14-5 崩壊、そして・・・(その5)
第52話です。
宜しくお願いします。
<<主要登場人物>>
キーリ:本作主人公。体を巡る魔力は有り余っている反面、各要素魔法との相性が壊滅的に悪い。魔力の制御を磨くことでかろうじて第五級魔法程度は使えるが攻撃としては使えないため、主に人間離れした膂力で戦闘する。
フィア:赤髪の少女でキーリ達のパーティのリーダー格。炎神魔法が得意で剣の腕も学内でトップクラス。欠点は、可愛くて小柄な男の子を見ると鼻から情熱を吹き出すこと。
レイス:フィアに付き従うメイドさん。フィアは友達だと考えているが、レイス自身は一線を引いている。フィアの鼻から情熱能力を植えつけた疑惑あり。
シオン:魔法科の生徒で、キーリ達のパーティメンバー。攻撃魔法と運動が苦手だが頑張り屋さん。
ユキ:キーリと共にスフォンへやってきた少女。キーリとの付き合いは長いらしい。変態。
アリエス、カレン、イーシュ:キーリとフィアのクラスメート。いずれも中々の個性派揃い。
シン、ギース:探索試験でのアリエスのパーティメンバー。二人はマブダチ。
聖女は笑ってキーリに話しかけた。光神の像に背を向け、机の上に行儀悪く座り脚を組んでいる。太腿を支えにして頬杖を突き、少し傾いた頭からは輝くような銀色の長い髪が垂れ下がっている。
「今の聖女様はずいぶんと行儀が悪いんだな。もっとお淑やかなのかと思ったぜ」
お淑やかなはずがない。そんな女があのような残虐な真似をするはずがない。皮肉ってみせたキーリだが、聖女は愉快げに口端を歪めてみせた。
「あら? 『聖女』の私はお淑やかなつもりだけど?」
「あくまで聖女の役回りを演じている時、だろ?」
「よくご存知ね? 私のファンかしら?」
「聞いてるだけで反吐がでるようなレッテル貼りはよしてくれ。お前がどんな人間か、俺は知ってるんだからよ」
「へぇ」アンジェの顔が一層楽しげに歪んだ。「あの村が初対面かとも思ったけど、であればあそこまで怒り狂うはずもないものね。何処かで会った事があったかしら? ごめんなさい、忘れちゃったわ」
「――ああ、十年前に一度な。こっちはよく覚えてる、よっ!」
閉じた扉の前に立っていたキーリの姿が消えた。瞬間的に爆発的な加速を見せ、残像を残して一気にアンジェとの距離を詰める。アンジェはまだ机に座ったまま。逆手に持ったナイフを喉目掛けて突き立てた。
だが。
「――物騒な子ね。でも、貴方みたいな子供は嫌いじゃないわ」
アンジェはいつの間にか取り出した短剣でキーリのナイフを受け止めた。机から降りて喉にナイフが突き刺さるギリギリで弾き返し、命のやり取りに興奮して白い頬を赤く染めていた。
「人気者は辛いのよ? 外でいい子いい子してなきゃいけないし、堅苦しい所作ばっかりで肩が凝っちゃう。こうして体動かしてる方がよっぽど楽しいわ」
「そう、かよ!」
ゼロ距離とも言える超至近距離で、高速でキーリはナイフを突き出し、薙ぐ。次から次へと放たれるそれに、アンジェは少々面食らいながらも全てを弾いていく。
「ふふ、元気ね。その年齢でその実力……マイナーなはずの魔力の制御も同世代と比べて図抜けてるわ」
「お褒めに預かり恐縮だ! 時間を稼がれるのも困るからな! 一気に行かせてもらう!」
更にキーリの攻撃の速度が上がる。ナイフに混じって打撃が加わり、ナイフには炎神魔法が付与されて赤熱。アンジェの口からは更に感心したように溜息が漏れた。
「時間を稼ぐつもりなんてないわよ。どうせこの部屋には何があっても入らないように言ってあるし、入った瞬間に破門だって言い聞かせてあるから」
「余裕のつもりかよっ!」
