閑話 鈍色の影
第64話になります。
宜しくお願いします。
<<ここまでのあらすじ>>
仲間達から距離を置き、キーリは一人で夜な夜な迷宮に潜り続ける。
フィアやアリエス達はそんな彼を心配するが、頑なにキーリは心を開かない。
ある晩、悩むフィアの元へユキが現れ彼女とアリエスを迷宮へ誘う。二人は奥へ進み、そこで凄惨な戦いを続けるキーリを目撃し、衝撃を受けた。そこに地面から格上モンスターであるダンジョンワームが現れる。
通らない攻撃に苦戦する三人。やがてキーリは自身の身を危険に晒してダンジョンワームを受け止め、フィアによって撃退するもキーリを庇ったフィアが重傷を負う。悔やむキーリだったがフィアとアリエスに諭され、思いの丈を吐露し、優しさに包まれて彼は仲間の大切さを実感するのだった。
スフォンの街を雷雨が襲っていた。
比較的乾燥したこの地域にしては珍しく、前日の夜半からシトシトと降り続いていたが今は前も霞むほどに激しい。まだ夕暮れの時間であるのに分厚い雲に覆われた街はすでに夜中のようだ。そのような天気のためいつもは賑わっている街も人気は無く、そろそろ書き入れ時のはずの商店では店主が椅子に座って恨めしそうに稲光を睨んでいた。
雷鳴が轟く。稲光がスフォンの街で最も大きな邸宅を照らした。
エルゲン伯爵家の屋敷の門は何時も通り固く閉ざされていて、外から見る限り屋敷の明かりも点いていない。使用人も全て不在であるかのようで、天候のせいもあってさながら幽霊屋敷を連想させる。
だが家の中は伽藍堂ではない。スフォンの街での政の一切を取り仕切る家宰やハウスキーピングを行う使用人たちは依然として何人もいて、しかしそんな彼らは今は動かない。
死んでいるわけではない。彼らは何事も無い場合に待機するよう定められた場所に人形のように立っていて、だがそれ以外の何をするでもない。ただその場に立っているだけだ。稲光が時折彼らの顔を照らし、感情が全て抜け落ちたような表情は不気味にしか思えない。
そしてその中でも、女性の使用人の顔には痣やミミズ腫れの痕が何箇所にも残されていた。
誰も動かない、死を連想させる静寂に支配されたエルゲン伯爵邸の中で、ただ一室だけ熱を帯びた部屋があった。
「うあああああああっっ!!」
人が発し、しかし人が発するにしては獣じみた叫びが響き、それもすぐに雷鳴に掻き消される。
ゲリーは叫びながら猫っ毛の強い金色の髪を掻きむしった。そして目の前に立っていた女性使用人の顔目掛けて拳を叩きつけた。
鈍い音を立てて女性が吹き飛び、絨毯の上に転がる。殴られたというのにその表情は無表情で、ゲリーが息を荒げながら「立てっ!」と叫ぶとのそのそと立ち上がり、何事も無かったようにゲリーの前に立った。
もう一度殴り飛ばし女性が転がる。だが今度はゲリーは何の命令も発せず息を荒げたままノシノシと部屋の隅に置かれた丸テーブルへ向かう。
テーブルの上には彼が好きだった菓子の類が置かれていた。この街の有名店に命じて作らせた逸品だ。しかしゲリーは口をわなわなと震わせると腕を横に払ってテーブルの上のものを弾き飛ばした。
「ああああああああっっ!!」
何もなくなったテーブルに向かって狂った様に両腕を叩きつける。次々こみ上げてきて治まらない怒りをそうして一頻り発散し、テーブルの脚を蹴り飛ばして倒す。そしてベッドの脇のサイドボードにおいてあった高級なワインのボトルをラッパ飲みする。
「くそっ、くそっ、くそがぁぁぁ!! お前も出て行けぇっ!」
立ったままだった女性に命じると、女性は礼をするでもなく命じられたままに部屋から出ていく。彼女が部屋を出て行くと同時にボトルが投げつけられ、けたたましい音を立てて中身が破片とともに飛び散っていった。
「くそぅ……なんでだ……」
誰も部屋に居なくなるとゲリーはベッドに腰を下ろして頭を抱えてうめいた。
ゲリーの姿はこれまでとは豹変していた。比較的小柄で、その割には腹が突き出した肥満体。何かを口に頬張っている事が多く、顔には常に油や汗が滲んでいた。傲慢な態度が鼻につくが、まんまるに太った姿は何処か愛嬌があったことも否めない。それが入学時の姿だった。
