。
「丁度一年前のあかりとの約束なんだ。忘れる方が難しい」
「ふふ、そうね。用意できたわ、はいこれ部屋の鍵、無くさないでよ」
『106号室』と刻み込まれたガラス製の棒にぶら下がる鍵を受け取った貴史は、部屋に向かおうとする直前に、ふと忘れ物を思い出した。
「そうだ、もう一つサプライズを用意しているんだった」
貴史は、大学の寮でタンス替わりに使っていたスーツケースを脇に置き、手荷物の鞄から包装紙に包まれた箱を取り出す。
「気がきくじゃない。お土産か何かしら?」
受付カウンターの裏から出てきて貴史の取り出した小包を受け取るあかり。
「こっちは村の知り合いみんなへのお土産だ。多少の融通は効くように沢山買ってあるから、みんなで食べてくれよ」
包み箱を開いて出てきたのは、餅でみたらしダレを包み込んだ小餅であった。
「うわっ、美味しそうじゃん! 大きさも一口大でいい感じだし……」
あかりが箱の中身を見て歓喜していると、ガラガラッと旅館の扉が勢いよく開いた。
「あーちゃ~ん! こんばんわー」
のんびりした声が玄関口から響いてきた。
「あ、春香ちゃん! いらっしゃーい」
春香ちゃんと呼ばれた倉治春香は、高校の制カバンを担いだ制服姿のままフロントに入ってきた。貴史の二つ年下の高校三年生である。
貴史が振り返ると、春香も貴史の存在に気がついたようで「あら?」と片手を口にあてて驚いた表情になる。
「貴史お兄さんじゃないですか! あれあれ、こっちに帰っていたんですか!?」
「よぉ春香、久しぶりだなぁ! 実はついさっき帰ってきてな……帰省中はだいたい旅館にいると思う」
貴史が近づいてきた春香の頭をワシワシ~と撫で回していると、あかりが横からちょこっと顔を出して関心した声を出す。
「春香ちゃん……もしかしてもう、準備できたの?」
「はい。ほら……みんなの分集めてきました!」
貴史に頭を撫でられるがままにされながら、春香はカバンから長方形の折り紙の束を取り出して見せた。
それは七夕の短冊で、そこにはもう沢山の願い事が書かれている。
「へぇ、すごいじゃない。これで七夕祭の準備も捗るわ」
「高校で短冊に願い事を書いて集めたのか。そういえば前までは毎年書いていたな」
あかりと貴史がそれぞれの感想を抱き、口にする。
「貴史お兄さんは、大学で書いたりしないんですか?」
「うーん……向こうではこの村ほど盛んにやってないな」
「それはなんだか寂しいですね……」
貴史は今暮らしている都会の風景を思い出しながら答えると、春香も少し下を向く。
「磐舟村の祭は全部派手だし、余計にそう感じるよな。商店街とか駅とかで竹笹立ているのは見るけど、みんながみんなやっているわけじゃないんだよ」
「そうなのね。ずっとこの村育ちだから、この村の祭が普通だと思っていたわ」
あかりも意外そうにしている。
磐舟村は、年間を通して多くの行事を伝統的に行う村であり、それが普通だった。
「あぁ、俺もこの村の祭が好きだよ……そのこともあって早く帰ってきた」
貴史は「そうだ……」と思い出して、受付に置いてあった小餅を春香にも差し出してみる。
「ほら、お土産だ。春香のぶんもあるから、あかりと一緒に食べてくれ」
「ホントですか! ありがとうございます」
袋で小分けにされたみたらし入りの小餅を一つ取り、春香は感謝する。
すると、その様子を見ていたあかりが「ちょっと待って」と、小餅を食べようとしていた貴史と春香を止めて、少し考えてから提案した。
「せっかくなら、みんなで一緒に食べようよ。ぴったりなお茶用意するから、みんなが集まってる大広間で待っておいて」
言うやいなや、あかりは着物姿で小走りに去っていく。
「え? ……みんな?」
取り残された貴史は、横に立ち同じく取り残された春香に尋ねると、彼女は「ふふっ」と微笑んだ。
「貴史お兄さんは知らないのも当然ですね。……実は、七夕祭の実行委員と私たちみたいなボランティア……あっ私七夕祭りのお手伝いしているんですよ。……で、私たちがミーティングとか作業とかするのに、この旅館の大広間を使わせてもらっているんです」
その言葉を聞いて、貴史はギクッとした。実家が騒がしいから旅館に来たのだが、どうやら旅館も騒がしいらしい。
春香と並んで大広間へ歩いている途中、大広間から聞き覚えのある快活な声が聞こえてきた。
「なぁ、まさか七夕祭りの実行委員会に、俺のじいちゃんは入ってないよな?」
「村長のおじいさん? はい、勿論委員会ですよ。神主さんの次に村の祭と伝説に詳しい人ですから」
「あー……」
どうやら家に帰るのと、ほとんど状況は変わらないらしい。
……そんなことを考えながら、貴史は大広間のふすまを引いた。