「いいえ、思う存分楽しむためよ」アンジェは楽しそうに笑った。「村で貴方を見て分かったの。ああ、この子は私を死ぬ程憎んでるって。殺しに来てくれるって、ね。そして実際に貴方は来てくれた。ならこの時間を、殺し合いを堪能しなくちゃね」
「なら望み通り殺してやるよっ!!」
キーリのナイフの切っ先がアンジェの鼻先を掠める。熱が伝わり、だがアンジェの表情は変わらず何処か楽しげだ。
空を切ったナイフを瞬時に持ち変える。不規則な動きに一瞬アンジェの眼の色が変わり、大きくのけぞった。
チャンスだ。キーリはそのまま体を反転させ、彼女の腹部を蹴り上げた。
蹴り自体は両腕でガード。キーリの脚には、まるで分厚い鉄板を蹴りつけたような感触が残った。それでも彼女の体は天井近くまで跳ね上がり、しかしアンジェは抜群の感覚で姿勢を立て直して光神像の前に着地した。
その隙を見逃す程キーリの執念は弱くない。
「はあああああぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
着地点に向けキーリは地面を蹴る。地を這うような低い姿勢で迫り、アンジェが着地すると同時に渾身の力を込めて彼女の喉目掛けてナイフを突き出した。
だが――
「思った通り貴方は強いわ。だけど――」
キーリの視界からアンジェの姿が消えた。致命のはずの一撃が清浄な空気だけを切り裂いた。
何処に、と思考が追いつく前に直感が警報を鳴らした。
咄嗟に上半身を後ろに引いた。真下から彼女の白く細い脚が顎目掛けて天井目掛けて伸びた。顎から蹴り上げられそうなところを辛うじて避け、しかしすぐに腹部に強烈な衝撃が加わった。
一瞬にして視界が暗転。かと思えば白く染まり、部屋の壁に背中を叩きつけられたところで視界が元に戻った。そして見えるのは、キーリの方へ向けているアンジェの脚の裏。女性らしい細く白い脚から繰り出されたその威力は、まるで迷宮でゴーレムに殴りつけられた時にも匹敵しそうだった。
「まだまだ、ね。狙いが素直すぎる。自分より強い人間を殺す経験が無いからかしら?」アンジェは脚を下ろし、乱れたスカートの裾を整えた。「それに貴方、魔法が使えないんでしょう? 自分以外の武器に魔法をまとわせたり器用なことはできるのに、魔素の高まりは感じられない。自分の周囲にしか魔素を制御出来ないからそれをひたすらに鍛えたってところかしらね? 年齢の割に並外れた強さからもしかしたら神威を持っているのかとも思ったけれど、そうではなくてひたすらに努力で実力を積み上げてきたタイプ。それだけでも驚嘆に値するわ」
「……お見通しってところか」
口に溜まった血を吐き出してキーリはローブの裾で拭った。顰め面で睨みつけるが彼女は笑みを崩さない。
「ええ。でも嫌味でも何でもないのよ? 素直に凄いと思ってるわ。だけどまだ爆発力が足りない。制御力は並外れても、その活用の仕方を勉強しなさい。色んな人間と戦いなさい。多くの人間を殺しなさい。そうしてそうすればもっともっと強くなる」
敵であるはずのキーリに助言を与えるアンジェ。先ほどの攻防でもそうであったが、彼女の態度にはまだまだ明らかに余裕がある。今だって追撃を加えることだって可能であるはずなのだ。なのにそうしてこないところを見ると、彼女にとってまだまだキーリは敵とさえ認識されていないのだろう。
悔しさがこみ上げる。フードの下で強く奥歯を噛みしめる。砕けそうなくらいに噛みしめる。ここまで、ここまでまだ差があるのか。知らず握りしめた拳から赤く血が流れ出た。
「魔法が得意だったんじゃねぇのかよ……」
「元々得意なのは魔法よ? そうね……」
かつての記憶ではアンジェは魔法を中心とした攻撃をしていたはずだ。ここまで魔力制御こそしているものの、本格的に魔法を使っていない。