しかし今のゲリーの姿はどうか。身長はそのままだが体はやせ細り、頬は痩け、落ち窪んだ双眸の奥で瞳がギラギラと輝いている。
彼の容姿の豹変は、既に半年以上前になってしまったあの迷宮探索試験の日から始まっていた。
探索試験にてゲリーは魔法で他の生徒を操るという、謂わば禁忌を犯した。校長であるシェニアが直接王都を訪れてまで伝えられた報告に、エルゲン伯爵は自分の耳を疑った。
まさか、そんな馬鹿な事が。だがシェニアの事は伯爵自身もよく知っている。そんな彼女がわざわざ王都にやってきてまでそんな冗談を言うわけがない。それでも信じられず何度も彼女に尋ね返したが返ってきた答えは同じであった。
伯爵はすぐに全ての仕事をキャンセルしてスフォンに向かう。馬車の中でシェニアから子細を聞き出し、そして次から次へ出てくる事実に気が遠くなりそうだった。いや、実際気が遠くなり、シェニアに回復魔法を掛けてもらっていた。
操ったのが単なる平民であればまだマシだ。無論平民でも禁忌は禁忌。到底許されることではないが、事を大事にしないだけの手段はあった。これが我が子のしでかした事でなければ、貴族であっても平民であっても正当な手続きの元で正当な処分をするよう働きかける公正な性分の伯爵だが、さすがに三男とはいえ息子とあれば信念を曲げてでも守ろうとしただろう。平民に頭を下げるのも辞さない覚悟だった。
だが操られた者の多くが貴族の子弟であったと聞き、事はすでに穏便に済ませられないのだと伯爵は知った。
スフォンの別邸の前で殺到する貴族たちに頭を下げ、ともかくも本人から話を聞かなければ、と屋敷に入ってゲリーを呼び出した伯爵だったが、そこでも言葉を失う事となった。
でっぷりと突き出た腹や何処かふてぶてしい態度は彼の知る息子だ。だがそこに居たのは息子の形をした別の何かではないか。そう思わずにはいられないほどに――ゲリーは壊れてしまっていた。
当人から事情を聞こうにも噛み合わない会話。ボソボソと話したかと思えば突然ヒステリックに喚き散らし、家の中で魔法を使おうとして使用人たちに慌てて押さえ宥められる時もあった。そして今度は幼子のようにさめざめと泣き始めるのだ。
「一体どうして、このような事に……」
止む無く使用人の一人ひとりから事情を聞き出し、だが彼らが知る情報は断片的だ。それでも多くの情報を繋ぎ合わせるとシェニアから聞いた話と相違が無い事を確認でき、またシェニアが知るべくもない邸宅内での生活が明らかになった。そして彼が報告を受けていた内容とはかけ離れている事を知り、伯爵はソファの上で怒りに握り込んだ手が震え、しかし項垂れるしかできなかった。
「どういう事だ……! 手紙の内容と全く異なっているではないか……!」
伯爵は執事長を呼び出し、詰問する。だが執事長は困惑したように新たな事柄を報告した。
「誠に申し訳ございません。旦那様へのご連絡は全て家令の方々にお任せしておりましたが……」
「なに? 私への連絡はお前に任せたはずだが……」
「旦那様が王都へ向かわれて以降、家令の方々に権限を取り上げられてしまいました。その家令共ですが、数日前から全員姿を消してしまっております」
そこで伯爵は、全てが仕組まれていたのだと悟った。
仕組まれていたとはいえ、証拠は何も無く何者の手引だったのかも不明である。息子の様子を見るにゲリーが自発的にあのような愚行に及んだとも考えづらいが、だからといって行動そのものが無かった事になるはずもなく、そのような事を他の貴族に説明しても責任逃れとの誹りは免れない。
伯爵はすぐに決断した。心神喪失しているとしてゲリーを半永久的に幽閉し、それを罰として貴族たちに納得させた。養成学校もこのまま停学のまま、事実上の退学処分とすること。ただし、シェニアと交渉して何とか一年半が経過した時点で卒業扱いとする事を勝ち取った。むろん冒険者としての資格は無く、単なる卒業だが、それは最後の親心だったのだろう。
