序章・七夕祭
二年前
日が暮れて暗くなった空を、七夕祭の灯りが柔らかく照らしていた。
篠笛の柔らかい音色と和太鼓の控えめなリズムに合わせて、湖から打ち上げられる花火が夜空を彩る。
そんな七夕祭で賑わう神社の境内を、遠巻きに眺めている人影があった。
人目につかない暗がりに立つ彼(彼女)――ややこしいので便宜上、彼と記させてもらう――は、手に握った絹地の薄い短冊を何度も神経質に確認している。握り込むたびに縒れていく短冊には、彼の願い事が整った字で綴られていた。
彼は村の伝説を思い出しながら、もう一度決意を固める。
『――この村の七夕祭では本当に願い事を叶えることが出来る――』
その伝説に賭けて、彼は今日一日奔走した。伝説が事実なのか確認しなければならない。
これで最後の仕上げだ。握り込んでいたせいで手汗が染みてしまった短冊を、立ち並ぶ短冊の吊された竹笹の一つに、紛れ込ますように括りつける。
手早く作業を終わらせた彼は、何事もなかったようにその場を離れ、再び人だかりから距離をとる。
やはり伝説なんて、所詮伝説なのだろうか。
彼の脳内に不安が過ぎる。だがこの伝説以外に頼る方法がないのも事実。無理は百も承知している。失敗したらこんな挑戦は今日限りにしようと、何度も自分自身に言い聞かせた。
しばらくすると、スローテンポで打ち上げられる花火も最後の一発が打ち終わり、祭も最後の儀式を残すのみとなった。
七夕祭の最後の儀式こそが、彼の待ち望む儀式であった。
儀式と言っても、祭りの客が参加したり大袈裟なパフォーマンスをしたりするわけではない。詳細を今は割愛するが、神社の神主が竹製の黒い短刀とその柄頭に付いている束の絹製短冊の神器を使い、天の織姫と彦星に祈りを捧げるだけである。
この儀式のあいだは、絶え間なく流れていた和太鼓の奏音と花火が鳴り止み、篠笛の旋律だけになるのだが、賑わう参加客の村人たちはほとんどその事に気づかないし、そもそも神主の儀式にも目を向けない。
ただ彼だけは、祈りを捧げる神主の一挙手一投足すら見逃さないとう危機迫る眼差しで儀式を見つめている。
願いよ届いてくれ。
儀式の時間は、例年に比べて異様に長いように彼は感じた。それほどに不安であり待ち焦がれていた。
しばらくして滞りなく儀式が終了すると、彼は切なる希望を持って神社の境内から見下ろせる村の方角へと振り向く。
そして歓喜した。
短冊に書いた願いが、確かに現実のものになっていた。決して偶然では起こりえない事象が展開されている。だが彼以外には気づくことの出来ない些細な変化が実現していた。
「この村の伝説は本物だった……」
そう確信した彼は、口元を歪ませ笑い、拳を握り締めた。
夏夜の暑さに負けないほどに、興奮と感動で体が熱くなっていくのがわかる。
下調べは済んだ。これで、かねてからからの計画を本格的に実行へと移すことが出来る。
これでようやく、あの雪辱を晴らすことが出来るのだ。