キーリの呟きに少しだけ考えこむ仕草をするアンジェ。その隙にキーリは立ち上がり、何をするのかとアンジェの様子を注視する。
「いいわ。特別に見せてあげる。かかってきなさい」
そう言うと同時、アンジェの全身が淡く輝きだす。部屋全体が薄い膜のようなものに包まれ、部屋自体が浄化されていくように思える。同時に、キーリの体が一層重くなる。
それでもキーリは動いた。何をするつもりかは分からないが、ただでさえアンジェに比べればキーリの手札は少ない。彼女の実力を鑑みるに、向こうにペースを握られた状態になればそれをひっくり返すだけの実力は今のキーリには無い。
故に先手必勝。
初撃から全力。後のことなど考えず魔力を手足に注ぎ、先ほどの攻防よりも更に疾くキーリは走った。一瞬にしてアンジェの懐に入り込む――その前に嫌な予感を覚えて横っ飛びにキーリは転がった。
「勘は悪く無いのね。やっぱり貴方いいわ。きっと、いえ、間違いなくもっと強くなる」
先程までの場所に突き刺さる光の矢。石の床に何の抵抗もなく刺さり、だがぱっと見た限りではそれだけだ。しかしキーリは感じ取っていた。かつて、十年前に自分とユーミルを襲った時と同じその矢の中にはおぞましい程の魔力が込められていることを。そしてそんな魔力を光の矢という、形を持たないものに内包させたまま破裂も消滅もせず、しかし威力を殺さずに維持しているその恐ろしいまでの彼女の技術を。
「ぼーっとしてていいのかしら?」
その声にハッとする。アンジェを見遣れば、すでに彼女の頭上には十本近い光の矢が展開されて、射出される瞬間を待っていた。
いや、彼女の頭上だけでは無かった。天井にも、キーリの右手側にも左手側にも浮かぶ光の矢。十本や二十本ではきかない、数えるのも愚かしい矢、矢、矢。それら全てがキーリを射抜こうとしかるべき時を待っている。
「ちくしょうがっ……!」
「行くわよ?」
ご丁寧にも合図をしてから彼女は矢を飛ばした。それが突き刺さるコンマ数秒だけ早くテーブルの上をキーリは転がって避け、矢は容易く貫いていった。
「次」
テーブルの影のキーリ目掛け、今度は真上から矢が降り注いだ。四肢を使って獣の様な動きでそれをかわし、広い場所へ飛び出したところで体勢を立て直したキーリはジグザグに動きながら隙を窺う。
(何処か、何処かにチャンスは無いか……粘って魔力切れを……いや、そんなヘマをするはずねぇ)
相手は英雄である。油断はしているようではあるが、まさか自分の魔力残量の計算さえできないほど愚かではあるまい。
下の階でやった様に、光神魔法を吸収するか。刹那の時間に問い、出てきた解は不可。並の光神魔法であれば吸収したり、或いはゲリーを相手にしたように弾くこともできようが、今のキーリの能力では貫かれるのがオチだ。よしんば吸収できたとしてもその隙に他の矢に貫かれるのが目に見えている。
(隙があるとすれば、この女が俺を本気で殺すつもりがないということ。そして俺のアドバンテージはこの特殊な体、そして……)
殺しにかかっているように見えてもギリギリキーリがかわせる場所を狙っている。だが、積極的に殺そうとはしていなくとも、死んだら死んだでその程度の相手だった、というくらいにはキーリの命を軽く見ている。
千載一遇のチャンスを得る方法は思いついた。見られたらフィアやシオン辺りから怒られそうだが、そんな些事に気を遣っている余裕は無い。今、こうして二人で戦闘できているこの事態こそがまたとないチャンスなのだから。
「一生懸命頭を働かせるのはとても大切な事よね。魔法の隙を探して反撃手段を考える。でも――」
キーリの目の前で声が聞こえた。思考に意識を割き過ぎて生まれた目の前に対する注意の欠如。