そうした諸々の手続きと指示を済ませると、息子と共に過ごせなかった、息子に迫っていた凶手を見抜けなかった不甲斐なさを悔みつつ、後ろ髪を引かれる思いで伯爵は王都へ一時的に戻っていった。王宮ではまだ彼の手が必要とされている。息子と過ごしたいが、王が行っている改革に彼は不可欠な存在だった。せめて引き継ぎだけでも済ませなければ。
深い悔恨の念に囚われた伯爵。魑魅魍魎共が跋扈する王宮で長く過ごしてきた彼にとって、自身と身内に対する悪意への感性は鋭い。だから王宮で発言力を持ち続けられている。
しかし今回は気づけなかった。不甲斐なさを嘆き、心を痛めながらも既に終わってしまった事と無意識に位置づけていた。
だからだろうか。彼はまたしても気づけなかった。まだ、終わっていない事に。
「今日も荒れてるねぇ」
ゲリーが暴れて荒れ果てた部屋に何食わぬ顔で少年が入ってくる。少し長めの、ウェーブのかかった金髪を中央分けにし、見た目では何処か気弱そうな印象を抱かせる少年、ティスラだ。その見た目通り以前は気弱そうに振る舞っていたがそれは擬態である。そして今はもうそんな擬態すら必要性を感じないのか、飄々とした口調でゲリーに話しかける。
「ティスラか……」
「あ~あ、こんなに部屋を散らかしちゃって。ダメだよ? 八つ当たりしたい気持ちは分からないでもないけど、あんまり強くしちゃうとアレもすぐに壊れちゃうよ?」
「ふん……あんな人形なんて僕の気を紛らわすくらいしか能がないじゃあないか」
「その『人形』を望んだのは君なのにずいぶんな評価じゃあないか。その人形を作るための魔道具だって持って来てやったのに、お礼の一つも言えないなんてダメな子だね」
言葉はゲリーを責めるようなものだが、あどけなさが残る顔に浮かぶのは対照的な笑みだ。
人形――この屋敷の使用人を物言わぬ、ゲリーの命令を忠実に聞くだけの人形に仕立て上げたのは他ならぬティスラだった。ゲリーからは、自分の命令によって使用人を人形に仕立てさせたと思われているが、この屋敷の地下に魔道具、および必要な魔法陣を秘密裏に設置したのはもう何年も昔だ。
当時のティスラは屋敷の使用人という役割で働いていた。十にも満たないゲリーのお世話役のメイドとして、表面上は恭しく、時には彼の「姉」としての仮面も被って世話をし、そして歪んだ性格となるよう巧みに誘導していった。
(まさかここまで上手くいってくれるなんてね)
その甲斐があって、今の彼はティスラが思い描いていたような理想的な状態に仕上がっている。ティスラはほくそ笑む顔を隠すこと無くゲリーに晒した。
「そんなダメな子だから君の周りには誰も残らないんだよ?」
「うるさいっ!!」
「挙句の果てには、君が最も見てほしかったお父上からも見捨てられちゃったしねぇ」
「うるさいうるさいうるさいっ!! 父上の話はするなっ! お前は黙って僕の傍に居ればいいんだっ! 僕の言いなりになるしかない能無しの癖にっ!」
どうやらゲリーの中では、未だにティスラは彼の後ろで威を借りていた気弱な存在と認識されているようだ。或いは、そう認識する事で自分が優位な立場にいると錯覚したいのかもしれない。
ティスラはそんな彼が可笑しくて、クスクスと笑った。
「あれあれぇ? そんな言い方するんだ? どぉうしよっかなぁ? 幾ら温厚な僕でもちょっと腹が立ってきたな。君に比べれば能無しかもしれないけどね、君を見捨てちゃうくらいはできるんだよねぇ」
腹が立つどころか、可笑しすぎて笑い転げてしまいそうだった。どうして人というものはこんなにも脆いのか。無邪気にティスラは嘲った。
嘲笑を向けられたゲリーはうろたえた。それはティスラの表情を見て、ではなく単純に「見捨てる」というキーワードに反応しただけだ。今の彼には、顔色から人の感情を読み取るような真似はできない。
先程の強気な態度は何処へ行ったのか。ゲリーは捨てられそうな子供のように跪いてティスラに縋り付いた。