「幾らなんでも接近戦から意識を逸らすのは愚策じゃなくて?」
「――っっ!!」
咄嗟に両腕で腹から顔にかけてガード。だが横から腕だけを蹴り飛ばされた。そして晒される無防備な姿。アンジェからの連撃が再びキーリの体を大きく弾き飛ばした。
再度壁にぶつかり、衝撃に息が詰まる。完全に意識がブラックアウトし、しかしコンマ数秒にも満たない時間の後に意識を取り戻した。
直後。
「……が、あぁぁっ……!」
アンジェが放った光の矢がキーリの腹を貫いた。
「あら?」
次々に腕やはためいたマントに突き刺さっていく矢。キーリの体は壁に完全に縫い付けられ、ガクガクと体を痙攣させこみ上げた血を吐き出して――キーリは動かなくなった。
「もうちょっとやれると思ったのだけれど……実力を見誤っちゃったかしら」
残念そうにそう呟くとアンジェは溜息を吐いた。床やテーブルを貫いた光の矢から魔力を解放して消していく。そして石造りの床を鳴らしながらキーリに近づいていき、あちこちから血を流してピクリとも動かない彼の前に立った。
「ふぅん……体格もいいからどんな強面の男の子かと思ったけど、結構可愛い顔してるじゃない」
ずっとキーリの顔を隠していた黒いフードを剥ぎとって顔を覗き込む。口元は吐き出された血で汚れ、左頬もかすめた光の矢によって赤く筋状に血が流れ落ちている。半分閉じられた瞼の奥の瞳には光は無く、半開きの口はすでに呼吸をしていない。
「可愛い死に顔……声を聞かなかったらまるで女の子みたい。目つきが鋭すぎるのがマイナスポイントだけど」
くい、と顎を持ち上げて顔を自分の方に向ける。痩せているのにどことなく肉付きの良い頬に鼻筋がスッと通った小鼻。程よく厚い唇に形の良い眉。目を閉じていれば、普段からフィア達にイジられている目つきの悪さも和らぎ、少しキツ目の性格の女の子のようだ。
もうちょっと遊びたかった、と思いながらアンジェはそんなキーリの顔を眺めていたが、ふと昔に似た顔を見たような記憶が過ぎった。随分と昔の記憶であることは思い出せたが、それが何処だったかが分からない。自分をこの男の子が憎んでいるのは確かで、であれば出会った事があるのは明白。
普段は自分を殺そうとする相手の顔など気にも留めないのだが、ここ最近はそういう相手もめっきりいなくなってしまったからだろうか。妙にキーリの事が気になり、アンジェは記憶を掘り起こそうとキーリの顔を覗き込んだ。
――その時だった。
「――っ!」
キーリの目が突如として見開かれた。黒い眼の中に写ったアンジェの姿を捉え、彼女の視線とキーリの視線が交差した。
呼吸は確かにしていなかった。予想していなかった事態に驚き、アンジェはキーリから距離を取ろうと後ろに退こうとした。
だが――
「捉えた……!」
キーリの口が歪んだ。アンジェの体は動かない。何か恐ろしいモノに魅入られたかのようにアンジェの体は微動だにしない。アンジェの中に、初めて恐怖が芽生えた。
キーリの目は、アンジェの瞳を確かに捉えた。彼女ほどの魔力を持っていれば接近してしっかりと目を覗きこまなければ動きは拘束できない。それが今のキーリの実力だ。そのために敢えて死んでみせ、そして油断して近づいたアンジェの動きを封じた。
キーリは歓喜した。この時を、この時を待っていた。喝采を叫ぶ。十年前にアンジェが殺し損ねたおかげで手に入れた自らの身体を活かして、アンジェを殺すことができる。
「……っ!」
間髪入れずにキーリは重く感覚の鈍い右腕で、それでもしっかりとナイフを握りしめた。
「くたばれ」
短い言葉にありったけの憎悪を込め、そして口を喜びに歪めてそれをアンジェの首に目掛けて突き出した。彼女の目は揺らぎながらキーリの瞳に囚われたままだ。
そして紅い鮮血がキーリの顔を汚した。
「ぐっ……!」
「なっ――!」
しかし彼女は死ななかった。動けないはずの体を、だが左腕だけを動かしてキーリのナイフを受け止めていた。
刃先が手のひらを貫通し、真っ赤な血が流れ落ちる。相当な痛みのはずだがアンジェは何処か嬉しそうに笑った。
「……何をされたか分からなかったけど、まさかこんな奥の手を持っていたとは思わなかったわ」
「クソッタレが……!」
手のひらから引き抜き、今度こそともう一度ナイフを突き立てようとしたキーリ。この一撃は受け止められたがまだアンジェの動きは鈍い。もう一撃だ。
「アンジェリカ様っ!」
だが突然扉が乱暴に押し開けられ、そこからセリウスが飛び出してきた。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
「ちぃっ!!」
ナイフを握ったキーリの姿を認め、セリウスは怒声を上げてキーリ目掛けて斬りかかった。やむなくキーリもアンジェからセリウスにターゲットを変え、振り下ろされた長剣をナイフで受け流す。だが血を多く流した今のキーリにはそれを受け止めきれる力は残っていなかった。
力を受け流しそこね、バランスを崩したところでセリウスの蹴りが、光の矢によって穿たれた腹に突き刺さる。
「っ、ぐぁ……っ!」
耐えることができずに蹴り飛ばされ、強く床に背中を打ち付ける。一度バウンドし、壁に激突する直前で体勢を立て直すも、血を失った体では立ち上がることができない。四つん這いの状態で歯を食いしばり、何とか追撃に備えようとするも激痛と揺れる視界で体は言うことを聞いてはくれない。
しかしセリウスからも、そして拘束が解けたはずのアンジェからも追撃はやってこなかった。
「アンジェリカ様、お怪我は……! ああ! 血が……お待ち下さい、今すぐに手当を……」
セリウスはキーリなど眼中に無くアンジェの真っ赤になった手のひらを見て激しく狼狽していた。腰の布袋からハンカチを取り出し、アンジェの手のひらにすがりついた。
しかし、アンジェはその手を力いっぱい払いのける。驚きに動きが固まったセリウスの顔を睨みつけ――その整った顔を怪我をした左腕で殴りつけた。
「なっ!」
思わず声を上げたのはキーリだ。アンジェのまさかの行動に戸惑い、殴り飛ばされたセリウスに向かって歩く彼女を唖然と見上げた。
「あ、アンジェリカ様……」
「誰が」アンジェは倒れたセリウスの首を掴むと、自身よりもずっと大柄で鎧を身につけたセリウスの体を軽々と持ち上げて冷たい声色で問い質した。「誰がこの部屋に入っていいって言ったかしら? 誰も部屋に入れるなとお前には伝えたはずだったけれど、邪魔していいとは一言も言ってないわ。それとも、私の記憶違いなのかしら?」
「が……は……しかし、アンジェリカ様に危害を加えるのを見過ごす訳には……」
怒りに口端を震わせるアンジェ。セリウスは言い訳を口にするが、次の瞬間には彼の体は机に叩きつけられた。
砕ける木製の長机。破片が飛び散り、衝撃に一瞬呼吸が止まったセリウスの口からは掠れた呼吸音が漏れる。
「もう一度聞くわ。『誰』が邪魔して良いって言った?」
「だ……誰も仰っておりません。全ては私の独断です」
「そう。私の指示を破ったわけね?」
「はい……仰るとおりです」
「私はね、飼い犬に噛まれるのが何より嫌いなの。次に私をコケにしたら――破門にした上で四肢を魔物に喰わせた上で魂まで殺してやるから。そのつもりでいなさい」
最後にそう言い捨てるとアンジェはようやくセリウスの首から手を離した。激しく咳き込むセリウスは苦しそうにしながらもアンジェを見上げた。
「それでも……」
「何? 言い訳をこれ以上重ねるなら今すぐ殺してあげるわよ?」