「だ、ダメだ! それだけはダメだ! 取り下げる! さっき言った事は撤回する! だから傍に居てくれ! お前にまで捨てられたら僕は、僕は……」
「はいはい。大丈夫、大丈夫だよ。僕は他の連中と違うからね。『エルゲン伯爵の息子』としてじゃなくて君という個人が好きなんだ。君がどんなに落ちぶれようとも君を見離したりはしないよ」
「そ、そうか? ならば良いんだ。それと、済まなかった……もはやお前だけが……」
「うんうん、分かってる分かってる。さあ、たくさん暴れて疲れただろう? ちょっとベッドに横になって休むといいよ」
ゲリーを安心させるように背中をポンポンと叩き、零したワインや食事で汚れたベッドに誘導する。
「ねぇねぇ」
そして幼子が母親にねだるような、甘えた声で、耳元で囁くのだ。
「どうしてこんな事になったんだろうね?」
途端、ゲリーの怯えていた瞳に力が戻る。奥歯を噛み締め、憤怒が顔を覆い尽くしていく。
「君はこの家で最も優れた才能を持っているんだ。光神様に最も愛されているのにこんなにも皆にも疎んじられ、不当な扱いを受けている。理不尽だと思わないかい?」
甘い、甘い囁き。寝所で遊女が優しく愛でるように、甘美な声がゲリーの中に染み込んでいく。もとより胡乱だったゲリーの思考が更にかき乱されて分離され、やがて指向性を持っていく。
「思う……」
「君はもっと皆から敬愛されるべき存在だ。皆が君を褒め称え、尊敬し、跪いて君の顔色を窺いながら、生きている事を君に許されている事を感謝すべきなんだと僕は思うんだ。君はどうだい? こんな唾棄すべき生き方をさせられていることを許せるかい?」
「許せ、ない……!」
「そうだよね? 許せないよね? こんな事になった原因って何だったんだろうね?」
それは、何だっただろうか。水面にたゆたう様なぼんやりとした意識の中で考える。だが、水中から浮かび上がってくる考えは途中で霧散して形にならない。そこに、もう一度甘い水が注ぎ込まれてくる。
「あれあれ? 忘れちゃったのかなぁ? 居たでしょう? 君を前にしても跪かない、なぁまいきで君の大っ嫌いな平民が」
そうだ、居た。あれは、誰だったか。
「居たでしょう? 光神様の力を持つ君を地面に這いつくばらせた生徒が」
居た。確かに居た。
「居たでしょう? いつだって君を見下して、情けまで掛けようとした愚か者が」
居た! 居た! 居た! この自分に憐憫のこもった視線を向けてきた不遜な人間が居た!
「そいつが嫌いだよね?」
「……大嫌いだ」
「そいつが憎いよね?」
「憎い」
「そいつを殺したいよね?」
「殺してやる……! 引き裂いてやる。絶望の底に突き落として四肢をバラバラにして目をくり抜いて腸を引き出して生まれてきた事を後悔させてもまだ足りない! アイツは、アイツらはこの僕を僕を僕を僕を僕を僕を僕を僕を僕をっ!!」
「はいはーい。落ち着いて落ち着いて」
興奮してベッドの中で呪詛の様な叫びを吐き出し始めたゲリーの目を、ティスラは優しく覆った。
「今はまだ君の怒りを発散すべき時じゃないんだよ。今は、ほら、そうやって目を閉じて力を蓄えるんだ。君が怒れば怒るほど、憎めば憎むほど――悪意を膨らませれば膨らませる程、それは君の力になる。そうすれば今まで君を称えなかった彼らも君を称えずにはいられないほどの強力な力を手に入れるんだ。そうすれば今までの君の苦痛は報われるんだよ。いいね?」
「……ああ」
「後は僕に任せて。君が蓄えた力を、君が望む相手に思う存分に奮えるように全てを整えてあげるからさぁ?」
ゲリーは答えない。ティスラの手の下で目を閉じ、先程の暴れっぷりが嘘の様に、死んだ様に深い眠りについていた。そんな彼を見下ろすとティスラは無邪気に口を横に裂いた。
「そう、すーぐに君を幸せな場所に連れてってあげるからねぇ……」
2017/6/25 改稿
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