「それでも私は、アンジェリカ様を守るためであれば同じ事を致します。たとえ貴女に殺されたとしても」
「脅しじゃないわよ?」
「アンジェリカ様に殺されるのであれば本望です」
真っ直ぐにセリウスはアンジェの目を見て話す。そこには怯えも恐怖も無く、一途な想い。彼の口から出た言葉が本心であると理解したアンジェは「はぁ……」と溜息を吐いた。
「勝手になさい」
「感謝致します」
「さて」アンジェは呆れたように肩を竦めるとキーリへ向き直った。「ごめんなさいね。とんだ馬鹿が邪魔に入ったけれど、続きを――したいところだけど、それどころじゃなさそうね」
「ふざけんな……俺はまだ――」
立ち上がり、キーリは右手のナイフを構える。しかし視界は揺れ続け、それに引きずられるように不規則に体も左右に揺れる。立っているのもやっとの状態でとてもこの聖女を相手に戦闘を続けられるような状態では無いことは明らかだった。
それでもなお敵意を露わにして戦おうとするキーリを見て、アンジェは微笑んだ。
「ここで無茶をする必要は無いわ。このままの状態で戦っても私には勝てない。だけど貴方はまだまだ強くなる。その伸び代をここで潰えさせてしまうのは惜しいわ。
――ねぇ、貴方。私の下に来ない?」
「は……?」
「なっ!」
突然のアンジェの誘い。一瞬何を言われたか理解できず唖然とし、キーリは霞む視界でアンジェの表情を伺う。薄い笑みを浮かべているが、彼女が本気で言っていることが分かった。
ギリ、とキーリの奥歯が軋んだ。
「ふざけやがって……誰がテメェみてぇなアバズレに仕えるかよ」
「そう、残念ね。結構本気で言ってるのだけど、ま、それはそうよね」
キーリが自分の元にやってくるとは本気で思っていなかったのだろう。忌々しそうに暴言を吐き捨てるキーリを見て、アンジェは肩を竦めてみせるだけだった。
「貴方、私を本気で殺したいのでしょう?」
「ああ……叶うことなら今すぐにテメェのその口を引き裂いて腸引きずりだしてやりてぇくらいにな」
「そう、なら――ここは退きなさい」
アンジェのその言葉に、キーリは目を剥いた。
「なっ、アンジェリカ様、それは……!」
「お前は黙ってなさい」
「……御意」
流石に黙っては居られないと、セリウスが口を挟みかけるが、アンジェの塵芥を見るような冷たい眼差しと言葉を受け、眉間に皺を寄せて引き下がった。
髪を靡かせてキーリに向き直り、アンジェは優しく、まるで聖女らしい笑みを浮かべた。
「今日は誰も私の元へはやって来なかった。賊は侵入を試みたけれど警備の堅固さにすぐに引き下がった。そういう事にしておいてあげる。だからもっともっと鍛えて……いつかまた私を殺しにきなさい」
諭すように彼女は、神の教えを説くようにしてキーリに、将来の自身への殺害を教唆した。
そんな彼女とは対照的にキーリはクシャリと顔を歪めた。ダメージとは別の原因で体が震え、怒りと同時に泣き出しそうな顔で歯を食い縛った。
「なんだよ、それ……俺を見逃すっていうのかよ……」
「そうよ。私は貴方が気に入ったの。だから情けをかけてあげる。みっともなく逃げなさい。自分の弱さを呪いなさい。悔しかったら強くなりなさい。もっともっと私に対する憎悪を膨らませて、悪意を世界に振りまきなさい。それまで待ってあげる。
ほら――お友達も迎えに来たみたいよ」
アンジェが顎でしゃくり、涙を堪えるキーリが振り向く。
セリウスが入ってきた時のまま大きく開け放たれた木製の扉。そこに黒いローブを羽織ったユキがもたれかかっていた。
2017/6/4 改稿
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